« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »

2013年2月

R. I. P. Nigel Glendinning

カダルソやゴヤの研究だけでなく、18世紀文学全般にわたって幅広い仕事をしたナイジェル・グレンディニング(Nigel Glendinning, 1929-2013)が亡くなる。大物の物故に歯止めがかからないスペイン18世紀研究だ。カダルソ研究者にしてみれば、彼のVida y obra de Cadalsoなしでは、彼の作品ばかりか半生についても分からないことばかりだったわけで、シマンカスのアルチーボをひっくり返しながらカダルソ像に肉薄してくれたグレンディニングのおかげで、今日僕たちはカダルソのことを多少なりとも知っている。それが1962年の作で、出てすぐフリアン・マリーアスが自著に援用している。極初期にはOliverの名前で発表した論文もあった。ABCにヘスサ・ベガが追悼文を寄せている。後年はゴヤ研究、絵画研究の領域で業績が多い。僕は生前お目にかかったことはないけれど、カダルソ研究者である僕にとって常に頭を離れない名前であった。膨大な資料にあたる実証性と、立論の緻密さに比して、作品内容の解釈でモラリスト的、ストイックな解釈が批判を受けもした。それでも、グレンディニングがいなければ、僕たちは何を知ることが、議論することが出来たか。

心からの感謝を込めて。ご冥福を祈ります。

|

たべたべ:しるこサンド

ラサ商事という、非常に僕好みの会社がある。環境における水処理ビジネスで重要な役割を担いそうな製品がいろいろあるほか、工業原料や研磨剤に使用されるジルコンサンドという商品を輸出入している。もとはラサ工業の販売部門だ。そんなことはどうでもいいのだが、愛知県は松永製菓の「しるこサンド」というビスケットが非常に美味しい。でホームページをのぞくと、前面にこれを押し出している。ううむ、ブレイクするのかしないのか。しなそうだけど、するといいなあ。

|

確定申告に行こう

税務署には長蛇の列、納税者も大変だが税務署の人も大変だ。それでも、僕の知る限りでは税務署員ほど親切な公務員はほかにいません。サラリーマンの方は関係ないかもしれませんが、収入の少ないアルバイトの方、医療費の多い方、副業のある方は行った方がいいでしょう。思わぬところで税の還付金が生じることもあります。たとえば、震災関係で寄付をしている方は、寄付金控除を受けられます。とはいえ、僕は並んだり入力したりで90分ちょっとかかってしまったので、還付を受けられる額が些少である人はメリットを感じないかもしれない。それでも、税務署のあの雰囲気は一見の価値があると思う。3月15日まで。

|

お手製のしおり紐

過日購った古本。前の持ち主が、なかなかの読み手なのでは、と思わせる痕跡にお手製のしおり紐。タコ糸を背表紙にセロテープで貼り付けただけなのだが、ううむと唸る。なお、内側の書き込みや傍線から察するに20代、おそらく悲劇に関心がある人だったのではないか。卒論なんかを書いてたのかもしれないね。

Seneca

|

La misérable(悲惨な映画)

いろいろなところで話題になっていた映画『レ・ミゼラブル』を見に行ってきた。記事タイトルはわざと単数形、かつ女性形にしてあるがその理由は後ほど。

まだ2月も終わっていないが、今年見た最低な映画になることは疑いを入れず、僕のこれまでの人生で見てきたわずかばかりの映画のなかでもワーストのトップランカーになることは間違いない。

最高のキャストや音楽、原作に脚本に楽曲に、特殊技術やCG、そして莫大な予算を費やしてこれほど最低な映画が出来上がるというのは半ば奇跡といってよい。感動した、という人もあるかもしれないが、僕はその酷さに衝撃を覚えた。他の人も、ある割合においてはそれを感動と取り違えているんじゃないだろうか(幻滅もまた感動なのか)。いいところが沢山ある映画なのだが、トータルするとマイナスになっちゃうのがすごい。

たとえば歌が素晴らしいし、俳優も素晴らしいし、映像も面白い。なのになんでこんな鼻糞みたいな映画になるのか、また世の中にはお金を払う価値のない映画があるのだが、それを知る上でお金を払う価値のある希少な映画である。返す刀で岩波文庫 4冊買って帰って、一月くらい読むと、そのことがより実感できそうだ。

