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官僚批判批判

それで、「お前の名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。(マルコの福音書5.9)

国が大きくなっていくとその統治の仕組みは原始的なままではいられないので、官僚的なシステムが必要とされる。スペインだとカルロス三世が即位したとき政府のブレーンはイタリアから連れてきた重臣たちであった。その折、この重臣たちがスペインのことを考えていなかったはずはなくて、カルロスのいるところこそが彼らの政治的な死力を尽くすべきところだったのだろう。これは入れ替え可能な仕組みであって、郷土愛によって機能しているわけではないから、信頼できると思うのだが、郷土愛に根ざした反論に滅法弱い。イタリア人は出て行け、という感情的な反論のおかげでエスキラーチェの暴動が起こり、せっかく整備したはずの都市の街灯をマドリー市民が投石で破壊するという、まあいつもどおりの馬鹿なことが起こったりもした。ほんと、どうかしている。エスキラーチェの無念よな。

官僚が批判されて、しかしその実官僚の用意したペーパーを大臣が読み上げる。官僚批判はおそらく正しくない。たとえばすごく優秀な頭脳の持ち主が選抜されて官僚になるわけだから、それをそうでもない議員が、あるいは市民が批判することに倒錯がある。官僚になった大半の人は、大半の市民よりもとりあえず頭がいいはずなのだ。なぜ官僚の腐敗があるかというと、これは官僚だけの腐敗ではなくて、物事の9割くらいはムダなもので(許せよ)、残り一割の人が辛うじて全体を動かしているのだと思う。場所によってその割合は違うだろうけれど、大抵のものについていえる。スペインはごくわずかな人たちが国全体を守ってきたのだし、ヨーロッパはドイツがいつも貧乏くじを引かされてきたのだし(これは敗戦時からの制裁の意味がもともと大きかっただろうけれど)、どんな組織でもたいていの人は普通かそれ以下のレベルで、できる人が全体を保全するのに貢献している。しかしそれは全体を否定することにはならない。

政治家は地縁で動く。利益が票を生み、票が利益を生む関係にあるからだ。官僚は地縁は持たないが官僚のシステムを死守する。それは自己保存機能を有している。巨大な官僚制が出来上がった後に不要なコストが増えるのはそのせいで、優秀な人材を登用すればするほど、優秀でない人材も取り入れることになる。後者の行き先を用意することが、たとえばいわゆる天下りなのだ。理屈からいえば、それをなくせばいいのだろうけれど、たぶん官僚のシステムに大きな脅威を与えるから、あまり直接的にやると、国家運営より官僚集団の自衛のほうが優先されるので、仕分けなんて大々的にやってはいけないはず。経費を節約するためならいくらでも案はあるだろうけれど(繰り返すけれど、彼らは優秀なのだ)、最初の水の出口を止めるほうが手っ取り早い。そこへ機微のわからない議員が飛び込んでいって好き放題言っても、埒が明かないのは当然で、仕分けたはずなのに復活している費目などに文句を言ったって仕方がないのだ。官僚システム内部の自浄作用に任せるべきで、外部が不見識を振りかざしても仕方がないのである。自浄作用はゆるやかにしか進まない。だからといってそれがないわけではないのだ。水がにごっているからといって井戸を埋めてしまうようなことをしてはいけない。

ところで、ネイションって悪だろうか。ナショナリズムは悪だろうか。僕にとってはどちらも悪ではない。否定しても生まれてくるのならば、それは必要があるはずなのだし、生成の過程で僕は人工的な作用を認めているけれど、その原理のところには必然があると思っている。でもこういうことを言うと原初主義ととられるから、あまり大きな声では言わない。親知らずみたいなものだとさえ思っている。これが国家と重なるとき、あるいは官僚システムと重なるとき、非常に効率のいい仕組みが出来上がると思うのだけれど、その乖離が推進されて久しい気がする。国のために、が別の含意を持っている状況で、誰がそれに尽くせるというのか。少なくともそれを明言して行動することができない。それって、正しいことなのですかね。

官僚制は自律システムだけれど、悪意は介在していない(末端の個人の話ではなく)。それは感情的な紐帯ではないから。なのでシステムの洗練を促す方向で改善を望めばいいのであって、感情的な批判をしてはいけない。その意味で今ある官僚批判は正しくない。もし官僚システムの肥大を批判するなら、同じく肥大した国会議員の数を減らすことが有効だと思うのだけれど、それは僕が官僚システムを信頼しすぎているのだろうか。危ういバランスの上で最大限の予算を獲得することが省庁の自衛なのだから、かならず全体との割合を念頭においているのだし、蕩尽している人たちにお金を使うなといわれても、なんともやりきれない。小さな政府を望む人たちには小さな国会をまず実現する義務があるのではないか。どんなにひどい議員でも誰かの民意を引き受けているわけだから頭ごなしに批判することはできない。その理屈で言えば、地縁のない官僚は全体の民意(国益ね)を引き受けているのだから、安易に批判するのはまったく得策ではないのだ。

官僚批判に血道をあげる代議士(一部の代表)は(全体としての)国益を損なっていることを理解していないのである。もちろん国全体のことを考えている議員もあるだろうけれど、ごく少数だろう。けれど官僚は無条件に全体に奉仕しているのだ(単数にして複数なので)。

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