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2011年2月

コンパクト

Umut Özkirimliさんのナショナリズム入門書がすごい。Theories of Nationalism: A Critical Introductionという本。カンディンスキーが表紙にあしらわれております。

名前の読み方が分からないけれど、実はいくつかの和書に登場していてウズキリムリさんとお呼びするらしい。男性、1970年生まれ。語り口が平易、まとめ方も要点をコンパクトに、知っていることだけ冗長に話す書き手でもない。何より、多分この人はメモを取らずとも記憶を定着させうるのでは、というほど整理が行き届いたチャートを描いている。

最近ナショナリズム研究で優勢になりつつある言説分析という一派があるのだが、この人もそう。で、先達としてはクレイグ・カルフーンがいるけれど、彼がその基礎にすえた10項目(境界とかメンバーシップとか色々)があって、的を射ているのだが何といっても数が多いので、もう少しコンパクトにする必要があると思っていた。ウズキリムリさんは1.アイデンティティ、2.時間、3.空間という分け方をしている。僕の中ではこれがとてもピントのあっている提案なのでとても驚いた次第。対象の地域、時代、ケースに即してもちろんこれを増やすことも出来るし(減らすのは難しい)、20個、30個でも分析のキーを増設できるけれど、基本はこれでいいと納得した。

トルコの方だけれど、ロンドンでも研究をされたようだ。英語も当然見事。理路も整然としているが、(あまり)感情的にならないところが好感が持てる。面白いのは、これ第二版なんだけれど(2010年に出た)、初版(2000年)への批判を見事に回収しているところ。概説を読みたい人は最初から。ナショナリズム研究の歴史について概略は知っていて、言説分析に関心のある人は6章から最後まで。

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かつて一度も

人と会うのが仕事、と思うとき。相手にとっても、自分にとっても考えを整理するのに有益であればいいな、と思う。多分あらゆる角度からさまざまなテンションを加えて、もっともしっくりくると自分が思ったとき、そのアイディアについて迷いなく書き始めることが出来る。Foret

特別な言葉や、難解な用語をもちいることなしに、的確なアイディアを伝えられる人はすばらしいと思う。本当に分かっている人だけが、そうすることが出来る。言葉が堂々巡りするときは駄目。難しい言葉や概念を振り回しているときは駄目。聞く人の心にすっと入り、手近な例で説明できるモデルこそ美しい。

言葉でなにかを伝えることは難しい。けれど、簡単だと錯誤したことはかつて一度もないのだ。

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記録を読んで、解きほぐす

カダルソの書簡の中に、同時代詩華集みたいなものを作りたい(そういう作品は実際には残っていないのだが)とあった気がするので、どこだったかと『書簡集』をパラパラめくっていた。目的のものは無事見つけたのだけれど、途中読んだ、1774年4月、カダルソがサラマンカからトマス・デ・イリアルテに宛てて書いた手紙。

Hago ánimo de formar para mí mismo una colección de mis cartas familiares, y así envíeme Vmd las que tenga mías, si no se ha limpiado el culo con ellas.

親しい人に宛てた手紙のコレクションを作ろうと一念発起。なので君が持っている僕の手紙があれば送ってほしい、もしそれでケツを拭いていなければ。

こういうの読むと笑ってしまう。文学史の中に出てくる鹿爪らしい虚像よりも、実際に生きたその人たちに接近することの難しさ、またその必要性を感じる。結局引用だってコンテクストが分からないと違った意味で使われかねない。

書簡ではないが、2008年にマヌエル・ゴドイの回想記が出た(アリカンテ大学出版局)。これは10年くらいかけて読みたいなあ。すごい大部。ゴドイって、これだけ「書ける」人だったわけだ。僕はそれだけでも見直してしまう。

ゴドイは18世紀末スペインが凋落する原因を作った張本人と思われている。でも、やっぱりいろいろ考えたと思うんだよ。ナポレオンと接触して、いいように使われた後気がつかなかったはずはない。やばい、と思った。で、後代に自分の言い分を残している。もちろん見苦しいのもある。「その時期自分はもう役職を引いていたので・・・」というような。でも、やっぱり生きた人間なのだから、いろいろなことを考えたはず。それを誰かが解きほぐす必要がある。

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ひずみ

NZで大きな地震。被害が少ないことを祈って。

リビアで内乱。殺し合ってる場合じゃない。

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しおりのこと

文庫本に挟まってくるしおり。新潮文庫はしおり紐だからないけれど、岩波文庫、ちくま文庫、角川文庫、さまざまに。

それとは別に、書店のしおりがある。書店の広告も兼ねているそれ。古書店で買った本にこれが挟まっていると、その本の来歴に思いを馳せる縁となる。いくつかチェーン展開している店の場合、はてどの店で買ったのだろうと考える。その本を贖った古書店に近い場所か、はたまた出先で不要になったのか、それとも・・・。