本当にすごい。映画Les misérablesはuna película miserableだ。

|

「ピアノの練習の時間だよ。」

本来ならすべての本は再読されるべきなのだろう。研究論文などもそうなのだろうけれど、なかなかそういうことは出来ないので、気になったところ、自分の論理の構築に寄与しそうなところ(賛同するべき意見であれ、反論するべき箇所であれ)や気付き(これは書き手の意図したところとずれていることも多い)をもたらしてくれる箇所には印を残して、後でまた拾い読みをする。文学作品については、拾い読みでもいいけれど、印をつけたりということは僕はあまりしない。

多分5回目の通読、となったポール・オースター『ムーン・パレス 』は2冊目のもので、最初に買ったのは大阪で大学生だったときだが、どこかに混入してしまったのであらためて買いなおしたもの。新潮文庫の背表紙に「青春小説」と書いてあったのだけれど、そうか青春の時期を過ぎつつある僕は、やはり違う感触でそれを読み返したのであった。なぜ、今、という理由は特にない。大学生のころ、多分二十歳位のころにこの作品に出会えたことを寿ぎつつ、それを再確認するように読んだのかも知れないけれど、以前よりも文学作品としてのあざとさ、というか、むしろヘタクソな感じが目に付いて(もちろん手の内を知っているわけだが、それにしても、こんなに前面に出していたのか、と)、しかし不快ではなく、距離をもってテクストを読んでいるのだなあ、と実感した。あと、案外長いのね。

訳者の柴田元幸さんも好きな箇所としてあげていたと思うのだけれど、生活に困窮する主人公が貴重な栄養源である卵を落とし、それが床に吸い込まれていくのをスローモーションのように見ている場面がある。ううむ、素敵だ。それ以外にも「ああ、いいなあ」と思った場面がいろいろあって、後に主人公の父親であることが分かるソロモン・バーバーが絶望を味わった折にレストランで暴飲暴食をするところも素晴らしい。これは既に誰かが指摘しているかもしれないけれど、レイモンド・カーヴァーの"Fat"という作品にも同様の非常に迫力ある注文あるいは食事の場面がある。どちらも好きだ。

意地悪爺さんのトマス・エフィングについては、浦沢直樹の『PLUTO 』第一巻に出てくるポール・ダンカンを重ねてしまって、なんだかおかしい。そうそう、個人的には消化不良に終わったこの漫画のなかで、ノース2号の話が好き。「ピアノの練習の時間だよ。」というダンカンの最後のセリフもすばらしい。

|

『アウトレイジ』ならびに『アウトレイジ ビヨンド』

そんなわけで、早稲田松竹に『アウトレイジ』ならびに『アウトレイジ ビヨンド』を見に行く。僕はビートたけし(北野武)が好きではないようで、彼の映画を見たことはこれまでになかった。さて、不況のときこそヤクザ映画、みたいなことを本人か、あるいは誰かが言っていたのを聞いて、妙に納得したのを覚えている。で、見た作品だが、面白かったです。椎名詰平がいいね、すごく。

こういう映画の中での暴力に異を唱える向きもあるかもしれないが、僕としてはどんどん威勢よくやって欲しい。映画を見た後の観客は、皆肩で風を切って歩いていたぜ。

そして、3月16日から22日まで、あの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をやるんだよ。最高だー!関係ないけれど、Old Parrは非常に美味しい(この名前はとある長寿者にちなむ)。さらに関係ないけれどJim Beamの創始者はベーメさんだ。ビームじゃない。

|

Andioc, René. "El teatro nuevo español, ¿antiespañol?"

Andioc, René. "El teatro nuevo español, ¿antiespañol?" Dieciocho. T. XXII (1999). Núm. 2. 351-371.

