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2011年12月

1812年?1820年? 年号とワクチンのはなし。

スペインをひとつのネイションとして志向することと、その中に個別の構成要素を認めることは相反するものではない。これはスペインに限らずそうだと思っている。これを裏返すと、たとえ一枚岩であるという主張がなされる集団においてさえ、かならず異分子が含まれることになるので、差別や格差はなくならない。というのも、それを併せ持っていることが前提というか要件であり、さらに、集団の結束を強めるためにも、この異分子と目されるものは存在したほうが良い。

それはさておいて、スペインとはこういうものである、という規定が1812年のカディス憲法の中に出ていて、10条に「アラゴン、アストゥリアス、カスティーリャ・ラ・ビエハ・・・」と延々と地名が挙げられていくのだけれど、これはとりもなおさず現在の県や州などの単位、さらにはかつての王国、伯領や行政単位の名残であり(海外領、新大陸の領土も含まれている)、これを単に地名の列挙と考えるのは正しくなくて、「スペインとは」というその瞬間にスペインはその個別の構成単位を列挙することでそれぞれが異なるものであったことを明らかにする。そう思っていたら、最近別の研究者も同じ箇所を引用して同じことを述べていて、意を強くした。

しかし、気になったことがある。そのひとは「1820年の憲法には(En la Constitución de 1820)」、と書いているのである。カディス憲法は1812年に出来るのだが、フェルナンド7世が廃止。その後1820年ラファエル・リエゴの蜂起によって自由の三年間が達成されて、同憲法も復活する(再び廃止されて、さらに1836年にも復活)。たぶんこの二つ(あるいは三つ)の内容は同じはずなのだが、なぜ1820年という年のほうを挙げたのかがちょっとわからずにいる。1812年の公布の後、1820年にもあらためて発行(出版)、発効されていることは事実であるにしても。この憲法は歴史上重要性が高いものなので、この時代をやっている人の頭の中では1812年という年号は自動的に出てくる。だから、1820年という年号を挙げたのは故意に違いない。しかし引用の前後の文脈をみると1812年のものとして紹介したほうがしっくりくる論調な気がする。

ひとつだけ、気になるエピソードがあがっていて、もしかするとこれが1812年より後のことなのか、と思うところがある。その整合性のために1820年の年号を挙げたのか?そうだとしたら、正しくはないが、説明はつく。そのエピソードとは、スペイン政府の天然痘ワクチン普及の試みで、国内だけでなくアメリカ、アジア、アフリカにもそれを広めていったという話が出ている。スペインがイベリア半島の外、全人類の福祉のために世界へ旅立ったという心温まるというか、ちょっと我田引水めいたエピソードなのだけれど、桂冠詩人(マヌエル・ホセ・)キンターナの詩なんかも引用されていて、そこそこ感動させられる。ジェンナーもアレクサンダー・フンボルトも大絶賛した。

天然痘のワクチンをエドワード・ジェンナーが発表したのは1798年(ワクチンについては、ジェンナーの発見に先立ってそういうものがあるということは18世紀中ごろにはちゃんと知られていた。たとえばチェルケス(サーカシア)に関して書いたくだりでヴォルテールも言及している。)。ヨーロッパで広まったのは19世紀にはいってから。これがスペインの話としていつのことなのか、というと、単純にワクチンが国内に広まった年号ではなくて、ワクチンを世界に広めるための一大事業として王家の支援を受けて人類愛を謳ってワクチン普及の大遠征を行っていることが知られる。スペイン人医師フランシスコ・ハビエル・バルミスが世界中を回ったものだが、1803年に出発、1814年に終了している。この支援をしたのは王家であり、具体的にはカルロス4世が裁可している。

これを踏まえると、やはり前掲の年号は1820年ではなく、1812年のほうが正しい気がするのである。内容は同じだからどちらでもいいといえばそうだが、あえて1820年を挙げる必要はない。

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ずっと、たくさん

用事があって出かける。道がすごく混んでる。道すがら小沢健二さんの『LIFE 』を聴いて。「ドアをノックするのは誰だ?」はクリスマスソングなのだ。

僕はずっとずっと一人で生きるのかと思ってたよ。

けれど、そう思っている人は案外たくさんいるんだろう。とすれば、これも陳腐な感慨なのか。勘違いなのか。

話題の本、『ビブリア古書堂の事件手帖 』を読んでいる。世の中には本が好きな人と、本が好きだといいたい人と、本が好きでない人がいる。本が好きだといいたい人の心をくすぐるものがこの本にある。僕もたくさん本が読めたらいいなあ、と思いつつ読めずに大人になって、やっぱりたくさんは読めないでいる。だから、心うごかされる、のか。

昨日年内の授業が終わり、僕としては仕事納め。授業で映画を見ることがあるのだが、たいていは一回で見終わらない。かといって、二回全部見るわけでもない。このたびは残った時間にもう一本『アンダルシアの犬 』を見る。映画史に残る作品だが、良い悪いの批評の彼岸にあり、まあこういうのがありますという知識だけでOKだ。だから繰り返し見ている人はたぶん少ないだろう。僕は10回くらい見てる。スペインに関係なくてもいいなら『カリガリ博士 』が見たいなあ、と思う。でも、『アンダルシアの犬』だってスペイン語は関係ないのだ。字幕もフランス語だし。