僕はフランクフルトの駅に岩波文庫の『フランス名詩選』を忘れてきてしまった。余白に友人の電話番号をメモしてあったので、それを見て電話をかけたのだが、うっかりそのまま置いてきたらしい。もし誰かがそれを手にしたなら、不思議な本だと思っただろうか(フランス語と日本語の対訳)。案外日本人の人が「あら」と思って手に取っただろうか。ただ遺失物やあるいはゴミとして処分されてしまっただろうか。

しおりとは何でもいいのであって、手近にあるものを挟んで用立てることもある。レシートとか、葉っぱなんかで。そういうのに出会ったら、またいろいろと考えてしまう。いつだって、そうなんだ。

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気が早い

気が早い!
Wd

如月がもっと長かったらいいのに、と思っているのですが。

如月は「着更着」からきているとか。寒さゆえのことですね。

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どうしようもないじゃないか

Fs
スペインの郵便はあまりアテにならない。なのでスペインから大きな荷物なんかを送るときはかならず保険をつけるようにする(そういうオプションがある)。国内で小包なんかがある場合は、ネット上で追跡できるのであれば注意深く見守ったほうがいい。

数ヶ月前から行方不明になっている本があるのだけれど、調べてもらうとこういうことだった。

小包はたいてい不在通知がポストに入っていて、それを郵便局に採りに行く。そもそも、小包を持ってきてはくれないので、不在通知というより到着通知である。まあ、これは仕方ない。スペインの郵便やさんはバイクやワゴンではなく、買い物カートみたいなものに手紙を入れて配達している。だから小包なんて持って歩けないのである。

問題は、この通知が違う家の郵便受けに入っていることや、あるいは道に落ちていたりすることがある。今回がそう。で、保管期間が過ぎてしまって返送された、ということらしいのだけれど、こんなのどうしようもないじゃないか。

さらに困ったのは返送後の手続きである。発送元の郵便局に戻ったはいいが、当の発送者に通知が行くわけでもない。ただ小包が移動しただけ。返送されたので取りに来てください、という連絡が発送者に行っていないのである。こんなのどうしようもないじゃないか。

どうにか手元におきたいと思っている本なのだが、いったいいつになることやら。


Pc

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時を刻まない時計の話。

結局過日復活したG-SHOCKはこんなの。
Gs

実際につけていたときよりも後になって、ウレタンバンドの劣化が激しく、いろいろ外れてしまった。愛着はあるものの、こんなのは腕にしていけないのだ。

時計が時を刻む瞬間に立ち会うことは案外少ないのではないか。とはつまり、気にしない間も時を刻んでいることが時計の使命であって、見ていないときにも同じ精確さで時間が流れていることを保証することがその存在理由なのだ。

前回、この時計の電池がなくなった瞬間の、グラナダでの夜のことを僕は鮮やかに記憶している。僕はその時、その女の子と(恋人ではない)ソファに掛けて他愛もない話をしていたのだ。そして液晶の表示が消えた瞬間に立ち会った。時を失うことによって、この時計は時を刻んだのである。

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帰り道

文章を書く作業は、実際に書いている(タイプしている)時間は短くて、書くまでの時間が長い。先にこういうものを書こうという形が見えているなら話は早いけれど、なかなかそうもいかず頭の中で不定形なブロックを組み合わせて過ごしている時間が圧倒的に長い。

歩きながら考えると、歩調のリズムと相まって、少しずつ前進するような気がする。あくまで、そんな気がする、という帰り道。Way_home

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毎日来る鳥

毎日来る鳥がいる。

Kinkan
マンションのヴェランダに金柑の木があって、実がなっている。子供のころなど、こういうの嬉しかったけど、最近はあまり採って食べたりもしない。で、鳥が来る。

金柑ははっぴぃの好物でもある。黄色い実などは採ってあげる。なので、はっぴぃとしては暇さえあれば、自分の届く範囲に実がなっていないかを確認に出る。大事な仕事。なので、鳥は許しがたい敵なのである。

この前はっぴぃが寝ているときに鳥が来た。で、延々と鳴く。なんでかな、と思ったらはっぴぃがそばにいないかどうかを確認している。で、来ないと分かったら金柑をぷちんと啄ばんで飛んでいった。賢いなあ。

最近、この鳥と一緒にスズメが来るようになった。たぶんこいつが一番賢い。

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楽観的に過ぎる

去年、CDはもう100枚買わないんじゃないか、というようなことを書いたけれど、今年に入ってすでに20枚くらい買ってる。楽観的に過ぎたなあ。

僕は殆どガムを食べないのだけれど、ガムの栄養素について最近気になって調べたらこんなサイトに。世の中にはいろいろな人がいるもの。結局嚥下しないガムベース部分の栄養はどれくらいなんだろう。殆ど栄養がないことはわかる。でも、ゼロなのか?