1800年に刊行開始されたTeatro nuevo españolという作品がどういうものなのか、僕は現物を見たことがないのだけれど、先の時代からの懸案であるスペインの新しいクラシック(それが新古典)を確立する上で、決して避けては通れない、同時代の演劇のアンソロジということにひとまずはなるだろうか。タイトルをみて、スペインの新しい演劇と題されたものが反スペイン的であったか、ということよりも前に、僕はビセンテ・ガルシア・デ・ラ・ウエルタの編んだTheatro hespañolのことを想起してしまって、勘違いをした。アンディオクは18世紀演劇の研究における第一人者で、とりわけレアンドロ・モラティンの研究で名高いのだが、この論考もやはりモラティン絡み。というのも、この『新しいスペイン演劇』アンソロジの序文をモラティンが書いていると思われているのだが、実際はそうではないだろうということを状況証拠から論じていくもの。

|

ウエルタ研究の礎石

しつこいようだが、ビセンテ・ガルシア・デ・ラ・ウエルタの戯曲『ラケル』を扱う章を書き出せずにいる。何度も試みて、失敗しているのだが、その根源にウエルタがあまりにも他の作家たちと違うということがある。とにかく、何につけ矛盾が目に付く。それを自身の中で許容なり納得できていないそのせいで、こんな有様なのだ。

ウエルタは1785年から17巻(だっけ?)に及ぶスペイン演劇アンソロジを組む(Teatro hespañol)。それの序を206ページも書いているのだが、ヴォルテール批判だったり、スペイン演劇アンソロジを編んだ別のフランス人への批判だったり、まあヴォリュームはあるのだが、これをそこで言う必要があったのか?というとはなはだ疑問な議論が展開されている。で、それを読んでいて、やはりウエルタが博学にして明晰な人物であることは間違いなく、かつこういうよく分からんことをしてしまう人物でもあることは、例によって矛盾をきたす。どうにも、食えない。ウエルタ関係の論文は、カダルソ関係についで数多く集めているし、読んでもいるのだが、どうにもそういった沢山の矛盾を飲み込めずにいる。本当に困っている。

Rios

ウエルタ研究の第一人者はアリカンテ大学のRíos Carrataláなのだが、彼が1987年にバダホスで出した、博士論文を基にしたウエルタ研究書がある。ウエルタ研究の基本文献なのだが、これがスペインから届いた(PDFもある)。『ラケル』についても第三章で70ページほど書いている。これを読んでもウエルタを退治できそうな気がしなければ、もはやそれはそれで仕方ないのだろう。そしてその正直な印象というか、あまりにも矛盾に満ちているということを正面に打って出るしかないのだろう。もちろん僕がするのは戯曲の分析だけだから、ここまで周到な検討は必要ないかもしれない。さりながら、さりながら、だ。

--
第二章が研究史を追う形になっていて、数が少ないこともありかなり網羅的。研究史のまとめ方としては、ひとつの参考にしたい形。Schurlknightの論考についての評価がまったく同じで安堵を憶えた。Andiocがひとつの金字塔であることも再確認する。

|

為替はどこらへんに

昔僕が米ドル定期を組んだときの記録があって、レートは平均すると115円くらいだった。円が80円くらいのときは、資産が単純に3分の2くらいになっているわけで、なおかつ米ドル定期の金利は豪州やNZにくらべてはるかに安いので絶望的な気分だった。よく分散投資でリスクをヘッジする、というが全方位的に損を出してりゃ世話ない。仕方がないので、この定期はずっと自動継続していて、いつか地合がよくなったら解約するつもり。残念なのは米ドルとして引き出すことが出来ない点だが、仕方がない。

で、為替はどこらへんに落ち着くといいのか、あるいはどこらへんを目指しているべきなのか。円安円高双方のメリットデメリットがあるので、円安は悪だという論調は無視していい。問題は、どのあたりが成長にとって有利なポジションか、ということ。4月くらいまでにゆっくりと米ドルで98円、ユーロで130円くらいがちょうどいいと思うのだが、最近はいろいろ性急。ふむ。

いや、数字ではなく、輸出を盛り立てつつどうしても輸入しなければいけないものを(これには燃料ならびに原材料のように必要不可欠、という意味と輸入することが義務付けられている、という両方の意味がある)無理なく調達できるあたり。燃料とりわけ原油の高騰は為替よりも影響が大きいわけだが、株式市場が魅力に乏しい場合資金は商品に向かうのであって、株式市場が好況であれば、もしかすると抑制できるのではと思うと、アメリカの株価は史上最高を視野に入れている。すごい。でも商品も値があがってる。なんでやねん。

