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2011年7月

徒に言葉を費やさないでほしい、と言葉を費やす。

ナショナリズムとはいろいろ矛盾をはらんでいるので、いまだに解明できない。だからそれぞれの論者が立場をことにして自分は正しい、みたいなことを言うのは不毛だともう分かっていて、議論の際に「自分はこういういみでネイションとかナショナリズムといっています」と宣言してから論を進めることが多いのだが、やっぱり齟齬が生じることも多い。ところで、ネイションなりナショナリズムなりがこういうメカニズムで出来ている、機能している、ということを一挙に解決するような理論を提唱する、というのはもはやずいぶん研究が進んだ今では難しくなっていて、そのことの困難が分かりきっているので、議論のトレンドは変わろうとしている。

そのようななかで、ネーションやナショナリズムの概念を固定的に(「本質主義的に」)捕らえるのではなく、これらの概念によって把握されている歴史的現象自体をいくつかの要因に分解し、そのうえでその諸要因の歴史的経緯をたどるという方法での分析が提唱されている。(中略)ゴースキはカルフーンの観点をさらに発展させ、その各「糸」がいかに「織物」へと織り上げられていくのか、その不連続な歴史の「系譜」をたどることの方が、ナショナリズムの「発生」を問うよりもはるかに有益だと主張している(Gorski [2000])。

佐藤成基「ナショナリズムの理論史」大澤、姜編『ナショナリズム論・入門』有斐閣、2009年、53ページ。

カルフーンは1997年のNationalism (U. Minnesota Pr.)で、ゴースキはAmerican Journal of Sociologyに2000年に掲載された論文への言及。これは敗北主義的な撤退ではまったくなくて、ケーススタディに足を置きながらこういう議論をしていくと良いなあ、と思う。というのも、たとえば自分と立場をことにする理論があるとして、でもその中に納得させられるものが含まれていたりする。ルナンとかフィヒテの書いていることは今から見ても十分現代性をはらんでいるし、一方で大好きなアンダーソンについて僕自身「それはどうかなあ?」と思う箇所がある。さて、最近そういったパターンの組み合わせで目の前の事象に取り組むべきだ、と思っているので、ますます自分の立場というものが流動的な、ある意味では一貫性のない、柔軟なものになっている。

ところで、だ。僕の知っているケースだとネーションは単独で存在しないし、自分のネーションが危機に陥るとナショナリズムが発現しやすい。かつ、外部からの攻撃を受けると明らかになりやすい。そんなわけで、今とりわけナショナリズムが噴出しやすい状況にあると思う。日本の話だ。そこへ、普段から旺盛に日本を攻撃してい来る他者が現れると、危険だよなあ、と思う。で、相手が誰であれ、相手を変えることは容易ではないので、自分を変えたり、やり過ごしたり、ということが良いとも思うのだが、ずっとそんな対応をしているネーションはないんだろうな、と最近になって感じている。日本はナショナリズムに重厚な鍵を掛けている国なので、暴発することはないと信じたいけれど。

対抗するにしても同じレベルで反撃してはいけない。相手にされたことと同じことを仕返しても泥仕合だと思う。そして、その相手のやっていることをくだらないと思うのであれば、自分がその程度に堕する必要はない。ただ一度、明晰な言葉で対抗すれば良い。だから、徒に言葉を費やさないでほしい。あるいは、説得する甲斐があると思うのならそうしてほしい。そう思わないのなら、エネルギーの無駄だ。

ネットで目にする、テレビと複数の隣国についての話。

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スピヴァク『ナショナリズムと想像力』

ネーションやナショナリズムという言葉が表題にある本は大体購入するのだけれど、ガヤトリ・C・スピヴァク『ナショナリズムと想像力 』青土社、2011.は買わなければ良かった一冊。とても批判しづらいのだが、スピヴァクの名前が入っていれば売れるでしょう、というような感じ。ブルガリアのソフィア大学での講演だが、この本を読んでいつこの講演がなされたかが分からないというのは、どういうミステリなのか。たぶん2009年以前で、これの英語テクストはここ で入手できる。邦訳で、あるいは2010年のSeagull(カルカッタ)版で削られた、講演のオリジナル原稿の経緯も初めに話している。字が大きくて、ナショナリズムの理解には有益ではないけれど、スピヴァクと書いてあればなんでも、という人向け。1600円のうち1000円はブランド料だ。

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おめでとう、ミッチー!

