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2011年1月

adamasの4646

Ps
そろそろ張り替えちゃおっかなあ、と思っている。

今手持ちはadamasの4646のセット。これは売ってる場所が少ない。オベーションのギターを想定したボールエンドが付いているので、エレキみたいに換えられる(セットによります。確認のこと)。チップを使わずに張ったほうがよさそう。

何がいいってナイロン弦が黒いところ。音への影響もあるのだろうけれど、その見た目にしびれる。案外カラー弦はいろんなものがあるのだけど、頑丈さからこれを。巻き弦はゴールドです。音もすばらしい。僕はKAMAN(メーカー)に手紙を書こうと思ったくらい。

でも、ギターにせよ、弦にせよ、薀蓄はどうでもいいのよ。本人が気持ちよく弾ければ。

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はじめてみた。

過日電車を待っていた。特急や急行と普通の間隔はなんとなく覚えているのだけれど、その日は電光掲示板を見たときにちょっと変だな、と思ったの。

そしたらこんな電車が来た。
Dy

もちろん乗れませんし、2両くらいで走ってた。ドクターイエローのような試験車か。少し停車してまた行ってしまった。はじめてみたよ。

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話の弾まない彼。

話の弾まない彼、とは他でもない僕のことなのだが、それはそれだな、と思えるようになったのはごくごく最近。もちろん、それで色々支障があるのだけれど、それでも、そこを含めての自分、というのに向き合うしかない。もろもろのことにちゃんと意味がある、機能がある、というのは楽観ではなく実用の論理。

世の中上手くできている。

様々なるアイロニー。それが生きるということで、それを体現しながらでなくては生きていけない自分を呪うのに飽いた。そして本当は多分誰しもそうなのだ。


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くすっ。

でもないのだけれど、ちょっと面白い話。

ウチではシャープのBD-HDW65というレコーダーを使っています。先日突然一切の操作を受け付けなくなってしまったのだけれど、これファームウェアの障害なのか、同時多発です。

http://bbs.kakaku.com/bbs/-/SortID=12553310/#12558777

で、そのときに「ああ、顔も知らないこの人たちは僕にとっての想像の共同体だなあ」とアホなことを思った。

あと、そんなに悪い機種ではないです。リモコンもシュッとしてて。この「シュッとしてる」、という言い方は大阪では「かっこいい」くらいの意味。

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テストが終わり、パンを焼く。

またひとつ、テストが終わる。これで残すはあと一日。

いずれの授業、大学でも採点はその日のうちに済ませるようにしている(見直しは別の日にする)。学生さんたちの顔を思い出せるうちに。テストにはコメント欄があって、いろいろ書いていただけるようになっている。それを読んで、「ああ、こんなことを考えているんだなあ」と思う。10年以上前の自分は、なにを考えていただろう。あまり思い出せないけれど、やっぱりいろんなことを感じていただろう。おんなじだ。

通過点に過ぎぬ場所で僕はその人たちの背中を見送る。テストが終わり、採点が済んでパンを焼く。
Egbread
焼き色は別にしても若干茶色っぽい。これはアールグレイ紅茶のパン。ミックスはクオカのものを使用。袋を開けたときの香りがすごかった!

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強く思う。

大学の課程における第二外国語の授業というのは、大半の学生にとって単位はとらなくてはいけない、でも予習復習の労が多くて大変、なんだろう。お察しします。それでも試験はあるので、しっかり勉強してください。

スペイン語を学んだことが直接役に立つ機会はわずかかもしれないけれど、でもいつか素敵なものに出会う窓口にはなってくれるかもしれない。スペイン語圏の音楽や芸術、あるいはスペイン語を手がかりにほかのヨーロッパ言語の意味を類推できたり・・・。もちろん、全然使わない可能性もあるけれど、教養、知識として知っている、というのはなかなか素敵だ。