レーダー照射って、軍事行為とみなされるんじゃないの。警報が鳴り響くヘリ乗員は生きた心地しなかっただろうなあ。国連常任理事国が戦争しかけるってのは狂気の沙汰だが、相手は国ではなく帝国なので、理屈がつうじないのである。日本が先に手を出すまで延々挑発するのだろうが、こんなことは看過されていいんですかね。

|

Morales Wagonという楽器

一月の終わりに、ビートルズのコンプリートスコア を購入。理由は思い出せないのだが、おそらく毎月の誕生日プレゼントの一環としてだと思う。

Complete_score

この本はかなり巨大だが、中身はシンコーミュージックのビートルズの各アルバムのスコアと同じ。内容を考えればこちらの方が割安になるし、インテリアとしても大変美しい。なんといっても、辞書みたいなのだ。

で、これを眺めてアルバムを聴いたりしていると、アコースティックギターというかフォークギターを弾きたくなった。で楽器店でタカミネのギターなどを弾かせてもらったのだが、どうにも違和感がある。

ところで、僕は14歳のときからギターを弾いているのだが(もう20年か!早いなあ)、最初のギターはmiyasu kogyo製の(漢字が分からないためアルファベット)Morales Wagonというギター。叔父に貰ったもので、僕が生まれる前のものだろう。全然高価なギターではないのだが(M120とあるので、当時12000円だったのだろう)、たまにオークションなんかに出るね。日本製。で、それを取り出して弾いてみたら、しっくりくる。からからに乾いた音がする。

このギターはマーティンコピーのドレッドノートなので、まずボディシェイプからして違ったわけだ。さらにこの楽器には0フレットがあって、変な倍音がカットされている。今の楽器は、なんでこれなくなっちゃったんだろう。

Morales

中学生の頃は、学校を休んで家でギターを弾いていたし、高校生の頃はタスマニアにも持って行ったし、大学に入って大阪にも持っていったし、その後YamahaのDGを手に入れるまでアコースティックはずっとこれで、ナイロン弦のギターは増えたもののスティール弦のギターはこれしかない。ながらく弾いていなかったし、もはやギターとしてはアレなのだが、これを春休みをかけて調整してみようと思う。ブリッジはアジャスタブルで、磨いたらきれいになった。けれど木材はサイドもクラックが生じている。トップも持ち上がってしまっている。弦を外してサウンドホールないの埃を除いたときに、ブレイシングを確かめるとはがれてはいなかった。随分しっかりしているんだなあ。そしてネックには全然そりが出ていない。指板をレモンオイルで磨いて、汚れを落として、少しずつ様子を見てみる。(それでも駄目だったらしょうがないので、もう一本買うことになるかもしれない。でも、一度に弾けるのは一本なんだよね。)

なんにせよ、生涯最初のギターがちゃんと手元にあるのは素晴らしいことだ。

|

Aquilar Piñal, Francisco. "Trigueros y García de la Huerta."

Aquilar Piñal, Francisco. "Trigueros y García de la Huerta." Revista de Estudios Extremeños. T. XLIV (1988). Núm. 2. 291-310.

前半はウエルタの生涯についてだがかなり憶測が混じる。この論文に限らずこの著者は講演や論文において、変なへまをやらかすことがおおい。研究者というよりアーキビスト。面と向かってはいえないけど。後半、トリゲロスとの関連が有益。ウエルタがトリゲロスを妬んだ件や、ホベリャーノスがウエルタのこと快く思っていない件、さらにトリゲロスがしれっとウエルタのテアトロ・エスパニョルに反撃している件など。

|

Schurlknight, Donald E. "La Raquel de Huerta y su "sistema particular"."

Schurlknight, Donald E. "La Raquel de Huerta y su "sistema particular"." Bulletin hispanique. T. LXXXIII (1981). 65-78.

自身の階級を離れることの不幸、統治能力のないラケルが王座につくときに憶える不安(それゆえに、つねにルベンの助言を求めた)。しかしこれは本質的な問題ではなく、わき道にそれた話題。ただし、Andiocとは解釈を間逆にする箇所があって、"Ella debía llegar a reconoerror, como más tarde Alfonso, pero Huerta, más atraído o interesado en acentuar el aspecto sentimental de la tragedia, no aclarttivamente el aspecto político." (77)とある。僕はアンディオクの読みのほうが魅力的だと思う。Schurlknight(シュールナイト?)はウエルタがラケルによって、従来の悲劇とは少し毛色の違う、センチメンタル演劇を成したと考えているようだ。それはブルジョワ演劇に通底するものかもしれない。しかし、"Es sujje con quien podemos simpatizar, porque todas sus acciones las podemos completar. " (78)がいわゆる悲劇の主人公と異なるかというと、疑問だ。むしろ、悪辣さを前面に出すこと(実際第二幕まではそうだ)で、この違和感が出ているのであって、最後の急転直下こそ、ウエルタ演劇の特質だろう。
まあ、いずれにしても本質的な議論ではない。

|

Caso González, José Miguel. "Acercamiento a la historia del texto de la Raquel."