及川光博さんと壇れいさんがご結婚。

おめでとう、ミッチー!どうぞお幸せに!

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同じ箇所(ibid.)を意味するに

論文を書く上での傍証方式はさまざまにあり、一長一短ともいえるが、書き方ガイドみたいなものを一冊だけ読んでそれを踏襲してしまうのは危険だ。というのも著者が困った人である場合、自分も困ったことになりかねない。なので、たとえばゼミや授業などで先生がこれという方針を決定しているのでなければ、何冊か比較する必要がある。大まかに言えばヨーロッパとアメリカで大別できるし、ヨーロッパについてはそれぞれの国で方式が違う(正書法も違う)。なのでひとつの外国語しか知らないと、よその国のものを読むときに面食らう。

細かいことはさておくけれど、世の中に横行していて、かつ正しくないと思っているラテン語の略語の使用がある。ibidem (ibid.)がそれなのだが、これは「まさにその同じ場所」を指しているのである。だからたとえば次のような場合は誤りだ。

(1) Nicolás Fernández de Moratín, Teatro completo, ed. Jesús Pérez Magallón, Madrid, Cátedra, 2007, p. 414.
(2) Ibid. p. 412.

なぜ誤りというに、同じ本でもページが違うから。この場合は

(2) Nicolás Fernández de Moratín, op. cit., p. 412.

が正解である。

わざわざこんなことを書くのは、間違えている人があまりに多いから。Ibidemとop. cit.は違うから二つ存在するのだし(同所と前掲書は違うでしょ)、ibidemの意味を調べもしないでそんな略語を使わないでほしい。

それから、スペイン語に関してはibid.ではなく ibíd.とする(アクセント記号)。ページもpág. (págs.)とする。細かいことだけれど、そうしなくてはいけない。さらに細かいが、ibíd. op. cit.それぞれイタリックにするのが筋だ。

とはいえ普段僕はMLA方式で書くので、こういう書き方はしない。たまたまこのヨーロッパっぽい方式で注をつけるよう指示がある媒体にあてて原稿を書いている。編集部の指定があれば「変だな」と思ってもそれに従う、というのも大事なルールである(その媒体だと上記の例は、FERNÁNDEZ DE MORATÍN, Nicolás, Teatro completo, ed. Jesús Pérez Magallón, Madrid, Cátedra, 2007, pág. 414.と書くように求められる)。それから方式は一様ではない、ということを常に心に留めておくべきだ。要は仕組みの根幹が分かっていればどの方式にも対応できる(書き換えられる)。

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自戒と所蔵

翻訳を見たときに、別の言語の翻訳も見てみると結構面白い。面倒くさいけれど、面白い。ギリシア語などは僕に分からないので日本語やスペイン語、英語で読み比べることがあって、なるほどそれぞれに拠って立つ理があるなあ、と感心する。で、結局自分がどういう風に引用なりするか、ということをあらためて考えさせられる。

ところで剽窃はしてはいけないが、引用はしていい。先人の蓄積なしに一行、一文字たりと僕は書けない。ただ、引用をするからにはそれなりの敬意を表すべきなのであって、たとえばこの面倒くささや、傍証の際の細々としたルールを遵守することが、あるいはそれにあたっているのである。そういうのが向かない人は、研究者はおろか、厳密さと誠実さを求められる仕事にはたぶん向いていない。

でも世のおおよその仕事は、その誠実さなしになされるべきではない、と自戒。書き物に拠らず、誰かの仕事の成果に拠って立つとき、それを忘れていることも案外多い。図書館で、「まさかこんな所蔵が!」と驚くとき、それを入れてくれた先人に感謝する。故人であることも多いが、数十年前に誰かが「これは必要だろう(いつか必要になるだろう)」と思ってくれたことがありがたい。

