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2012年2月

うるう年

もう2月が終わる。今年はうるう年なので1日多い。3月が終わるまでにしておきたい、書いておきたいものがいくつかあって、1日猶予が増えていて助かる。

怒涛の円高が少し緩和。それでもヨーロッパ、アメリカなどに旅行、留学される方にとっては随分よい条件なので、ぜひぜひ外に。僕が教える機会を持った学生さんも留学される。気をつけて行ってらっしゃい。

ひさびさに『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』を見た。やっぱりいいなあ。押井作品よりも断然好きだ(神山監督の『009』も愉しみ。)。音楽も素晴らしい。大好きなシーンがありすぎて困るのだけれど、今回特に心に響いたのは最後の最後、あわや凶行に及ぼうとするトグサくんをとめるバトーさんの台詞があたたかい。なんと2002年の作品だから10年前なんだ。

年末からの変化:
眼鏡を変えた。
酒量が(すこし)減った。
メインブラウザをChromeに変えた。

Escena

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いろいろ捗らない。

れにちゃんはどこに連れ去られてしまうのか

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EUREKA SEVEN AO

ぬッ!

見たいような見たくないような・・・。

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個人的なメモ

ナショナリズムの萌芽、ネイションのイメージあるいはネイションとしての認識、ネイション化の動向がみられると口にするとき、ネイションというものを無批判に前提している、あるいは恣意的にそれらの語を用いている(論者によるターミノロジ混在の問題は佐藤が論じている)。しかしより問題なのはネイションの表出、表現の方法であって、こうした現象が確認できると察知され、あるいは感じられること自体の機制(メカニズム)そのものは、多くの場合に不問とされているのである。つまり、「ここにナショナリズムの萌芽が認められる」といった物言いは、ナショナリズム自体の定義と、その現象の叙述ならびに説明をともに欠いている。そしてこのことが意識されずに看過されていることもまた少なくない。なぜそれがナショナルな関心と解されるのか、ということを実際のテクストに即して提示するということは、労多くして実り少ない営みであろうか。仮にそうであったとしても、その語法、典型からレトリックを抽出することは可能だろうか。

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リリーがドラムを叩いたら

過日紀尾井ホールに山中千尋トリオを見に行く。ローランドの電子ピアノのプロモーションで、金子三勇士さんと山中さんの実演があった。電子ピアノの進化はリアルを追及することにあって、本物と遜色ない、と言っている時点で本物ではないので損な役回りである。

トリオは岡田佳大さん(Dr.)、東保光さん(Bass)とのもの。前々回と同じ。この岡田さんのドラミングがいい。余裕があって、楽しそうで、かつ表情が豊か。演奏面では細かい技をいろいろ繰り出すのに、視線はメンバーに、そして観客にずっと向けられている。リリー・フランキーにも似ている。

仕事をする人間はすべからく笑顔であるべきだ。

蛇足ながら、昨年のホベリャーノスに関する国際会議の議事録が出来ました。

Fernández Sarasola, Ignacio et al (Eds). Jovellanos, el valor de la razón (1811-2011). Gijón: Trea Ediciones, 2011.

紹介記事はこれとかこれ。圧巻900ページを超える大部ですが、6000円くらいです。

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毎日何してんの?

春休み毎日何してんの?勉強してる。あはは、ウケるー!といわれた話を書こうと思っていたら自分も笑ってしまって、仕方がないからビール飲んでる。33歳なのに。いい大人なのに。

使い捨てマスクの鼻に当たる部分、ちゃんとそれぞれの鼻にあわせられるようになっていて、以前はここにハリガネが入っていたんだけれど、このたび取り出したら樹脂に変わっていた。これで文字通り使い捨てになった。樹脂っていろいろ種類はあるにしても、たいてい熱に弱い。あと発砲スチロールは見かけによらず可燃物だ。

CDの棚を眺めて整理して、そしたらじぶんはももいろクローバーZのCDを、シングル含めすべて持っていることに気づく(コンサート会場限定とかはないけど)。そんなことは、キッスでもヴァン・ヘイレンでも、XTCでも坂本龍一でもついぞ果たされていないのに!どうしちゃったのかしら。