Caso González, José Miguel. "Acercamiento a la historia del texto de la Raquel." Revista de Estudios Extremeños. T. XLIV (1988). Núm. 2. 379-394.

オビエド大学で新しく発見された手稿コピーから、そのテクストの年代推定など。比較対象はBN (ms. 10.931), Oviedo 1 (M-236), Oviedo 2 (P-44), Sancha (Ed. de 1788)。年代順はこのとおりで、最初のものがmotínの前、オビエドの二件はそれ以後。変更に窺われる作品の政治性の変異も指摘できる。最初は貴族が王に反乱しているのだが、後においては民衆が王に反乱している。

|

さまざまな悪いもの

・外国で本を買うと送料の方が高い、というがっかり。そろそろ円高の恩恵を受けられなくなる。

・中国から風に乗ってくるさまざまな悪いものを、どう遮断すればよいのだろう。飛来する高度が分からなければ対策しようもないし、きっと対策出来ないような高さなのだろう。海上でとりあえず雨が降るとよいが雨雲レーダーをみるとさっぱりだ。理屈が通じないものと交わるのは大いなる不幸。

・最近の朝日新聞、気持ち悪さに拍車がかかっている。内部でも「おかしいよな」と思っている人はいるのだろうが、余りにひどい。

|

Ríos Carratalá, Juan Antonio. "García de la Huerta y la polémica teatral del siglo XVIII."

Ríos Carratalá, Juan Antonio. "García de la Huerta y la polémica teatral del siglo XVIII." Revista de Estudios Extremeños. T. LIV (1988). Núm. 2. 449-463.

新古典演劇と、それが攻撃の対象とした作品群といったように、明白な二元論的対立、分離があったわけではなく、両者の間には大いに親近性がある。(452-454)そこを理解しないとガルシア・デ・ラ・ウエルタその他の作家の作品のただしい理解は覚束ない。
La consecuencia es que entre el Don Pedro y el Don Eleuterio moratinianos hay toda una escala de situaciones intermedios, que rompe con la imagen de un teatro reformista y neoclásico opuesto a la totalidad del teatro mayoritario (455).
『ラケル』を新古典として読みたいならp. 458は繰り返し読む必要がある。

Tal contradicción [de Raquel] sólo se deriva de la falsedad de un esquema interpretativo que no se ajusta a la realidad de la época." (458)

著者はウエルタで博士論文を提出した(アリカンテ大)第一人者。同論文は1987年にバダホスで出版(購入済み)。カテドラ5番にはかつてJoseph G. Fucillaによるエディションがはいっていたが1998年よりRíos Carrataláのものになっている。なおこの号はウエルタについての学術会議の議事録となっている(特集号だが)。

|

Aguilar Piñal, Francisco. "Las primeras representaciones de la "Raquel", de García de la Huerta."

Aguilar Piñal, Francisco. "Las primeras representaciones de la "Raquel", de García de la Huerta." Revista de Literatura. TI. Núms. 63-64 (1967). 133-135.

最後の二段落だけ読めば十分な論文。『ラケル』の上演はマドリーで1778年にあったが、それに先立つ1773年アフリカのオランでも上演されていた。この間を埋めるものとして1774年1月24,25日ならびに1775年1月30日、および1777年1月20日と24日にセビーリャで上演されていた。またバルセロナでも1775年に上演されていたことを報告。