次の世代にその恩恵を手渡すことが、唯一可能な恩返しなんだろうと思う。

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R. I. P. TAIJI

Xのベース奏者であったTAIJIが亡くなる。

Xをやめて後、ミュージシャンとしてのキャリアが、あるいは私生活が幸せであったかは分からない。目にするところ、聴くところ、色々と辛い話題が多かった。

けれどベーシストとして、本当に素晴らしいプレーヤでした。

心からご冥福をお祈り申し上げます。僕にとってXのベースは、いつまで経ってもTAIJIのままだ。

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訳文/原文

翻訳を通じて読んでいた本の原文をチェックしたときに、誤訳ではないのだが、自分の思っているようなニュアンスではないことが書かれてあったりして、ハッとする。誤訳ではない。翻訳をする上での手管だったり、いわゆる良い訳なのだが、日本語として形になっているものが自分の琴線に触れたり、あるいは引用などをして引き合いに出したいと考えているものであったのに対し、原文を読んでみるとこのままの文で「はたして同じような発想を抱いただろうか?」と頭をひねってしまうことがある。

別のケースを考えてみる。あからさまな誤訳であったとして、しかしそれは原文に当たらないと分からない。その誤りの中に自分が考えをまとめるヒントがあったとしよう。その場合、アイディアの源泉となったのは原著者ではなく、誤訳をされた方なのではないか。まさか誤訳してくれてありがとう、とお礼を言うわけにもいかないだろうが、感謝をささげたい幾許かの気持ちが僕の中に生ずる気がするのである。

要するに翻訳で「いいな」と思ったら原文もすかさずチェックしなさい、ということなんだろう。後になればなるほど、手遅れの可能性もある。

このこととは関係ないのだが、今朝(2011年7月17日)の朝日新聞が初代原子力課長の証言を入手、紹介している。当初から組織は妥協や隠蔽の産物であったという主張をしている。その抜粋の中に、とても心惹かれるところがあったので、引用してみる。むかし、たしかに厳密な人がいたという証拠として。

 イタリア、スイス、英国、米国、カナダ、どこの国に行っても、原子力の行政組織は行政委員会でやっているという報告書になっている。行った人の言葉を使えば多頭的であると。

 ところが行政委員会を作っているのは米国だけでほかはどこにもない。しかも米国の「アトミック・エナジー・コミッション」は戦時中の(原爆開発をした)マンハッタン工兵管区を書き換えたものだ。

 フランスでは「コミサリア・ア・レネジ・アトミック」という。(視察団の)連中が委員会と思ったかは知らないが、フランス語で「コミサリア」は役所だ。英国は公共企業体(公社)で「アトミック・エナジー・オーソリティ」だ。米国以外に行政委員会はないが、牽強付会にどこも委員会である、だから日本でも委員会を作らなきゃいかんと、ここだけは強調した。

 それに対して若い事務官、例えば豊永恵哉君(のち資源エネルギー庁次長)は、こんなばかなことがあるが、どこにもないのにこんなうそ八百書けるか、とだいぶ憤慨した。報告書が尾を引いて原子力委員会ができたのか、もっと高度の判断であったのか、私は存じない。

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窓を開けて

窓を開けていると思いのほか涼しい。井上陽水さんの二枚組みベストをエンドレスで聴いている。この人は本当にすごいね。「部屋のドアは金属のメタルで」が心に突き刺さる。こういう歌詞を書けるのが理想。歌も声も素晴らしい。そして、そこはかとなく暗いと思う。ネガティヴなものが横溢している、なにか不吉なものが根底で蠢いている。だから繰り返して聴くのは本当はキケンな気がする。

人は出会って別れるのが常態で、また再会したりもして、けれど最終的にはすべてにさようならをする。

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一眼レフのケースに乾燥剤を入れているのだけれど、ギターの弦もこの中に保管すればよいのだと気がつく。そうか、そうか。

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ふらっと。

矛盾している。

僕はほとんど外食をしないので、もし外食をすることになったらおいしいものが食べたい。でもおいしいものを食べられる店に出会う確率は、案外低いのだろう。なので、「ここはいいな」と思う店は大事にしたいし、そうすると頻繁に訪れたりもしない。たまに訪れて、というくらいのスタンスでちょうどいい。そしてなるべく誰にも教えたくない。ひっそりとそのお店が今日も開いていたらいいな、と願うばかりだ。来週になれば、テストの採点もすべて終わって、きっと少し時間が出来るだろう。ふらっと行ってみようか。