マイルスを聴きながらおとなしくビール飲んで本を読む。気づいたらヴァレンタイン終わってた。大体こいつは聖人でもなんでもない、というか史実詳細が確認できないのでカトリック教会は1969年に聖人認定を解いているのだ。

18世紀スペインの悲劇ってたとえば何があるの?と言われて5つも挙がればいい。10も知ってる作品があればよっぽど詳しい人だ。僕は自分で読んだことのないもの、現時点で散逸してるものも含めて30くらいなら挙げられる。でも298本リストにした人がいて恐れ入る(ただし翻訳翻案作品を含む)。もちろん、これから発見されるものもあるだろうけれど、大体それくらいなんだろう。

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種村季弘『雨の日はソファで散歩』

澁澤さんが亡くなって27年、種村さんが亡くなって8年。種村季弘『雨の日はソファで散歩』は、生前ご本人がある程度までは内容を了承していた最後の書物ということになるか。本読みの世界の広がり方というのは人それぞれで、僕のように狭い範囲でつまらないことを反復しているタイプと、広大な沃野を貪欲に呑みくだしてしまうタイプがある。うらやましい。気負いや格好を気にすることがなくなって、おおらかにかつおだやかに変容していく巨大な知性のたゆたう感じがこの一著に明らか。思いもかけず僕が森茉里を苦手とする理由を理解するヒントが得られたり、永川玲二先生のエピソード(でも勘違い、思い違いか?)が出てきたり、読むこと、手に取ること自体がうれしい本。

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ウイルスちゃん

暁方ミセイさんの『ウイルスちゃん』が中原中也賞に選ばれる!

過日の「あわせて読みたい三冊(2011年度秋学期)」にも当然のエントリー。えー、詩集なんて買ったことないし、というあなたこそ、書店へダッシュだ。

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個人的なメモ

アルトー『演劇とその形而上学 (1965年)』41-42ページ、アウグスティヌス『神の国』(異教徒の)演劇への知性的な批判。

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あ、これだ。

山中千尋さんの『bravogue』というアルバムにスタッカートという曲が入っているんだけど、ひさびさにPoulencのCDを聴いていたらそこに入っていた。これだったのかー。

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好き嫌いはいけない、わけない。

雨、冷たい雨。

昨日、山中千尋さんのガーシュインを品川に聴きに行った。

嫌いなもの、苦手なものが結構たくさんあるのだけれど、なぜそれが嫌いなのか、苦手なのか、と考えたときに案外理路整然とこれこれにより、と示せるものもあって興味深い。好き嫌いはいけません、というのは論理的ではない。ただ、それが嫌いである、苦手であることによって、何らかのデメリットが生じるのであれば、それに対する処置もまた論理的に組み立てられなければならない、と思う。一番問題なのは論理の彼岸なのだ。

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くやしいっ!

とある18世紀後半の演劇の研究書だが、そこにあがっている作品タイトルが、博士論文で扱うものとして僕が選択したものと完全に重複しているのである。「ああ、もっと前にこの本を手にするべきだった」というラインナップ。なんと7年も前の作で(2005)、僕が演劇云々を考え始めたのは2009年以降、そのタイムラグは仕方ないにしても、くやしいっ!昨年秋にようやく入手(なかなか見つからなかったのだ)、今からしっかり内容をフォローさせていただきます。

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あわせて読みたい三冊(2011年度秋学期)

大学での授業が終わって、学生のみならず先生も長い長い春休み。ここで勉強しないで、いつするよ。
Awasete

ところで(もう恒例だけれど)、毎回の授業で僕は本を紹介している。スペインに関係があるものもあれば、ないものも多い。今学期はとりあえずこんなリストを用意した。左端は紹介したもの、右二つはあわせて読んでほしいもの。実際の授業回数はもっと多いし紹介した本もまたもう少し多い(『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』とか)けれど、この表を作っているときには思い出せなかった。手帳、カレンダなどを見ても、そもそも記録していなかったのだ(昨年は手帳を使わなかった)。このほか、授業中に紹介する本の数は多分一般の授業より段違いに多いはずだ。