年が明ける前、今年度卒業されるある学生さんから卒業論文をいただいた。当該の件について僕は専門家でもなんでもないけれど、冬休み楽しく読ませていただきました。頑張って書いたんだなあ、というのがうかがえるものでした。お疲れ様。

半年や1年、はたまた2年、僕の授業にお付き合いいただいた学生さんもいる。変な映画見せられたり、難解なテクスト読まされたりという、僕のスペイン語授業から開放される。わーい。そしてその後何年かして大学からも卒業。大学は入れ物にしか過ぎない。けれど、そこで過ごした時間はちがう、生の経験だ。

4月が来たらまた新しい学生さんを迎えて、1月にはお別れする。その繰り返し。繰り返し。繰り返し。でも、僕は入れ物ではないので、ちゃんとそれぞれの年の学生のことを覚えていたいなあ、と思う。

最近物忘れのひどい僕は強く、強くそう思う。

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チップを。

Ivory_chips_on_6_strings
で、すべての弦にチップを装着したのだけれど、弦の張力(テンション)があがります。弾き易い、弾き難いは正直なところ好みなのですが、練習さえすれば何でも弾けるでしょ。

このPrudencio Sáez(プルデンシオ・サエス)のギターも10年目の付き合いと相成りました。スペインにいたときのほうがカラッとした音がした気がするけれど、気のせいかもしれないし、今の音が好きなのでまったく問題が無い。このギターを手に入れて以来、不満を覚えたことが無い。それはすごいことだ。

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Languageは舌の使い方。

「言語」をあらわすのに数多くの言語で「舌」という言葉から派生した語が用いられている。たとえばlanguageなどそのもので、langueが舌だ(今の英語ではtongueだが)。なぜ舌が言語になるかというと、話し方は舌の使い方によるからで、方言や異言語は違う音やイントネーションを用いるけれど、それは舌の使い方が違うからである。英語ならrやthという音を考えると、日本語ではそういう舌の使い方をあまりしない、ということがよく分かる。なので、language"という言葉に出会ったときに、単純に言語と解するのではなく、舌の使い方という意味があったことを理解しておくとよい。話し方、言葉使い、さまざまにニュアンスが変わるけれど、つまるところ"usage of langue (tongue)だったわけだ。なにが言いたいか、というと例えば次のような場合。

The language of patriotism

パトリオティズムの話しぶり、言葉使い

ということになる。これを言語としてもまあよいのだが、やはりこの方がいい。ちゃんと分かっているのなら「パトリオティズムの語り」なんかでも。僕なら「パトリオティズムをめぐる言論」とする。

それを踏まえてはいるのだろうが、なぜか「パトリオティズムという言葉は」と訳した方がいて、訳出に際して注意したほうがいいことは理解できているのにうまくそれが出来ないばかりか、誤解を招くばかりで、なお一層悪いと言わざるを得ない。むしろそのまま言語と訳したほうがよっぽどよかった。誰かというと、佐藤瑠威さん、真喜子さんで、マウリツィオ・ヴィローリの『パトリオティズムとナショナリズム』という本の邦訳である。

イントロダクション冒頭に:

パトリオティズムという言葉は何世紀にもわたり、一つの集団[people]の共同の自由を支える政治制度と生活様式への愛、つまりは共和政体への愛を強めたり喚起したりする目的で使われてきた。(9ページ)

訳者の不見識が炸裂して原書を大「謎」著にしてしまっている。パトリオティズムという語はせいぜい3世紀しか使われていない。初出は1726年英語、1750年フランス語、スペイン語は1755年であることが分かっている。ヴィローリがこの本でやっていることは、語の使用ではなくてこの倫理的価値を与えられた愛国心の言説を時代ごとに追うということなのだが、冒頭でいきなりこの著書の価値を台無しにしている。

誤訳は不可避、かならずある。それはいい。翻訳書がなければ困る。けれど、こういう決定的なミスをするひとは駄目だと思う。なにが悪いって、わざわざ「言語」という訳を避けて、言葉という、この文脈で単語ととられても仕方ない選択肢を選んだことだ。あまつさえ訳者はあとがきにこういうことを書いてしまう。