そんなことを思う店が、ちょうど五つくらいある。五つくらいしかないのだが、五つくらいある。

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テストラッシュ

本日までで授業はすべて終了。明日からテストラッシュです。

こちらはすでに問題を作っているので楽なのですが、学生さんはほかの授業もあって大変だろうなあ、とお察しする。でも尋常でない発想や知識を要するテストではないので、平常運転で頑張ってください。その先は夏休みです。

僕はそのあとの採点で頑張ります。Vicuñaで頑張りますから。

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要領のいい人、わるい人。

要領のいい人、わるい人。

タイミングのいい人、わるい人。

自分に似ているせいか、僕は要領がわるくて、タイミングがわるくて、損ばかりしている人を応援したくなる。そして、僕を応援してくれる人もたぶんそうなのじゃないか、とぼんやりと思っている。それは要領のいい人、タイミングのいい人が嫌いということじゃないよ。

Gim

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ささやかな同窓会。

Pelayo_dbdc

かつての職場でご一緒させていただいた方と会う。数年ぶり、ということか。その間僕もいろいろ変わって、環境もいろいろ変わって、ただそれだけなのだけれど、面白かった。帰り道、冴え冴えと月。沈み込むように眠りに落ちる。そして新しい日が来て、今日もするべき仕事は山積みだ。

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白水社『和西辞典 改訂版』の誤記。

白水社の『和西辞典』 446ページから447ページにかけて「故障」の項目があるが、その中に

故障車 coche m averiado (etropeado. descompuesto)

とあるけれど、正しくはestropeadoです(電子辞書も間違いがそのまま収録)。そうはいってもこういうのは気がつきにくいし、これによって辞書の価値が下がるわけではありません。

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外国語を読むこと

7月はTHE YELLOW MONKEY(ジ・イエロー・モンキー)を聴くのが僕の大事な儀式で、今朝も大いに楽しく出勤。こんな良いバンドがあったんだな、と懐かしく振り返る。

ジョギングをしたりしているときに音楽を聴くといいのかもしれないと思いつつ、イヤホンをして走ることに抵抗があって出来ずにいる。というのも、耳は廃熱のための重要な部位であって、表面積が多いことから熱を効果的に放出できるからである。イヤホンをして走るとそれが損なわれるような気がする。

耳は聴くためにあるのだが、また一方で体温の冷却機能をも担っている。呼吸もまさしくそうだ。とすれば、一面的に物事を判断するのは、誤りを犯すことに限りなく近い。

たとえばある外国語を読んでいて、辞書を引き引き単語の意味を調べたりしているとして、最初に見つけた語義だけで解釈しようとする誤りは初学者の必ず通る道であって、けれどどれを採るべきか、という判断は場慣れによって得られるものであって、機会を多く持つしかない。

最終的に語源にまでさかのぼってみるとはじめて、クリアーに見えるものもあるだろう。僕が授業で語源の話を割合長くするのはそんなことも関係があるかもしれない。

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そろそろ一学期が終わる。

学校を出てしまった人には関係がないことだけれど、僕のようにいつまでも大学に残っている人間にとっては、学期のはじまりと終わりはそれぞれに落ち着かない気持ちになる。

成績をつけたりという作業もそろそろ視野に入ってくるけれど、僕が今の学生さんを見て「自分が学生だったときよりもずいぶんしっかりしているなあ」と思う限りにおいて、いつもいつも、僕が成績をつけることのおこがましさを覚えずにはいられない。

偶然、なのだが、異なる大学で同姓同名の学生さんがいる。それぞれ混同することもないのだが(それは、学生さんの名前を教室の背景とともに覚えているから)、なんだか面白いなあ、と思った。

テスト期間がそろそろはじまる。体調を崩されませんように。僕も試験問題を作って、試験時間中にかけるCDも選んで(先に紹介したリスト で)、準備万端だ!

