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2011年10月

遅まきながら、さようならアルルカン。

週に一度授業を受けに行っていることは以前書きましたが、ずいぶん遅まきながら学校のそばの環境が変わっていることに気がつく。正確に言えば、違和感を感じてそれを確認したらとっても驚いた、のだけれど、アルルカンが今年の3月で閉店しているではないですか。

とても素敵な雰囲気の店で、ケーキも食事も大変に美味しかった。さらに、ここは友人と一緒に雑誌を作ろうという相談をした場所でもあって、構想などを練った(すべて実現しなかった!)揺籃の地でもあるのだけれど、違うお店になっていました。

店の前を歩きながら「あれ、見過ごしたかな」と思って、帰り道にもやっぱり見つけられないで不思議に思っていたのですが、とにかくこの10月まで本郷には足を向けなかったので気がつかなかったわけです。

遅くなりましたが、本当にありがとうございました。そして、お疲れ様でした。

アルルカンでだらだら過ごした時間から生まれた『エクスクレイヴ』4号は来月初旬、願わくば2011年11月11日発行の予定です。価格は200円で、送料はメール便なので80円です。例によって100部発行なので、必ず手に入れたいという奇特な方はこちらよりご連絡いただければ幸いです。3号とあわせてほしいという方はその旨是非ご連絡ください。

テーマは図書館。表紙イラストは今回も原瑠美さんに頂戴しました。ぜひ3号と並べて楽しんでいただきたい素敵な表紙に仕上がっています。

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官僚批判批判

それで、「お前の名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。(マルコの福音書5.9)

国が大きくなっていくとその統治の仕組みは原始的なままではいられないので、官僚的なシステムが必要とされる。スペインだとカルロス三世が即位したとき政府のブレーンはイタリアから連れてきた重臣たちであった。その折、この重臣たちがスペインのことを考えていなかったはずはなくて、カルロスのいるところこそが彼らの政治的な死力を尽くすべきところだったのだろう。これは入れ替え可能な仕組みであって、郷土愛によって機能しているわけではないから、信頼できると思うのだが、郷土愛に根ざした反論に滅法弱い。イタリア人は出て行け、という感情的な反論のおかげでエスキラーチェの暴動が起こり、せっかく整備したはずの都市の街灯をマドリー市民が投石で破壊するという、まあいつもどおりの馬鹿なことが起こったりもした。ほんと、どうかしている。エスキラーチェの無念よな。

官僚が批判されて、しかしその実官僚の用意したペーパーを大臣が読み上げる。官僚批判はおそらく正しくない。たとえばすごく優秀な頭脳の持ち主が選抜されて官僚になるわけだから、それをそうでもない議員が、あるいは市民が批判することに倒錯がある。官僚になった大半の人は、大半の市民よりもとりあえず頭がいいはずなのだ。なぜ官僚の腐敗があるかというと、これは官僚だけの腐敗ではなくて、物事の9割くらいはムダなもので(許せよ)、残り一割の人が辛うじて全体を動かしているのだと思う。場所によってその割合は違うだろうけれど、大抵のものについていえる。スペインはごくわずかな人たちが国全体を守ってきたのだし、ヨーロッパはドイツがいつも貧乏くじを引かされてきたのだし(これは敗戦時からの制裁の意味がもともと大きかっただろうけれど)、どんな組織でもたいていの人は普通かそれ以下のレベルで、できる人が全体を保全するのに貢献している。しかしそれは全体を否定することにはならない。

政治家は地縁で動く。利益が票を生み、票が利益を生む関係にあるからだ。官僚は地縁は持たないが官僚のシステムを死守する。それは自己保存機能を有している。巨大な官僚制が出来上がった後に不要なコストが増えるのはそのせいで、優秀な人材を登用すればするほど、優秀でない人材も取り入れることになる。後者の行き先を用意することが、たとえばいわゆる天下りなのだ。理屈からいえば、それをなくせばいいのだろうけれど、たぶん官僚のシステムに大きな脅威を与えるから、あまり直接的にやると、国家運営より官僚集団の自衛のほうが優先されるので、仕分けなんて大々的にやってはいけないはず。経費を節約するためならいくらでも案はあるだろうけれど(繰り返すけれど、彼らは優秀なのだ)、最初の水の出口を止めるほうが手っ取り早い。そこへ機微のわからない議員が飛び込んでいって好き放題言っても、埒が明かないのは当然で、仕分けたはずなのに復活している費目などに文句を言ったって仕方がないのだ。官僚システム内部の自浄作用に任せるべきで、外部が不見識を振りかざしても仕方がないのである。自浄作用はゆるやかにしか進まない。だからといってそれがないわけではないのだ。水がにごっているからといって井戸を埋めてしまうようなことをしてはいけない。