 本書は、パトリオティズムという言葉がヨーロッパ思想史において、どのような意味をこめて用いられていたのかを明らかにするとともに、パトリオティズムが何よりも、公共の自由を守ろうとする共和政体への愛であることを明示しようとするものである。(327ページ)

「という言葉」じゃないッ!せめて「の言語」だったらなあ・・・。

ところで、原著は英語でFor love of countryという(このタイトルでもう一冊マーサ・ヌウスバウムの本があるけれど、『国を愛するということ』と訳されている。ヌウスバウムの論考とそれに対するあまたの批評家の返答だが、数名のものを除いてみるべきところは少ない)。英語でこの学問をやる上でどうしても語彙に不足があるのだが、どっこい著者は(髪型に個性あふれる)イタリア人。そうよね、やはり俗ラテン語でないと。よって英語とイタリア語、ラテン語が混ざるのだが、そのあたり非常にそつなくこなせている邦訳ではある(殆ど訳注はないし、日本の読者に役立ちそうな工夫もされていないけれど)。あとTodorovはトッドロウじゃなくてトドロフね。

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小さな声で言いたい

Microsoft Wordはとてもすぐれたソフトだと思う。でも、すぐれもの過ぎてかゆいところだけでなく、痒くないところに手が届くこともある。いらんことするなー、と思う。とあるオリエント言語を入力した。右から左へ書くやつ(こういうのציפאנו)。そのあと保存して開いたら丁寧にスペルチェックして左から右に書き直してくれた。いやいや、いいんだよ、そういうの。

(そしたら今ブラウザまで修正してくれた。あーもう、と改めて手直し。気づいたのだけれど、こういった文字を選択するときシフト+右で左に、シフト+左で右に行く。実に興味深い。)

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声を大にして言いたい

サミュエル・ボシャール(Samuel Bochart 1599-1667)という人が書いた『神聖地誌Geographia sacra』という本の、とある部分を読んでいた。ラテン語の本なので、きちんと勉強していない僕など全然手が出ないのだが、とりあえず必要な箇所だけ読んでいった。その中に"mere esse Hebraicum"という箇所があって、「ヘブライ語たらん」みたいな感じの流れ。最初の"mere"ってなんだろう?英語のmereもまたそれに由来するmerusという語もあるのだけれど、それとは違う。いろいろ調べつつこの記述をみたときに、すべての疑問が氷解した。

スペイン語で「○○に値する」という表現に"merecer"というのがあるのだけれど、これは俗ラテン語になった"merescere"からきている、と現行のアカデミアの辞書(22版)は説明している。さらに時代をさかのぼればもともと"mere esse"が「○○であるにふさわしい」(esseはbe動詞みたいなものなので)という意味だったはず。"mere"はメリット、デメリットという語に痕跡を残しているラテン語の"meritus"から、さらにこれは"mereor"<"merere"の過去分詞なのである(1780年のアカデミアの辞書は"merere"を直接の語源に挙げている)。「"merecer"のce(r)はesseから来ているのだ!」と声を大にして言いたい。

これがわかるまでに2時間くらい考えたのだが、分かった時は大変うれしかった。

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頑張れ受験生。

センター試験の時期は雪が降るなどして交通機関が乱れる。試験会場にいくにもやきもきしたり、大変。受験生は心穏やかならぬ日々をすごしているだろうけれど、ぜひ頑張ってほしい。

やる気の出ないときは自分へのご褒美を設定するといいと思う。○○が終わったらアレをしよう、とか○○に合格したらアレを買おう、という具合に。

最近CLaunchというランチャソフトを入れている。あってもなくても困らないけれど、あると便利。世の中にはそういうものがたくさんある。

僕の授業もそろそろ、あるいはすでに、テスト。ぜひ頑張っていただきたい。それから、来年度は講読のクラスが二つあります。ひとつはLos objetos nos llamanを読みます(手元にほしい人は早めにどうぞ)。もうひとつのクラスでは現代の戯曲を読もうと思っていたのですが、最後まで行かない気がするので別のテクストを考えています。戯曲はまた別の機会に取り扱うつもりです。

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ホッケ讃!!

