最近面白かったことを。
僕はスペイン1770年代の詩や小説、戯曲などを読んでここ10年くらい過ごしてしまったのだけれど、最近その時間の幅を後ろに引き伸ばしつつある。
もともとは、僕にとって最初の関心であったカダルソという作家が一番旺盛に作品を残した10年間(1768年から1778年)という目算と、彼周囲の作家の作品を念頭においていた。この時代のスペインの王様はカルロス3世という人で(1759年から1788年)彼の治下に采配を振ったアランダ伯爵が改革をもたらした新古典演劇は隆盛するという事情がある。
で、前に時間軸を伸ばすのは苦もないのだが(70年代の前提として読めるから)、80年代以降後ろに伸ばすのはいつも億劫だし辛い。僕の知っている70年代が踏み台になって次の議論が出てくるわけだ。
このあとスペインでは王様がカルロス4世になるし、隣国では革命(フランス革命、1789年)があるし、さらには世紀をまたいでナポレオンがスペイン王位を簒奪する(1808年)。そこから1814年までスペイン独立戦争。今年死後200周年のホベリャーノスは失意のうちに1811年に逝去。あー、もう。読まなきゃいけないこと、知ってなきゃいけないことが爆発的に増えて、僕のメモリをはるかに凌駕する。僕は年代を覚えるのはとても苦手で物語記憶としてでないと覚えられないのだが、この錯綜した感じ、誰かマンガにしてほしい。作家の世代交代もして、カダルソから数えて2つくらい違う世代の書き手の本も読まねばならなくなる。
その中の一人にフアン・パブロ・フォルネール(Juan Pablo Forner)という人がいる。世代は一つ下というところ(1756-1797)。フランスで1782年(カダルソの没年)に『アンシクロペディ・メトディク』という百科事典が出る。その「スペイン」の項目中に「世界はスペインに何を負うているか?」という一文があって(すごくささやかなのに)、これが大論争をもたらす。まあ、要するに悪口を言われて、反論する。そしたら賛成する人間もいる。紛糾する。
反論のトップバッターがフォルネールで、実は政府より依頼を受けて反対プロパガンダを執筆(と思ったら、この記述は誤りでした。書いた反論の文書をフロリダブランカに見せたら彼が印刷費6000レアルをカンパしてくれた、ということでした。訂正します)。さらにこの人はスペイン語の衰退を嘆く本なんかも書いていて、(対外国文化ならびにその影響への)保守主義の代表選手みたいになる。でも、保守だけじゃない、ちゃんと自由主義(当時で言う急進思想、ラディカルかつリベラル)をも共有していたと思う、とマラバールといういう偉い学者が言っていて、僕もそう思った。
たとえば単純な話として保守主義は王様中心の国というイメージがあって、それを守ろうとしている(フランス革命前夜のことだ)。フォルネールはそうじゃないんだよね。スペインについて語るときに王様不在の共同体を念頭に話をしている。だから彼はネイションというものをかなり明瞭に意識している。王様の求心力によらない、市民の結合した政治的身体(とかっこいいことをかくならば)。
で、面白かったのは、その議論をする中で、フォルネールがニュートンに言及しているところ。万有引力(gravitation)ってニュートン自身の言葉ではattraction「アトラクション」(引く力、魅力、愛情)なのだ。すごく人間的な感情の比喩で語られている。これに関しては高山宏先生はじめ、いろいろな方がいろいろな面白いことを書いている。
で、フォルネールはネイションの結合力をこのアトラクションで説明しようとする。18世紀の科学言説というのは、自然の中に隠れた(記述された)法則を明るみに出す、というもの。「自然の中にある」、「自然の(生得的な)」、のnaturalとネイションnationが同じ語源を持つことは明らかだけれど、物理的なものと政治的なもの、フォルネールはこれらを引力で結び合わせて、同じ土俵で語っている。で、先ほど述べた王様の不在は、引力(というか重力)の核として王様が措定されているのではなくて、個人相互のアトラクションが集まっていると考えていること。つまり、形のあるコアは不在(不要)。それがネイションというもの。
ネイション意識がフィクションを通じて生成されると考えている僕にとって(もちろんそれだけが要因じゃない。いろんな理由があるんだけど)、この目に見えないアトラクションの力は、とてもアトラクティヴに思えた。先験的でないところが重要なところだ。自然法則なんだけど、はじめからネイションがあるというのではない。単純に比喩としてではなく、なにか微妙なニュアンスがあるはず。とにかく僕はそう予感する。
それにしてもニュートンの射程よな(A.アインシュタインまで2世紀以上)。