以前は「なぜこの三冊をあわせて読むのか」というテーマなりヒントなりコメントを付していたのだけれど、今回それを廃した。めんどくさくなったからではない、いや、ダジャレを考えたりするのがめんどくさくなったのは真実だが、読んだときに「ああ、なるほど」と思ってほしいわけだ。同じ著者のものなどは簡単だけどね。

ところで、授業も年を重ねると、もう紹介できる本に限りがあって、そもそも僕が読書家でないこともあって、いつもギリギリだ。かつ紹介する前の日にその作品を読み返す(あらすじや紹介の方法を考えるため)
紹介する本に重複があるのは、だから許してほしい。なるべくそれを避けたいと思う理由はあって、なるほど毎年新しい学生に対峙するのであれば、一度作ったリストを使いまわせばいいのかも知れぬが、僕の授業には3年連続受講という記録保持者もあったので、「その話、前も聞いたよ」ということになりかねないのだ。双方、困る。

これとは別に、毎度授業の開始に際して音楽をかけていて、本と音楽の紹介をするのだけれど、音楽に関してはスペインからどんどん離れてしまった。それを今すごく反省している。僕自身スペインの音楽が好きなわけではないので、枚数もそんなに(50枚くらい?)しか持っていない。なので、関連するテーマでだんだん外の世界、よその国へとずらしていって、かつ時事的な話題にからめて紹介しているのだけれど、学生さんはスペイン語を学びに来ているのだから、やっぱりここはスペイン関連で押すべきだったろう。とはいえ、授業へのコメントに「あらゆるところに先生の独特の感性がみられ」と書いてくださった方が現れ、それはそれで間違ってはいなかったのやも知れぬと、慰めを得た。ありがとう。

僕の最後の授業でグレツキを知ったという人もまた多いはずだ。試験時間あの交響曲三番第一楽章をかける。15分経てば中途退席可としたが、15分を過ぎたところからがまた山場だ、といったらみんなちゃんと聴いて行ってくれた。

学生が振り返って、あの先生はいらぬおしゃべりで授業冒頭の15分を浪費したと思うだろうか。それは僕にはついぞ知れぬことだ。今年はメジャーな本も多いが、もしかすると僕の授業で紹介されなければ一生出会わなかったかもしれない本もあるだろう。タイトルだけで敬遠するものも。それでも、「ああ、なんか読んどけっていってたっけ」と思ってもらえるといいなあ。読まなくてもいいけどさ。僕の自己満足であることは百も承知だ。

諸事情から、この本や音楽の紹介もすべての授業でやっているわけではない。本当はすべてのクラスでやりたいし、来年度は授業にゲストをよんだり、もっといろいろ面白いことをしたいなあ、と思いつつ、僕の学生さんは2011年度もお疲れ様でした。4年連続受講という猛者が現れないことを祈り、アディオス!

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贅沢な望み

昨年が没後200周年にあたっていたホベリャーノスの全集はオビエドから刊行中で、広く定本として受け入れられているのは、カソ・ゴンサレスに代表される彼の地の大学の層の厚い研究者陣が校訂しているということに尽きる。しかし一方で、最も早い時期に現れた一巻は技術的な問題とその壮大すぎるプロジェクトがそもそもどうなるか手探りの状態だったので、難がある。しかもこれがホベリャーノスの文学作品を収めている巻なので、文学サイドから彼の研究をしている人にはちょっと不都合な事実。たとえば『名誉ある科人』はカテドラからシーボルトの校定本があって、すごくいい。もちろんこれも全集に依拠しつつという成果であることは間違いない。なので、いったん全集プロジェクトが完結したら第一巻をもう一度作り直してほしいなあ、と贅沢な望みを抱いている。

この全集、日本の大学でも所蔵のあるところは2,3あるのだけれど、すべてを継続して入れているところは多分ない。ふんがー。僕の家にはあるのに。

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