« 『紀土-KID』 | トップページ | 「1.21ジゴワットだと?」 »

エスキラーチェの暴動

1766年3月に、エスキラーチェの暴動というのがスペインで起こる。僕が無知なせいもあるが、この暴動の正体が何であったのかはあまりよく分かっていない。一応表面的な説明としては、背景に穀物、とりわけ小麦とその他生活に必要な食糧価格の高騰があって、庶民の生活が逼迫していた。それから、当時の大蔵大臣であったエスキラーチェ侯爵(Esquilacheはスペイン語綴りで、本当はSquilece)が長いマントにつばの深い帽子の着用を禁止したことも原因といわれている。民衆はこれに反発し、暴動が発生、ということになっている。

さて、食糧価格の高騰はよくあることだったし、この服装についての禁止令はこれが初めてではない。じゃあ、なぜエスキラーチェが大臣であったタイミングで暴動が起こったのか、というのはこれだけではうまく説明できない。陰謀説といっていいのか、民衆を蜂起に導く人形遣いがいたことは、どうやら正しい。当時流布したエスキラーチェへの反感を煽りかつ揶揄する内容の落首は相当に教養のある人物の筆になる、というのがその理由。もうひとつは、マドリー以外の都市でも同時多発的にこの暴動が起こっているので、なんらかの組織的な準備がなされていたと思しい、のだが興味深いことには、それぞれの場所でそれぞれの蜂起の理由があり、たとえばマドリーでエスキラーチェに対する反感があったのに対し、別の街では別の権力者が槍玉に上がっている。で、真相はともかく翌年にはイエズス会が国外追放される。この件で得をした人たち、損をした人たちがそれぞれあるのだが、たとえばビセンテ・ガルシア・デ・ラ・ウエルタは後者だ。

歴史の研究者が明らかにしていくことだろうから、僕としては18世紀で随分奇妙な事件が起こったということしか分らないのだけれど、学術的なこととは別に僕の気になるエピソードがふたつある。ひとつは、暴動発生、鎮圧、その後カルロス3世がアランフエスに逃亡したこと。そして民衆は君主のマドリー帰還を強く望み請願を出したこと。カルロス3世は酷く怒り、また怯えもしたのだろう。これと比較したいのだが、同じような暴動が前世紀末カルロス2世のときにも起こっている。で、このときの王は、庶民の暴動を許すとともに、お前たちの窮乏を知らずにいた私を許してくれ、といっている(という記録がある)。僕らは、とりわけ18世紀研究者はカルロス3世が名君、と思っているところがあるのだけれど、そしてハプスブルグの王様たちはみんな愚鈍であったように思い込んでしまっているのだけれど、その王朝の最後のカルロス2世はとりわけ無能であったという風に刷り込まれている。でも、これを見るとそうでもないのかなあ、と思う。歴史への解釈というのは存外あやふやなもので。

もうひとつ気になるエピソードは、レビジャヒヘド公爵のことだ。僕はこの人について全く知らないし、この苗字も随分珍しい気がする。メキシコに、この人の名前がついた島がある(風光明媚なところみたいね)。どうもアストゥリアスに地縁があるようだし、もとはRevilla-Gigedoと二つの苗字であったようだ。民衆の反乱が起こった直後、カルロス3世は委員会を招集。民衆を武力(暴力)で鎮圧するか、それを用いずに講和を図るかで意見が二分。後者に与したのがこの人なのだが、王の前に跪いて、民衆に武器を向けるくらいなら職を解いてほしいと懇願したという。ううむ、時代劇みたいでかっこいいなあ。そんなわけで、カルロス3世は講和策をとることになった。このあたりのことはAntonio Domínguez OrtizのCarlos III y la España de la Ilustraciónの三章に書いてある。

どうでもいいが、エスキラーチェの暴動といってもエスキラーチェが暴動を起こしたんじゃなくて、エスキラーチェに端を発した民衆の蜂起、ということだ。

|

« 『紀土-KID』 | トップページ | 「1.21ジゴワットだと?」 »