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ありがとう。

Aki

もう2011年も残りわずか。

今日はたくさんの方からお誕生日お祝いのメッセージを頂戴しました。どうもありがとう。あっという間の33歳です。

皆様も素敵なクリスマス、新年をお過ごしください。

プレゼントを下さった方、ありがとうございました。あまり僕を甘やかしてはいけません。

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向井理がバルセロナを紹介する番組

今夜BSプレミアムで9時から、向井理がバルセロナを紹介する番組があるみたいです。

http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/toki/

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こころ、おどる

もう一週間で大学の授業も終わり。今年も早かったなあ。10月ころからはかどっていない仕事があって、気がつけばもう二週間くらいで今年が終わります。

来年の手帳はコクヨのキャンパスノートのものにする。初めて使う。今年は手帳を全然使わなかったので、この予定を書き込んでいく作業も久しぶり。来年も楽しい年となりますように。

たくきよしみつさんの『狛犬かがみ 』を眺めていた。僕も狛犬好きのはしくれ。こころ、おどるよ。

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今年、たぶん最後から二番目の仕事

冷たい雨が降った先週の後半、風邪はなおりかけてきて、ブルーノートへ13人の大所帯楽隊を見に行ったほかは、7月の終わり、ちょうどこの記事を書いたころに提出した原稿の校正をしていた。年内に出すといいつつ、結構間がない。傍証にはさまざまな方式があるけれど、編集部の方針に従うことが大事と書いた。それぞれで異なる基準があるからだ。送られてきたゲラは、誰かが慎重に読んでくれたらしい。ありがたいことです。僕の直しはほとんどなく(加えられた修正はすべてイキ)、これで今年、たぶん最後から二番目の仕事が終わった。イチョウの葉で金色に飾られたキャンパスを抜けて授業に行き、終わって教室を出るとすでに暗く、空には煌煌と月。みなさまも楽しい師走をお過ごしください。

Fullmoon

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復興国債

今日から個人向け復興国債が発売。銀行や証券会社、郵便局など700を超える窓口で購入可。ようするに個人向け国債の利率を少し下げたもの。3年、5年、10年(変動)がある。どのような売れ行きになるかはわからないけれど、利率と償還期間を考慮してもここに集まってくるお金は増やすためのお金じゃなくて善意のお金だろう。とりあえず財務相からの感謝状を送るのだけはやめてほしいと思っている。自分で買って自分に送るの?

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唯識

あの寒さから一日あけてすごい湿気。マンションの廊下に出た時点で結露など甚だしい。皆様転んだりすることのないようお気をつけください。

体調を崩していたので、買ったまま読めなかった本を読む。唯識というのにすこし興味があって、『はじめての唯識 』という本を読む。ジョン・ロック、コンディヤックの経験論、感覚論は五感とそれに対する反省からなっているのだけれど、こちらもそれをキチンと理論化している。そのうえすごいなあ、と思うのは感覚ならびに意識していない瞬間(眠りに落ちたときや気絶したときなどの意識の途切れ)を整合的に説明する仕組みとしてアラヤ識というものを設定していて、かつこれは前世からの記憶もすべて含まれるような感じ(アラヤ識は別名蔵識。記憶を貯蔵することから)。もちろんこれは生まれ変わりを考えていないキリスト教ではありえない話だけれど、日々の行いを律する積極的な理由として(簡単に言うと)「なにもかも記憶(蔵識に記録)されていて、それが影響をもたらすんですよ」という。過去からすべてつながっていて、これからもずっとつながっていく、そのスケールがすごい。

それと、アラヤ識の識(感覚)の数え方でいくと五感にそれを反省する意識があって、さらにマナ識とアラヤ識というのが加わって八識。このマナ識というのも興味深い。諸法(世のすべての現象)は流転していく、それは自分も例外ではないのだけれど、この自分のアラヤ識こそは本当のものである、という過信のよって来るところ。我執の淵源としてマナ識というのが想定されている。この周到な感じ、すばらしい。仏教って宗教でもあり、科学でもあり、哲学でもあるんですね。興味のない人にはまったくつまらないかもしれないけれど、興味のある人には大変面白いものです。経験論、感覚論にかかわりのある人にはおすすめ。

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セニョール・モリーナのこと

セニョール・モリーナがレストランにいって豆のスープとポークカツをオーダーする。

僕がスペイン語を習った最初の年に受けたLLの授業は、とにかく暗誦のクラスだった。毎度暗誦の課題が出て、クラス全員の前でそれをやる。発音に関しては先生がその場で直してくださった(僕はひどい英語アクセントだった)。授業にカセットテープを持参して次回の会話を録音する。その会話に出てくる人物がセニョール・モリーナだった。彼がどういう人なのかわからないが、ビジネスマンなのか、いろんな人にあって仕事とはおよそ関係なさそうなことをしている(「この辺にいいレストランはありますか?」)。チリのスパイだったのかもしれない。そこに出てきたフレーズを覚えてしまうと、なんとなく会話の中で使えてしまうのであって、当時は面倒くさいと思っていたのだけれど、その実大変効果的だったと後で思い返す。学生は18,19だったので四の五の言わさず覚えさせてしまう。言葉の中の仕組みはいつか勝手に理解するだろう、ということだったと思う。

いま、感謝してます。

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