というわけで、今年一番読まなくてはいけない本はこれだ。

迷宮としての世界

在庫がなくなること必至。平積みなら2、3冊まとめて買っても問題ない。1月中に下巻も出ます。

その下巻、アルチンボルドーの表紙に心鷲掴みにされるところだが、「もう単行本で持ってるよ」といって文庫を買い忘れる愚かな人のないように書いておくと、293-318ページが宝だ。

高山宏先生による「「常数」としてのマニエリスム」が解説として、解説を装って、というべきだろうか、収録されている。悪文書きの僕など文章の上手い人にあくがれるが、こういう高圧電流の走っている文章を読むと、自分なと鬼市に立ち入る器でないことがよくよく理解されるのである。彼我のマニエリスム研究史とその他分野への応用について、懇切丁寧なレクチュアがなされているが、ポロっとロザリー・L・コリー『パラドクシア・エピデミア』の高山訳(2011年)が予告されているあたり、学魔の術中に陥ちて白水社に小金を貢いでしまうこと必至である。いつだ、いつなんだ、と。

もう、5冊くらい買っちゃえ。

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それはもう

Taihen

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フォルネール(Forner)の重力

最近面白かったことを。

僕はスペイン1770年代の詩や小説、戯曲などを読んでここ10年くらい過ごしてしまったのだけれど、最近その時間の幅を後ろに引き伸ばしつつある。

もともとは、僕にとって最初の関心であったカダルソという作家が一番旺盛に作品を残した10年間(1768年から1778年)という目算と、彼周囲の作家の作品を念頭においていた。この時代のスペインの王様はカルロス3世という人で(1759年から1788年)彼の治下に采配を振ったアランダ伯爵が改革をもたらした新古典演劇は隆盛するという事情がある。

で、前に時間軸を伸ばすのは苦もないのだが(70年代の前提として読めるから)、80年代以降後ろに伸ばすのはいつも億劫だし辛い。僕の知っている70年代が踏み台になって次の議論が出てくるわけだ。

このあとスペインでは王様がカルロス4世になるし、隣国では革命(フランス革命、1789年)があるし、さらには世紀をまたいでナポレオンがスペイン王位を簒奪する(1808年)。そこから1814年までスペイン独立戦争。今年死後200周年のホベリャーノスは失意のうちに1811年に逝去。あー、もう。読まなきゃいけないこと、知ってなきゃいけないことが爆発的に増えて、僕のメモリをはるかに凌駕する。僕は年代を覚えるのはとても苦手で物語記憶としてでないと覚えられないのだが、この錯綜した感じ、誰かマンガにしてほしい。作家の世代交代もして、カダルソから数えて2つくらい違う世代の書き手の本も読まねばならなくなる。

その中の一人にフアン・パブロ・フォルネール(Juan Pablo Forner)という人がいる。世代は一つ下というところ(1756-1797)。フランスで1782年(カダルソの没年)に『アンシクロペディ・メトディク』という百科事典が出る。その「スペイン」の項目中に「世界はスペインに何を負うているか?」という一文があって(すごくささやかなのに)、これが大論争をもたらす。まあ、要するに悪口を言われて、反論する。そしたら賛成する人間もいる。紛糾する。

反論のトップバッターがフォルネールで、実は政府より依頼を受けて反対プロパガンダを執筆(と思ったら、この記述は誤りでした。書いた反論の文書をフロリダブランカに見せたら彼が印刷費6000レアルをカンパしてくれた、ということでした。訂正します)。さらにこの人はスペイン語の衰退を嘆く本なんかも書いていて、(対外国文化ならびにその影響への)保守主義の代表選手みたいになる。でも、保守だけじゃない、ちゃんと自由主義(当時で言う急進思想、ラディカルかつリベラル)をも共有していたと思う、とマラバールといういう偉い学者が言っていて、僕もそう思った。

たとえば単純な話として保守主義は王様中心の国というイメージがあって、それを守ろうとしている(フランス革命前夜のことだ)。フォルネールはそうじゃないんだよね。スペインについて語るときに王様不在の共同体を念頭に話をしている。だから彼はネイションというものをかなり明瞭に意識している。王様の求心力によらない、市民の結合した政治的身体(とかっこいいことをかくならば)。

で、面白かったのは、その議論をする中で、フォルネールがニュートンに言及しているところ。万有引力(gravitation)ってニュートン自身の言葉ではattraction「アトラクション」(引く力、魅力、愛情)なのだ。すごく人間的な感情の比喩で語られている。これに関しては高山宏先生はじめ、いろいろな方がいろいろな面白いことを書いている。

で、フォルネールはネイションの結合力をこのアトラクションで説明しようとする。18世紀の科学言説というのは、自然の中に隠れた(記述された)法則を明るみに出す、というもの。「自然の中にある」、「自然の(生得的な)」、のnaturalとネイションnationが同じ語源を持つことは明らかだけれど、物理的なものと政治的なもの、フォルネールはこれらを引力で結び合わせて、同じ土俵で語っている。で、先ほど述べた王様の不在は、引力(というか重力)の核として王様が措定されているのではなくて、個人相互のアトラクションが集まっていると考えていること。つまり、形のあるコアは不在(不要)。それがネイションというもの。

ネイション意識がフィクションを通じて生成されると考えている僕にとって(もちろんそれだけが要因じゃない。いろんな理由があるんだけど)、この目に見えないアトラクションの力は、とてもアトラクティヴに思えた。先験的でないところが重要なところだ。自然法則なんだけど、はじめからネイションがあるというのではない。単純に比喩としてではなく、なにか微妙なニュアンスがあるはず。とにかく僕はそう予感する。

それにしてもニュートンの射程よな(A.アインシュタインまで2世紀以上)。

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今年。

1期で終わってもまったく問題ない、しかも大変美しい終わり方をしたと思っていた『君に届け』ですが、1月より2期が始まります。 

少女漫画は教養小説だ、というのが僕のつねづね考える所。君に届けは、言葉の多重性あるいはコンテクストにおける意味の位相の違いが物語を推進する、とにもかくにもコミュニケーション理論を考えるに最適な教材なのですが、それが一番生きているのは2期で取り扱われる部分。僕の学生さんにはしっかりオススメしている。原作はあまり長々と続かずに気持ち良く終わってくれることを祈っています(愛しているからこそ、そう思う)。

そういえば、昨年(2010)は「今年面白かった作品」という総括をしていなかったけれど、アニメでは『会長はメイド様!』、文学作品では『白鯨』を。映画はほとんど見に行かなかったので『インセプション』を、批評関係では春木良且『情報が伝わらないこと』の研究ー受信側の内的な要因を中心にー」、『国際交流研究』2010、29ー73頁を。音楽では、新譜ではないけれどスティーヴ・ヴァイ『Fire Garden』ならびにビセンテ・アミーゴ『De Mi Corazón Al Aire』を昨年よく聴いた作品として挙げておきたい。後者は邦題が秀逸で、『我が心を風に解き放てば』という。

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あけましておめでとうございます。

皆様

あけましておめでとうございます。

皆様にとって今年もまた楽しい一年でありますように。

笑ってすごしましょう!
Butano

富田 広樹

(写真に写っているのは、都市ガスの通っていないスペインのお宅で使われる室内型のガスボンベ。日本ではプロパンガスですが、スペインではブタンガス、ブターノを使います。このオレンジの大変重い容器にはいっているので、ブターノといえばオレンジ色を指すことがあります。新年の挨拶とは何の関係もありません。ありませんとも。)

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