ガムというと僕など歯茎のほうを思い出してしまう(あと気持ち悪いのだが歯茎の形をしたお菓子がある)。スペイン語圏ではチクレ(chicle)と言っていた気がする。これはナワトル語起源らしい。

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ギターを弾きたくなる本。

少し古い本だけれど、とても好きな作品に『ギター音楽への招待』がある。出てくる名前もきらびやかだけれど、20世紀が少しずつ遠のいていく感覚を覚える。

いや、本当はそんなことどうでもよくて、ギターを弾きたくなる本。

最近ヴォルフガング・レントレのCDを入手。すごいわ、この人。技術が卓抜すると機械的な演奏もまた増えるのだけれど、一音一音血が通っていることがよく分かる。とってもオススメの一枚。

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ほとんど味はしない。

ウチのワンは病院でもらう療養食なので、食事に関して道楽をさせてあげられない。散歩とそれだけが楽しみだろうに、かわいそうなことである。

ところで、こんなパッケージのフードが売っていました。シュナウザー好きの心鷲づかみ。

Pedigree

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いい例が思い浮かばない。

破格構文、というのはある文を律する統語構造が途中で別のものに取って代わられていること。文法的に誤りだが、修辞学ではanacoluthonなんて大層な名前が付いている。thが入っているから、ギリシア語起源と思われる。

スペイン語の授業で、これを説明しようとして、いつもいい例が思い浮かばない。たとえば文の途中で話し手の注意がずれてしまうとこれが生ずることが多いのだけれど。Aの話をしていたはずが・・・というものなのだが。

ちょっと話の次元は変わるのだが、スペイン語は動詞の形が主語に一致するのだけれど、時々これを無視して(うっかりして)しまっている文がある。たとえばこれは、非常に狭い意味では破格構文といえるのだろうか。日本人が作文をしてこういうことをしてしまう。

La mayoría de las facultades actuales están en los alrededores de este edificio. 現行の学部の大半はこの建物の周りに位置している。

これは現在出版されている実際の教科書に掲載されている暦とした、見事な間違い。間違いの例として載っているのではなく、教科書の文が間違っているというちょっと恥ずかしいケース。多分日本人が作文してネイティブがちゃんとチェックしていないのだろう(この文に先立って「日本人らしい」間違いが幾つもある)。動詞は3人称複数で活用している。学部(facultades)が複数形だからそうしたのだろう。しかし実際は学部の大半(La mayoría)、に出てきた「大半」が主語である。なので3人称単数で活用しなくてはいけない。これは非常にレベルが低い話である。

では次のような場合はどうか。

Aquí no reina más que la miseria, la crueldad y el espanto.
ここでは悲惨、残酷、そして恐怖以外のものは支配しない。転じて、ここを支配するものは他でもなく悲惨、残酷、そして恐怖である。

これはアントニオ・デ・カプマニという人の非常にレアなパンフレットの結びの一文。1809年にセビーリャで出た。長らく存在が確認されずにいたが、Françoise Étienvreというすばらしいフランス人研究者が発見した。

動詞に着目する。3人称単数。つまり主語はひとつでなければならない。しかし支配しているのは悲惨、残酷、恐怖の三者である。しかし、Aquí no reinaの部分にあえて否定語を補ってみるとどうか。参考に別の例を考える。

Aquí no vive nadie más que mi abuelo.
ここには僕の祖父しか住んでいない。

Aquí no vive nadie más que mis abuelos.
ここには僕の祖父母しか住んでいない。

あえて二つ作ってみた。前者は住んでいる人が一人、後者は二人だが、主文において動詞は変化していない。なぜなら主語がnadieとしてみなされているからだろう。同様に考えるなら、先の文はこうなるのだろうか?

Aquí no reina nada más que la miseria, la crueldad y el espanto. ここでは悲惨、残酷、そして恐怖以外のものは支配しない。

なんかスペイン語としてちょっと変な気もする。もうひとつ書き換えてみる。

Nada reina aquí más que la miseria, la crueldad y el espanto. ここでは悲惨、残酷、そして恐怖以外のものは支配しない。

ちょっと語順を変えているが、言いたいことは否定語の使用によってnoを省略したということ。主語はやはりNadaであって、なんとなく分かる。でも、多分正しくはこうなる。

Nada reina aquí sino la miseria, la crueldad y el espanto. ここを支配しているのはまさしく悲惨、残酷、そして恐怖である。

「○○以外の」、というmás queを「○○ではなく××」というsinoに変えてみた。これだと、良さそう。

で、最初の疑問に戻す。主語に合わせるべき動詞が3人称単数だったけれど、複数のほうが正しいのかもしれない。ただ、それを間違いでないと解釈する手立てはある(こういう操作を通じて)。

そんなわけで、やっぱり破格構文のいい例は思い浮かばないのである。

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電池の交換

2001年グラナダにいたときのこと、当時していたG-Shockの電池が切れて交換に行った。カシオの時計はカシオを扱っている店へいけ、といわれて狭い路地にある小さな時計店に。それが前回のこと。つまり、10年も昔。

もう腕にはしない腕時計であるけれど、僕の机の上にあるボーズのM3の上においてある。部屋に掛け時計がないので、無意識に時間を見るときはそこを見ていた。そしたら先日電池が切れたのである。そうなってみると、なかなか不便。かつ、こういうささやかな変化に僕は大いに影響を受けるらしい。モノの配置が換わったりもたぶん耐え難い。こんなことで能率が随分違ってくる。

早く電池を交換しなくては、と思ってお店に行ったら預けて修理して云々、という。いやいや、だって腕にしない、そこにあるだけでいい、という時計。防水とか、もうどうでもいい。で、自分で開けてみた。
Gs

必要なものは精密ドライバとマチ針、あとは交換用の電池(CR2016)。

電池を換えてAC端子をショートさせて動作を確認。蓋をする。ちゃんと復活して、またスピーカーの上から僕に時間を教えてくれる。よかった。また、10年後この作業をする。

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R. I. P. Gary Moore.

北のカルロス・サンタナが死去。

Gary Moore (1952-2011).

Rest In Peace.

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まったく正しい

すれ違ったベビーカーにLIBERTYと書いてあって、その脇に小さくlimitedと書いてあった。

まったく正しいと思う。

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ホンの自慢。

僕にとってJulián MaríasのLa España posible en tiempo de Carlos IIIという本は、人生で何度も立ち返る重要な一冊なのだけれど、これは1963年に出て、その後1987年に改版されている。はじめに後者を、後に初版を手に入れた。ところでこれ、

フリアン・マリアス本人のサインが入っている。
僕の持つ数少ない貴重な書籍である。

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最後の授業

とある大学での最後の授業、つまりテストの終わった後に、学生さんからチュッパチャプスをいただいた(他にもおやつをいただいた。わーい)。

これ、スペインの発明なんだよ。

それが僕の最後に教えたことになっちゃうのはいやだなあ。

発明も何も、って感じですがほんとの話。

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個人的なメモ

ヴィローリ和訳17ページでは

リサールの詩は、激しい口調ながらも、寛大で包み込むようなパトリオティズムを表現している。

西訳21ページでは

Las palabras de Rizal expresan conmovedoramente un nacionalismo generoso y acogedor.(リサールの言葉は寛容にして温かなナショナリズムを感動的に表現している。)

となっている。文脈としてはパトリオティズムでなければおかしい。英原書を確認してきました。1997年のペーパー版(For Love of Country. Oxford: Clarendon Press, 1997)だけれど、6ページ

Rizal's words poignantly express a generous, embraing patriotism. (リサールの言葉は寛容で包み込むようなパトリオティズムを激越な調子で表現する。)

西訳はうっかりなのか、なんなのか。

とはいえ、ヴィローリは引用に際してJosé RizalのÚltimo adiósをJosé RizaのUltimo adíosと書いちゃうような人なので(どっちも間違ってる!)、偉い先生かもしれないが(プリンストン大学)僕はあまり信用できない。この詩の引用を彼はアンダーソンの『想像の共同体』から、アンダーソン批判のために引いている。でも、転写に際してミスもあり、そもアンダーソンはスペイン語で挙げた詩を、脚注の英語訳から引いているし、それが誰の訳かも示していない。そんな人だ。ギアーツもスミスも誉めているけれど(まあけなしづらい)、洞察もなく引用を書き連ねて、しかも比較もなにもなしえていないこの本が僕は苦手だ。

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