ところで、ネイションって悪だろうか。ナショナリズムは悪だろうか。僕にとってはどちらも悪ではない。否定しても生まれてくるのならば、それは必要があるはずなのだし、生成の過程で僕は人工的な作用を認めているけれど、その原理のところには必然があると思っている。でもこういうことを言うと原初主義ととられるから、あまり大きな声では言わない。親知らずみたいなものだとさえ思っている。これが国家と重なるとき、あるいは官僚システムと重なるとき、非常に効率のいい仕組みが出来上がると思うのだけれど、その乖離が推進されて久しい気がする。国のために、が別の含意を持っている状況で、誰がそれに尽くせるというのか。少なくともそれを明言して行動することができない。それって、正しいことなのですかね。

官僚制は自律システムだけれど、悪意は介在していない(末端の個人の話ではなく)。それは感情的な紐帯ではないから。なのでシステムの洗練を促す方向で改善を望めばいいのであって、感情的な批判をしてはいけない。その意味で今ある官僚批判は正しくない。もし官僚システムの肥大を批判するなら、同じく肥大した国会議員の数を減らすことが有効だと思うのだけれど、それは僕が官僚システムを信頼しすぎているのだろうか。危ういバランスの上で最大限の予算を獲得することが省庁の自衛なのだから、かならず全体との割合を念頭においているのだし、蕩尽している人たちにお金を使うなといわれても、なんともやりきれない。小さな政府を望む人たちには小さな国会をまず実現する義務があるのではないか。どんなにひどい議員でも誰かの民意を引き受けているわけだから頭ごなしに批判することはできない。その理屈で言えば、地縁のない官僚は全体の民意(国益ね)を引き受けているのだから、安易に批判するのはまったく得策ではないのだ。

官僚批判に血道をあげる代議士(一部の代表)は(全体としての)国益を損なっていることを理解していないのである。もちろん国全体のことを考えている議員もあるだろうけれど、ごく少数だろう。けれど官僚は無条件に全体に奉仕しているのだ(単数にして複数なので)。

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ゆっくりとした時間

過日、落胆した折にたまたま佐藤優の『獄中記 』を読んでいて、なんとなく波長が合う。『ナショナリズムという迷宮 』も部分的に非常に面白い本なのだけれど(魚住さんの頼りなさがとりわけ)、とにかく勤勉に本を読むということをせずに、そして今もできずにいる自分が恥ずかしい。もちろん功利的な読書ではなく、ただ文字を目で追うこと自体が快楽であるという程度に低次元であっても。

ところで、スペインから帰って2週間ほど経つけれど、その間実にのんびり過ごしている。授業のない日は大体昼から車に乗って買い物に行って、後は本を読んでいるし、授業のある日も半日はやはり自由時間なのである。こんなこといつまでも続くとは思わないけれど、秋のはじまりのゆっくりとした時間。

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雨のち曇り

年に一度は三鷹の芸術文化センターでコンサートをみている。

昨日は鈴木大介さん、大萩康司さん、村治奏一さんのトリオでの演奏会。一番安定感があるのは鈴木さんだった。あまりによかったので彼が演奏するバリオスの作品集を求めた。これから、秋冬に聴きたくなる録音。

本を読んでいるとき、僕は平行して何冊か読むので、一時にいくつか読み終わるということがある。ところで、夢の中で僕は何冊かの本を読了していた。現実の話ではない。夢の中で何の本を読んでいたのか、大いに興味がある。

最近の情けない話といえば、「読もう、読もう」と思っていた本を5年ほど放置していたことで、買っても読まない、読めない本があるのはいつものことなのだけれど、この本はいつも僕の脳裏にあったもので、読まなきゃなあと常に思いながら5年経過してしまった。

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授業を聴きに行く。

自分が授業をする側になって、ひとの授業を受けるとたくさん発見がある。

僕は文学研究なのに割と社会学に関心を持っていた時期が長くて、最近この分野で感心させられた文章を書く人の授業があると聞き、ある大学の授業に出ている。

授業の内容と授業の形式、それらが渾然一体となってひとつの授業になるわけで、内容が面白いことを話しているはずなのに面白くない授業もあれば、たいした内容ではないものなのに引き込まれてしまうものもある。

自分が授業をすることになったとき、先立つ一月ほどはずっと落語のCDを聞いていたのだけれど、形式と内容の連関が重要だなあと教えられるところ大でした。大学の授業でなくても、話すことを仕事にしている人はたくさんいる。お店の店員やさだまさしや、松岡正剛やさだまさしである。いろんなスタイルがあって、参考になる。経験則としてはたくさん伝えようとしても伝わらなくて、今日はこれだけは覚えて帰ってください、という程度だとそこそこ。その先生の授業は、ほめてプレッシャーを与えるという部分が参考になる。ようするに、「みなさんご存知だと思いますが・・・」といってこちらの無知に塩をすり込む感じ。

けれど、学魔ほどの魅力にあふれた授業にはもう二度と出会わないのでは、とさびしい気持ちで予感している。

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『エクスクレイヴ』4号の宣伝。

宣伝です。『エクスクレイヴ』という雑誌を作っていて、年に二回、4月と10月に出すのですが、この10月に出ているはずの4号がまだ出せていません。なぜかというと僕がスペインに行ってしまったからで、編集作業が滞ったためです。その後も用事が少し続いていたので困ってしまいます。ですが、すでに原稿は素晴らしいものがそろっていて、かつ表紙も説得力のある素敵なイラストをいただいているので、一月遅れで発行する予定です。ええ、宣伝です。

 

Exclavelogosmall

金木犀も散ったころに、『エクスクレイヴ』の4号を出します。目下入稿準備にてんてこまい。僕もささやかに文章を書かせていただきます。

発行部数が100部と少ないせいで、すぐに在庫がなくなってしまうことが予想されます。1号2号ははすでになく、3号はわずかに余剰があります。もし確実に手に入れたいという奇特な方がありましたらこちらよりご連絡いただければ幸いです。3号とあわせてほしいという方はその旨是非ご連絡ください。

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新学期に。

大学によっては通年で授業を担当するクラスと、半期ごとのところとある。すると秋学期にお別れする学生さんもある。

非常勤の教員にはその控え室のようなものがあって、そこで学生の質問に答えたりほかの先生と話をしたりしているのだけれど、前期担当させていただいたクラスの学生さんが訪ねて来てくれた。ありがたいことです。

授業はナマもので本当に毎回綱渡りのような気持ちでいるけれど、それをちゃんと毎週楽しみにしてくれている人がいる、いたのだと思うと報われる気がする。

僕周辺では風邪をひいているという方が多い。僕も先日よりのどが痛くて、今日の授業中から声がかすれてきた。この時期発音の基礎をやっているクラスもあるのでタイミングの悪いことです。来週までには治っているといいのだけれど。

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R. I. P. Steve Jobs

スティーヴ・ジョブスが亡くなる。僕がマックに触れたのはOS8.6からOS9にかけてで、LinuxライクになったX以降あまり触っていない。現在はubuntuに以降してしまっているので、むしろハードとしての美しさばかりが印象に残る。

パソコンを単なる機械以上のものにしてしまったのは、この人の功績によるところ大で、アップルのページにもvisionaryと書かれてあるけれど、そのとおりだったのだろう。

少し前の写真でやせ細ってしまっていて、見る影もなかった。案の定、癌だった。

心からご冥福をお祈り申し上げます。

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金木犀が、もう。

Cafeconleche

金木犀が、もう。ただいまでおかえり。

昨夜、真夜中すぎに帰ってきました。バルセロナ発の飛行機が少し遅れて、中途間に合うかひやひやしながら乗り換えてようやく。飛行機の中で『アンダルシア 女神の報復』を見ました。織田裕二のスペイン語、僕よりぜったいうまいはず。今週から授業がはじまります。

旅先でお世話になった人たちにメールを書いたり、留守の間の郵便を確認したり、少し寝たり。

この1月より懸案になっていたことが片付く。少し肩の荷が下りる。あとはカードの請求額に戦々恐々しながらいきるばかりだ。あと、僕はすごく助かったけれど、怒涛の円高を誰か何とかしてください。というか、この機に乗じてドンドン外国の企業、不動産を買収してください。

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