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夏の夜に思い出すこと。

夏、学生の時分、自分は下宿の屋根に上って酒を飲んだりしていた。花火大会があったり、国道を連なって走っていく自動車のライトを眺めたり、あるいは近所のスーパーの看板や、遠くに見える大学を眺めて酒を飲んでいた。ようするに、何もせずに酒を飲んでいた。

どこかに自衛隊の基地があったのだろう。海でもないが灯台のようにぐるぐると回りながら光を発している場所があって、それがいったい何であるのか自分にはわからないのだけれど、そういうものがある、ということだけは知っていた。それは部屋の東向きの窓からも見える淡い光なのだが(この窓は僕の悲しみを一手に引き受ける世界に穿たれた窓で、さまざまな意味において眠れない夜を過ごしたことに刻印を押すための装置だった)、一定のリズムを刻んで夜通し未来派のポスターのように世界に警告を発しているようでもあったのだ。

あの気楽な夏休みを、もう取り戻せないのはありとあらゆる意味において正しく、それを過ごしたことが僕にとって幸運であったか不運であったかはわからないけれど、かえすがえすも懐かしい。ほとんどの時間、僕は一人であったし、夏休みは大学の図書館で過ごすばかりであったので、世の人の言う青春は知らないのだが、それでも懐かしく振り返る。

さまざまなものを奪われて今ある人たちに、僕はなんとなくあのグルグル回転する灯火の存在を伝えたくてならないのである。

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シンプルさ

朝起きるとすでに暑い。いや、朝起きる少し前の朦朧とした時点から暑い。そして暑い一日なのだろうな、と予感しながら今日するべきことを頭の中にセットしていく。でも暑いのでそういうことは溶け出して枕に吸い込まれていく。

ガンガンクーラーをかけて、という生活スタイルとは無縁であっても、昨日今日冷房をし始めた、という人は多いのではないか。僕は6月半ばまでスーツで授業に行っていたが周囲から見てるだけで暑い!といわれて私服になった。たまたま試験があって学生さんが答案に「今日はカジュアルですね。何かあったんですか?」と書いていた。その後はTシャツにジーンズで大学に行って、廊下や階段で学生たちに服のセンスがないことをアピールして歩いている。

しなければいけないことを夏にしおおせた記憶がない。勝負が秋冬であるならば勝てるのではないか、と思うが夏はよくない。断じて、よくない。先述、するべきことのリストは消化される前に溶解しているのであって、今日もテストを作り忘れたし、翻訳もし忘れた。ただギターを5時間くらい弾いただけで、ビールを2リットルくらい飲んだだけで僕の七月初日は終わっていく。

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避難所は暑いだろうな、と思っていた。つまり、前回書いたことをずっと考えていたのである。

避難所では電気の使用制限はありません、といってもそも使用電力量が多い施設とは限らないので、皆省エネモードになる。たとえば各家庭で使用されていた機器が一箇所に集められているのだから、無駄は減り結果として電力の消費量は減っているはず。消灯時間などもきっかりとあって、さらに家財など失われているのだから、使用する機器がない。つまり、避難所の人は否応なしに節電生活を強いられているのではないか。そういう皮肉な状態。

暑さのこと。体育館などの大きな空間を効率よく冷やせる機械をメーカーが寄付してしまったら、たぶんその避難所にいた人が生活を再建したときそのことを思い出すと思うのだがどうだろう。ところで、力いっぱい冷やす機械のほうが効率がいい、という話を聞いた。熱交換の度合いにブレーキをかけているのが温度設定やサーモスタットなのであって、冷却効率自体を考えればとにかく冷やすというシンプルな機器のほうが構造が簡単なのだとか。よくわからないけれど、オーディオのヴォリュームに似ているかもしれない。アナログのアンプのヴォリュームは抵抗であって、電気信号を小さくすることで音量を絞る。つまりヴォリューム全開が抵抗ゼロの状態となる。そもヴォリューム全開で音楽を聴いたことがある人はどれくらいいるだろうか(デジタルアンプは逆の発想)。そのシンプルさに似ている気がする。熱交換器と送風機。それをガシッと誂えてなんとかならないだろうか。前者はガス業者が得意なはずで、後者は業務用の扇風機を作っている専門メーカーがあるはず。

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僕の暑さ対策。リストのピアノ・ソナタ を聞くと涼しくなるっぽい。このアルバム、「孤独の中の神の祝福」が好き。

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