ところで、オランでの上演を最初に突き止めたのは次の論文。Cazenave, Jean. "Première représentation de Raquel." Les Langues Néo-Latines. Núm. 118 (1951). 1-?.とされている。しかし10年ほど経ってAsensio, Jaime. "La tragedia Raquel, de Huerta, fue estrenada en Orán." Miscelánea hispánica. Ontario, Canadá: The University of Ontario. 1967. 239-244.が「大発見!」と同じ情報をあたかも最初であるかのように発表。(書誌情報はAguilar Piñalの注2による。ただし、このMiscelánea hispánicaは同大学のDepartment of Spanish and Italianが刊行した雑誌でそれの記念すべき一号。この表記は正しくない。正しくはT. I (1967). 239-244.)国内での所蔵が確認できない。困る。)

さらに、だ。この(これらの)論考の根拠となる文書はRodríguez Moñino, Antonio. "Catálogo de los manuscritos extremexistentes en la Biblioteca Nacional de París." Revista del centro de estextremeños. T. XV (1941)ですでに発表されていたにもかかわらず、だ。

|

Andioc, René. "La Raquel de Huerta y la censura."

Andioc, René. "La Raquel de Huerta y la censura." Hispanic Review. T. XLIII. (1975). 115-139.

・文体、Calderón的、前世紀的、騎士道的(古い価値を守る)、下層階級的、粘着質の文体の削除

・『ラケル』はneoclásicoではない、意見に僕は与するものではないが、この作品の何がlos neoclásicosを苛立たせるのかを非常に分かりやすく説明している。

・王と貴族たちは互いにいがみ合っている場合ではない。なぜなら彼らの階級に共通する敵は民衆なのだから(p. 134)。ラケルを殺した本当の張本人、王と貴族のいがみ合いに乗じて反旗を翻したのは民衆(pp. 137-138)。

・削除された箇所から作品の問題性を逆行で明らかにする。

※『ラケル』についてのよしなしごとは、2012年8月の日記に散見す。

|

とある老舗メーカーの値動き。

その銘柄を保有していること自体が快楽というか、うれしいという銘柄がある。株をやる人はキャピタルなりインカムなりのゲインを目指して日々マーケットに向かうわけだが、そうでなくて持っていること自体が満足を与えるという銘柄。それは企業活動が社会貢献に近い内容であったり、経営あるいは経営者の理念が高潔にして清廉である場合などだが(「哲学がある」というのか)、それでは利益を十分に出せなくて魅力のない企業ということになりかねない。そういう銘柄の価値評価は目を見張るような増収増益は望めないとしても、市場規模が大きく市場シェアが高く、その製品なりサービスが市民生活に浸透しているために(あまりにもありふれていて、知らない人がいない)コンスタントに利益が出ており、それが株主ではなく製品開発研究に振り向けられている会社の姿勢に求めるべきだろう。結果としてその銘柄を保有することが誇らしい、というような。

とある老舗メーカーの値動きを見ながら、そんなことをぼんやり考えていた。

|

Schurlknight, Donald E. "El universo y una paradoja central: la Raquel de Huerta."

Schurlknight, Donald E. "El universo y una paradoja central: la Raquel de Huerta." Boletín del Centro de Estudios del siglo XVIII. Núm. IX (1981). 43-54.

存在の大いなる鎖の議論。Alexander PopeやJohn Lockeを引き合いに出しつつ、占めるべき位置に万人とどまるべきであり、それを逸脱することによって人間(ここではラケル)は不幸になる、という同時代の哲学的関心がウエルタによって作品に昇華されている。なお、従属を胸とすべき人民がその位置から外れて王に要求を突きつけることが、desordenの元凶とする読み(53ページ)も可能であり、興味深い。

|

Deacon, Philip. "García de la Huerta, "Raquel" y el motín de Madrid de 1766."

Deacon, Philip. "García de la Huerta, "Raquel" y el motín de Madrid de 1766." Boletín de la Real Academia Española. T. LVI (1976). 369-387.

『ラケル』については、アンディオクがその政治性を指摘しているわけだが、もっと具体的に歴史資料に基づいてそのことを解明した画期的な論文がこれ。さらに、『ラケル』は1766年6月末以前に書かれた可能性にまで肉薄する。『ラケル』のオリジナルヴァージョンはもっと過激であった可能性も示唆。Velázquezの書いた"Tribuno de la Plebe"署名がある手紙の件の調査においてウエルタの名が浮上。さらに悲劇への言及もあることから、これを『ラケル』とすると、1766年のエスキラーチェ暴動とかなり直接かつ複雑に関連性がある。これは、すごい。

|

« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »