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2011年8月

山中千尋『レミニセンス』

山中千尋さんの新作『レミニセンス』。デビュー10周年、また全米デビューも達成した記念すべき年は、日本が大震災を受けて大変な状況に陥った年でもあって、そういうことが反映しているよう(『jazz Life 』冒頭のインタビュから)。キャッチーな曲の多いセレクション、オリジナルは冒頭のみだけれど(これが震災関連)、その他の曲でもやはり千尋節が健在。聞いていて気持ちが前向きになるような感じ。アルバム末尾にはちょっとしたサプライズも含まれています。DVD付の限定版のジャケ写真が美人過ぎる。

当面エンドレスで楽しみます。9月後半のお披露目ライブは見に行けないので、11月ごろ見に行ってきます。今から楽しみ。

 

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本日のGoogleロゴは

ボルヘス・ヴァージョンだ。

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やがて秋。

先週末ずいぶん雨が降って、涼しくなった。秋のようだった。覿面に体調を崩す。熱を出して寝ていた。

もう毎年のことなので書くまでもないのだけれど、大人のくせに夏休みの宿題が八月末まで終わりそうにないのはどうしたものか。

過日ぶつけた車は立体駐車場入り口のポールにあてたのでした。もう、ほんといろんな人に申し訳ない。練習したらちゃんと入るようになりました。油断は禁物だが。

やがて秋。締め切りが冬なら、また違ったはずだ。

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8月が折り返している

大事なことなので、忘れないようにメモする。

Scynu

もう8月が折り返している。すごい。

4月ごろのTo do listを見ると、10月くらいまでに大事な用件が7つ入っていた。1つはキャンセルになったので、6つ。そのうち4つまでを退治している。今年は1月からずっと息つく暇もなかった。ようやく、世界に色彩がかえってきたようだ。まだ終わっていないけれど、峠は越えた気がする。それからのことは、それからかんがえる。

このところ、異なる二つの場所で「民主主義のコスト」という文字列を目にした。それが頭を離れない。

どうでもいいことだが、父が車を買って、僕が早速ぶつける。こうやって経済が回っていくのだ。

部屋の中にナショナリズム関係の文献を集めたタワーが3本立っている。そろそろ解体してもいい頃なのだが、まだ使うような気がしてなかなか。

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Go_for_a_walk

もう涼しくなってからじゃないと散歩に行きたくないよ。

用事があって大学にいき、帰り道アイスを食べながら帰る。汗をいっぱいかきながら、自転車の小学生たちに追い越されながら歩いて帰る。

子供のときから夏は暑くて、信頼の置ける季節だ。仕事には一切向かないけど。とはいえ会社員の人たちは職場にいるほうが涼しいわけで、僕も汗書きながら本を読むほど真面目ではないので、涼しいところへいって読む。

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逆効果なのではないか

僕の専門であるカダルソの一歳年下でアントニオ・カプマニというひとがいる。偶然だが、1762年ともにポルトガル戦役に参加している。以前ここでも紹介したことがあるが、その後軍籍を離れて文筆業に入った。彼がこう書いている。

”La nación que vive enamorada de otra está ya medio vencida, dejando poco que hacer, en una invasión, a la fuerza de las armas.”(Capmany, Antonio. Centinela contra franceses. Ed. Françoise Étienvre. Madrid: Centro de estudios politicos y constituciones. 2008. 43)

文化を侵食された国は、すでに侵略されているのだという警鐘をここで鳴らしているのだが、これは18世紀後半ヨーロッパの殆どの国に当てはまることだったろう(フランス文化をもてはやしていたので)。今、こういうソフトパワーでの侵略が現に起こっているとしたら、困ってしまう。僕のようにTVというメディアを目にしない人間の杞憂なのか、一部のひとが大騒ぎしているだけなのか、あるいは当該国の文化による侵略そのもののずさんさに対する僕たちの辟易なのか。つまり百害あって一利なしなことを、あからさまにやっているひとがいるので僕たちがうんざりしているということなのか。とにかく、その良し悪しを別にして僕は隣国とその文化に関心がなくなった。これは、逆効果なのではないか?そして一方、ますます台湾が好きになっちゃうのだ。

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脱皮

最近また地震が多くて心配。

今朝、珍しい蜘蛛の脱皮を目にした。脱皮をスペイン語で "cambio de piel"という。普通、使い道のない表現。フエンテスの小説くらいしか知らない。

むかし恋人が読んでいた を、今読んでいる。ああ、こういう関心を持っている人だったのだな、といまさら気がつく。別に恋人に限らず、ああ、あの人とはもっといろんな話をしておくべきだった、という人が多い。過ぎてから気がつく、そういうものなのだろう。

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早稲田のアンダーソンの話。

ベネディクト・アンダーソンが2005年に早稲田に来たということを僕はその講義録 (2007年)の出版によって知ったわけで、いつもどおり間が抜けていたわけだけれど(ついでにいえば、今年の5月にも来ていたようだ)、この講義の使用言語は当然のごとくして英語だった。それが翻訳されているのがこの本なのだけれど、英語のオリジナルがどこかから出たりしないのだろうか。あるいは、すでにどこかにあるものなのだろうか。知ってる人がいたら是非教えてください。

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セミの声、悲歌のシンフォニ。

ようやくセミの鳴き声。音楽にそれが重なるととても不思議な気がする。今耳にした音を、もう二度と耳にすることが出来ない。グレツキの『交響曲第三番』はかつて大学生の頃、夏に部屋でずっと流していた音楽で、暑さをやり過ごすように、寝転がって、今同様にしょうもないことばかり考えていた。グレツキは昨年亡くなったのではなかったか。昨日ふと聴きなおしてみて、そこにセミの声が重なる。先ほど言った事と矛盾するけれど、ああ夏だなと思い返す。同じ音ではないはずなのだが。

ジンマンの指揮、アップショウのソプラノのこのCDが一番有名だけれど、ほかの録音も随分手に入りやすくなった。

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