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2010年1月

授業が終わる

大学での試験が終わった。一年間、あるいは半年間お付き合いいただいた学生さんともこれでお別れ。さびしくないと言えば嘘になる。僕は最後の授業でギターを演奏するのだけど、今日は雨が降りそうだったので楽器を持っていくのはやめにした。まあ僕の下手なギターを聴いたせいで学生さんの成績が下がっては一大事だからね。

さて、最近の大学は授業評価のアンケートを導入しているところもあって、普通は匿名でそのクラスの評価をする。授業の評価は結局先生の評価でもあるので、このアンケートを配るのはちょっとどきどきするけれど、その結果に一喜一憂して授業をやるわけにも行かないので、参考程度になればそれでいいと思う。いい授業でも評価が悪かったり、その逆もあるだろう。時々単刀直入な学生さんがクレームを書いてくれて、でもそういうのは「あ、あの人か・・・」と分かってしまう。不思議なものです、言葉って。

アンケートに書かれて困るのは「死ね!死んでしまえ!」という呪詛と、「結婚してください!」という熱いメッセージで、どちらも匿名では意味がない。幸い僕はまだどちらもお目にかかっていない。それとは別に、僕はテストに学生さんがコメントを書ける欄を設けていて、書いても書かなくても自由だけれど、授業の感想なんかを書いてくれると凄く嬉しい。採点作業の励みになる(僕は試験の後すぐに採点する。学生さんの顔を思い出せるうちにやっておきたいのだ)。ああ、この人はこういうことを考えていたんだな、なんてことが後になって分かって、もっと話をしたら楽しかったろうな、ということもある。何事も過ぎてからそう思うのだ。授業のことでなくても、何を書いてくれてもいい。ちなみに今日は「先生の声がいい」とあって、ちょっと笑った(もちろんこれと成績は一切関係がない)。それから、僕は学生さんに本を紹介するのだけれど、試験の際に彼ら彼女らから逆に「オススメの本」などを教えてもらう。自分と同じ本が好きな人もいれば、「え?そんな固い本を読んでるの!」という驚きもあって(すごく可愛らしい女学生がこれ を薦めてくれたら、もう読むしかないよな)、とても楽しみにしている。そう、学生より僕が楽しんでる。

過日ある方と話をしていて、「大学の先生をうらやましいと思うのは、若い学生と話が出来ることだ」とおっしゃっていた。僕などちゃんとした先生ではなくて、週に一度授業をしにいっているだけなのだけれど、それでも他の仕事をしていたらこの年齢の学生さんと話をする機会はなかっただろうと思う。若い世代と交流のある仕事はあるだろうけれど、それは顧客だったり、バイトだったりだと思うので、学生としての彼ら彼女らに出会うというのはなかなかないはずだ。

若い人に「君たちには未来がある」と言うのは駄目な自分を棚に上げての屈折した責任転嫁で、可能性だけを担保に何かを語っても仕方ない。むしろ、若い人はこれから沢山挫折を味わうわけで、色々いやな目に遭いながら年を重ねていくのだから、そういったときにどう乗り越えていくのか、そっちのほうに興味がある。そして、かっこ悪くても良いので頑張ってほしいなあ、とかっこ悪い僕は思う。そうしたときに支えとなるものは沢山あるだろうけれど、僕の場合本だったので、最後の授業では本のリストをお配りさせていただく。僕が授業で教えられることなんてごくごく僅かで、でももし僕が紹介した本を手に取ってくれることがあるなら、きっと僕が伝えられずにいたことを沢山見出してもらえる。そんな都合のいい事を考えながら、リストを作って自分でも楽しむ。

とにもかくにも試験が終わって、成績も付け終わった。

皆さんのこれからが楽しいものでありますように!お疲れ様でした!

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yomi/kaki

 とにかく識字率が高まってしまった昨今ではその事実を認識するのが難しいけれど、言語の使用は脳に相当な負担を強いているはずである。音声言語はしかたないとして、少なくとも文字を使用していなければ、人間は随分別の場所に能力を使えたかもしれない。もちろん、記録できる言語があって発達した学問や産業は多々あるので、そんなパラレルワールドのことを思っても仕方ないのだけれど、文字を使って生活するというのは結構凄いことだ(文盲の問題は日本でほとんど意識されないけれど、外の世界ではまだまだ根強いはず。そういえば僕の好きな英語圏のコバルト文庫みたいなものに入っていた「Wild Hearts」というガールズバンド物語にもそういうエピソードがあったっけ)。でもいったん文字が読めるようになったら、この能力は是非フル活用するべきだ。せっかく身につけた特殊能力、スキルなんだから。読む、そして書く!

 神奈川大学人文学会学生部会というところが『PLUSi』という雑誌を作っている。学生さんが硬軟さまざまな文章を寄せている。その5号に山科勇樹「食の冒険家~アジアの缶詰を「食べ歩く」パート③~」という記事が載っていて、面白かった(14-17頁)。山科君が近所の韓国食材店で買ってきた缶詰・缶ジュースをただただ食べて飲むというだけの記事なんだけど、読者の脱力を誘う不思議な文章に魅力がある。

例えばさんまの缶詰。

「味のほうは普通に、普通のさんまの缶詰。日本のさんまと味も変わらない。水煮なので味は薄いのだが、ご飯とも良く合う。暖めて、醤油をかけると旨さ倍増。炊飯器で、さんま数匹とカレー粉を入れ、炊いたところ、最高な炊き込みご飯が完成した。これは絶品。」(15頁)

あれ、もう韓国とかどうでもよくなっちゃってる。

あるいは「水晶果」というジュースについて。

「これは韓国伝統の飲み物、水晶果。もちろんこの缶ジュースを日本の自動販売機で見かけることはないだろう。驚くべきことに、川崎大師の名物、「せきどめ飴」に味がそっくり」(同上)

なんだ、このセンス。

年に一度刊行みたい。次号も心から楽しみにしている。

最近つとに思うのだけれど、巧拙は別としても文章はその書き手の人となりがでる。ああ、これはあの人らしいなあ、と言う文章。あるいはそうでないときも面白い。え、あの人がこんなに硬質な文章を?という驚き。いずれにしても、読む人には書いてほしいし、書いたものは読ませてほしい。せっかく身に着けた特殊能力ですもの、ぜひフル活用してほしい。

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Seagulls screaming kiss her kiss her

昨日Vリーグ女子プレミアの試合がBSで放送されていた。全日本で闘っていた選手もそれぞれのチームに戻ってネットをはさんで敵同士。うーむ、面白い。

岡山シーガルズとトヨタ車体クインシーズは第4セット11回もデュースを重ねるという凄い試合になりました。結果36-34というびっくりするようなスコアでシーガルズが勝つ。すごいなあ。シーガルズはVリーグ唯一のクラブチームなのね。ずっとプレミアで頑張ってほしい。あと14番になんと中学三年生のセッターがいます。貴重な人材です。

タイトルは僕の知る限り、ユーフォニウムのソロが入っている唯一のラヴソング、XTCの"Seagulls screaming kiss her kiss her"から(The Big Express に収録)。タイトルだけで痺れる。

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本に痕跡

 僕は枕元に何冊も本を積んでおく癖があって、寝る前にそれらをとっかえひっかえ読んでいる。スペインにいた頃、2週間に一度くらい、部屋を掃除しに来てくれる女性がいた(そういう仕事なのだ)。午前中大学図書館で仕事を終えて部屋に帰ってくると、そのナイトテーブルの上に何か違和感を覚えた。勿論部屋の掃除をしてくれるのだから、僕が散らかしたものを整理してくれている、と言うことは当然なのだけれど、本の表紙がなんだかおかしいのである。奇妙な凹凸がそこにはあった。ああ、これはメモ書きをするのに僕の本を下敷き代わりにしたのだと分かると、途端に悲しくなってしまった。強い筆圧でコリコリと書かれたメモは、ダイニングテーブルで発見される。そのメモにはたいしたことは書かれていない。そのメモはすぐに捨てられてしまう(ところでそれは僕の資料の裏紙だった!)。けれども、僕の本には永遠に、そのたいした意味のないメモ書きの亡霊が棲み続けるというわけなのだ。なんと恐ろしいこと!
 図書館で借りた本を読んでいたとき、あるページに鉛筆書きの落書きの痕跡を見つけて、けしからんと思う。僕はこういうとき消しゴムで消すのだけれど、それは良く見ると鉛筆で直接書いたものではなくて、何かメモ用紙をその本のページの上に置いて書いたものだ。どれほどの筆圧か分からないが、下敷き側にもところどころ黒い線が移っているのだからすさまじい。なんという怨念。どれほどすごいメモだったのか。しかも、そのページを開いて書いた理由があるはずなのだ。単に下敷き代わりなら表紙でよいではないか。僕は手近にあった広告を裏返し、その白い面に4Bの鉛筆でその痕跡を写し取っていった。いったい何をしているのかわからないけれど、拓本を作っているような気分だった。さて、出てきた文字は随分下手くそで最初は解読できなかったのだけれど、そこには高野文子と書いてあった。なんのことはない、見開いたそのページで紹介されていた高野文子さんの「奥村さんのお茄子 」という作品名をメモしたものだった。この本を読まなければ、という気持ちでそうされたのはわかるけれど、なんだかなあ、と思った。
 でも、これが誰かに宛てた長い長い手紙だったらどうしよう。いや、長い手紙ならなおさら開いた本のページの上に便箋を置いて書くはずもない。でも例えば、僕の本の表紙みたいに、手ごろでちょうど書きよさそうな表紙の本があったとしたら、話しは違う。それは何ページにもわたる手紙だと言い。ずっと後になってそこから痕跡を取り出す人ははじめ、それが何語で書かれているのか分からない。けれど、丹精の筆の運びからそれが何語でかかれているかに気づく(まあ、その本の言語だろうけれど)。そして3ページ分の言葉を少しずつ解きほぐしていく。それは気の遠くなるような作業だ。一文字トレースするたびに選択肢は三つずつ増えていくのであって、どれがどのページにあったものなのか、それは職人の勘で知るべきものなのだ。それが別れの手紙だといい。そして、これまでのすべてに感謝する、恨みがましいところの何一つない手紙だといい。
 そんな美しい手紙が書けそうにない人は、やっぱり本を大事にするに如くはないだろう。

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一週間

月曜日に熱を出して、たまたま出先だったのでタクシーに乗って病院に行った。歩いて、改札を通って、電車に乗って、電車を降りて、改札を通って、バスに乗って、なんてそんなこと出来ないくらい辛かったのである。

ちょっとした大通りに出ないとタクシーは通りかからない。ようやくつかまえて行き先を告げ、走り出すクラウン。運転手は携帯電話の買い替えを考えているようで、「お兄さん月の携帯、どれくらいかかってる?」などと質問をしてくる。僕は携帯電話三社についての比較をしたことがあって、料金プランの仕組みなどをおおまかに説明した。目を開けているのも辛いのに、20分くらいそんなことをしていた。

病院にいって、インフルエンザの検査をして陰性で、とりあえず解熱剤と抗生物質をもらう。僕はその日財布を持っていなくて、お金も保険証も診察券もなかった。

受付で名前を呼ばれて

「今日は保険証お持ちでないので、自己負担になります」
「あの、僕今日はお金も保険証も診察券も全部持ってないんで、明日持ってきても良いですか?」
受付の人が中で相談する。
「じゃあ、明日持ってきてください。とりあえず今日の分だけ払ってください」
「あの、僕今日はお金も保険証も診察券も全部持ってないんで、明日持ってきても良いですか?」
受付の人が中で相談する。
別の女性が出てきてその人に
「あの、僕今日はお金も保険証も診察券も全部持ってないんで、明日持ってきても良いですか?」
今度の人は正しく理解してくれた。
それから薬局に行って
「あの、僕今日はお金も保険証も診察券も全部持ってないんで、明日持ってきても良いですか?」
と言って、こちらは「回復されてからで構いませんよ」と薬をくれた。

帰って熱を測ると38.7度あった。薬を飲んで寝た。

次の日はお金を持って病院と薬局にお礼を言いに行った。

水曜日は学校の試験だった。

木曜日は別の学校の授業だった。

金曜日にようやく熱が引いた。土曜日に研究発表があたっていたので、午後からその準備を始めた。

それが終わって、土曜日もそろそろ終わりそう。

頭の中で火傷をしたみたいな痛みが続いている。左の眼球の裏側が痛い。

そろそろ寝る時間です。

大変な一週間でした。まだ終わってないか。

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ありがとう、千代大海。

日の高いうちからビールを手にテレビで大相撲を見ている。あっ、林家ぺーさんが来てる。

千代大海の引退。本当に存在感のある良い大関でした。スポーツ選手は怪我との戦いで、苦しみながらも横綱の優勝を阻止するのに活躍する素晴らしい力士でした。カド番の持ち回りと批判される大関陣だが、苦労は並大抵ではない。本当に今までお疲れさまでした。

魁皇の記録。まず、魁皇が一発で変換できたことに驚いたが、縁起のよさそうな記録樹立の後連敗している。いいんだ、だって毎日毎日勝負をし続けることで打ち立てた記録なんだから、魁皇の姿を土俵上に見ることができるだけで、いいんだ。

この二人は本当によい大関だなあ、と思っていました。ありがとう、千代大海。そして魁皇にはまだまだ頑張ってほしい。

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ただ行動が

新成人のみなさま、おめでとうございます。僕は成人式に行かなかったのでそれがどんなものか推し量ることも出来ませんが、波乱万丈の楽しい人生を祈る!そして鏡開きも今日。どっちにも縁がないや。

さて、大相撲初場所が楽しみ。そうはいっても、この力士が贔屓というのはもうあまりない。一番一番見ることが楽しみ。

朝青龍は今年が力士として最後になるのではないか。本当に強い力士なので、もっと大事にするべきだと思う(横綱の所作に苦言を述べるU委員の所作がひどい。こういうダメな人はどこの世界にもいる)。

ボーリンブルック卿の「愛国心についての書簡」を読んでいて、カッコイイ英語だなあと思う。いつの時代も教養は大事。鍛錬は内面外面問わず不断のものでなければならないと思う。

穂村 弘さんの『本当はちがうんだ日記 』が最高に面白い。僕の好きな長嶋有さんと同じ匂いがする。

今日中にしなければいけないことが二つある。大丈夫、明晰に意識している。ただ行動が伴っていないだけなんだ。

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朴裕河『和解のために 』

1月に入って10日過ぎた。お正月は色々手持ち無沙汰になるので余り好きではないのだが、ようやく落ち着きを取り戻してきた。読みたかった本もいくつか読めたし、実り多い冬休みではあった。

忙しくて読めない本というのもあるけれど、「今はまだその時期ではないかも」と思ってわざと読まずにいる本というのがある。研究関係だと、すでに定説みたいなものが決まってしまっている作品などにおいそれと近づいて自分の視点が失われてしまうことを恐れる。それから、楽しみのためにとっている本もある。ある程度時間の余裕があるときにじっくりと楽しみたい、というものなど。中にはあの場所で読みたい、などという本まである。例えば、理由は分からないのだが『空間の詩学 』は僕にとって読みたい場所が決まっている本だ。

出版された当時に買って、早く読みたいけれどそれを自分に禁じていた一冊に朴裕河(パク・ユハ)さんの『和解のために 』という本がある(平凡社、2006)。それをこの冬は味読した。

内容についての関心は、一つには日韓でのサッカーW杯共同開催。背景には様々な問題があるのにお祭り気分で二つの国が突然仲良くなってしまうなんて、そんなのおかしいだろうと思っていた。以降文化交流や韓国ドラマの流行、そういったものを見ながら、喜ばしいことなのだけれど、それでいいのかな、と思っていた。なかったことにして上手くいくのはおかしい、と。

では、当事者でない世代のわれわれがどのように問題意識を持つべきか。たとえばそれを知識として得た時に、先の時代からの先入観に毒されることは免れえない。そしてこの先入観とはいずれの意味でもラディカルなもので(それは分かりやすさで)、それに触れることで必ず立場の表明を余儀なくされる。

知らないことも、知ることも、ともに難しいというか、恐ろしかった。

植民地化の問題をひとつの区切りとしても、それ以前からの交流と確執(これは隣国同士が常に経験する、という意味。摩擦、くらいの意味です)を捨象してしまうのも奇異だった。白熱した議論も良いが、物事をあまりにも単純化してしまうきらいがないか?

そういうことを恐怖していた。

Aを選んでもBを選んでも悲惨だ、という予感はすでにあった。だから安易な解決はすべて疑う必要があると考えていた。個人的に二つの国の問題は先の戦争以降のものとしてではなく、僕は千年単位での「他者」との交流だと思っている。それがサッカー大会一つで解決してしまうはずはない。

僕は若い世代の無邪気な交流を悪いといっているのではない。そして自分も含めて、知っていることと知らないこと(知らないことがあるということ)の両方を常に意識しているべきだと思う。

一朝一夕に物事が解決しないことへの覚悟であり、常に引き伸ばされた終着を念頭に置いている。なかったことにするよりは、とにかく考えるという選択肢である。もちろんそれは僕よりもずっと頭のいい人が今なお続けていることだ。

たとえば朴裕河さんである。この学術的誠実さは当事者が物事に客観的な判断を下すことの困難を教えてくれるし、それに抗する学者の気骨を見せてくれる。答えが出せない、その苦しい場所にとどまることは、知識人の務めだ。安易に簡便に分かりやすいものに飛びつくことを恥じて、考えること。わからないものについて考えをめぐらせること。それが義務だ。誠実さだ。

だからこの一冊で何かの回答は得られない。けれど、そこに光があることだけは確信できる。そういう本だった。

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ずっと、もっと。

ウィスキーは瓶だと700ml入っているのが普通。それを三日で空けるという事はつまり、200mlとちょっとを一日あたり飲んでいる。さて、この量は牛乳パック(給食のね)より少し多いくらいなんだけれど、その分量のウィスキーを、そのアルコールを体内で分解するのは結構大変な作業であるはずだ。そんなことを思いながら濃い目の水割りを作ってピアノを弾いたり、本を読んだりしている。廃人と呼ばれても反論の余地がまるでない。

試験が間近に迫ってくるこの頃、授業が終わっても学生さんが質問に来てくれることが増えた。もちろん試験、単位、卒業、というきわめて実利的な理由なのだけれど、それでも嬉しい。加えて、単位を手際よく取ろうという人より、「頑張ってるけどやっぱり分からない」、という学生が天使に見える。でも、質問を受けて「ああ、なるほど」と思うことは、そういう学生さんの場合が大変多い。

たとえば比較級というのがある。英語でいうmoreなんだけれど、もともとは何であるか?moreの元の形って何?muchなんだよね。「たくさん」→「より(たくさん)」なわけだ(manyの可能性もあるけど)。問題はmuch, moreが重なるときもあるということ。例えば、

He likes this car much more than that one.

と言ってみる。

He likes this car heaps more than that one.

とも言うことができる。

「moreだけで十分なんじゃないですか?」という質問をされたのである。

ふむ。、このときにmore自体は比較を表しているけれど、その度合い(どれくらい)をmuch, heapsなんかであらわしている。あの車よりずっと(もっと)こっちの車が好き、という訳だ。比較そのものはmoreというだけで成立するけれど、「すごく」を表すのに今ひとたびmuchの力を借りなければならない、のだろう。

He likes this car very much.

という場合(veryがないとちょっと変な気がするので補ってあるが)、彼はこの車がとても好き。このmuchはlikeに対する副詞。

He likes this car much more than that one.

こちらのmuchはmoreがどれくらいmoreであるか、に対する副詞、なのか。

するとmoreにかたちを変えたmuchと、moreを修飾する副詞としてのmuchは別々の語なのだ。先ほどheapsで置換できた理由はそこにあるだろう(なおheapsは、これはこれで珍しい用法だけれど、複数形で副詞的に使うことが出来る名詞なのである)。

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文献学からマンガ・アニメ研究へ

最近ちょっと懐かしい本 を読んだこともあって振り返れば、アカデミックな状況にゆるやかな(人によっては激しい)変化があるものの、自分では古いタイプの学問にこだわってきたという気持ちがあって、それは文献学という。

スペイン語ではfilologíaと呼ばれるこの学問は、いわゆる文学なんだけれど、文学研究の閉塞感は文学理論の発達を促した。その発達を名指すには批評理論という呼び方を採用するべきだと思っている。そちらがカッティングエッジの学問だということは分かる。理論によって文学がよい影響を受けた例も多々ある。それでも自分は軸足は常に文学の、文字と向き合う地味な学問をしてきたという感じ。もちろんこれらを分離させる理由もないし、必要もないんだけれど。

そういう側に身を置いてきた僕が最近思っているのは、マンガとかアニメのナラトロジ研究の必要性、表象の連中がやっているくだらない研究を一蹴するような物語としてのマンガ、アニメ研究の必要性があるということ。

表象の根幹にレターズ(文字)が抜け落ちているのは愚の骨頂だけれど、欧米の批評理論の動静に踊らされてきた人たち、もちろん全員がそうではないけれど、出来の悪い人たちの書くものに感じる既視感は善良な読者を落胆させるに十分。そも、優れた表象理論家は誰一人文献学を蔑んでいないのだが、どうもその郎党を自負している連中、虎の威を借る連中は基礎も何もない。理屈が通っているかどうかではなくて理屈が成立しているかどうかさえ、自分自身では判断できない粗忽な連中である。

ちょっと脱線したけれど、マンガとかアニメのヴィジュアルな部分を論じる一方でナラティブの次元を捨象していいはずはないし、文学で行間を読むような作業をいわばひとつのシークエンスとしての物語に応用する意義があると思うのだが、あまり本格的にやっている人がいない(なぜシークエンスということを持ち出すかというと、文学は、文字は、それを目で追う時間性から逃れることが出来ないというただその一事に尽きている)。

もったいない話である。

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舞城王太郎『ビッチマグネット』新潮社、2009.

第142回芥川賞の候補作として、舞城王太郎『ビッチマグネット 』(新潮社、2009)がノミネート。今度こそ、もうあげるしかない、芥川賞。舞城がもらうことに意味があるのではなく、舞城にあげることに意味がある。

でも違うんだよ友徳よ。正論ってのは他人を正すためにあるんじゃないんだよ。正論ってのはあくまでも自分っていう潜水艦の周囲の状況を確かめるために発信するソナーなんだよ。自分が正しいと感じる、信じる意見をポーンと打って、返ってくる反響で地形を調べるのだ。(154-155)

 正論を正論ですと説いてその気恥ずかしさにキヒャーってなっちゃうのは当然なことで、そうならない人はおそらく恥ずかしい人だ。舞城の書く物語は、誰かさんが言ったみたいにこけおどしではなくて、あまりにもストレートに正論を、しかも誰かをねじ伏せたり説得したり迷惑をかけたりするためじゃなくて、さしあたり自分がよりよく生きていくための理屈そのものを取り扱うので(だからいつも最後は説教臭い)、少なくとも外観で照れ隠しを成就するほかない。シャイな人は自分をシャイと言わない。
 悪意は忍び足で、または堂々と大手をふって近づいてくる(自分が引き寄せていることだってある)。その標的となる理由が常に明瞭であるとは限らない。世の中のほとんどの出来事は偶然の上に成り立っているから、さもありなん。人生は外部からの想定外の力で捻じ曲げられて初めて成立している(受精がそう)。対峙ではなく、退治でもなく(これらは『熊の場所 』のトポスだった)順応すること、適応すること。それって想像以上にドラマだ。
 家族小説に大学生の青春、認知療法と物語が生まれる瞬間ののっぴきならない感じが200ページちょっとに凝集されていて、それだけでもお買い得。初めて読む舞城がこれだったら印象が違うかしら? それはそれでいい、のだ。舞城王太郎という人が純文学とエンターテインメントとしての作品を器用に書き分けているという印象は僕にはなくて、とにかく書ける、書ける、書ける人なのだから、読者はその圧倒的な手練手管にまずは飛び込むべき。
 好きであろうと嫌いであろうと、同時代の作家として舞城王太郎を読まなかったらもったいない。
 装丁、カバーもとってもかわいい。帯も是非外してみて。

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『抱擁のかけら』

アルモドバル最新作が『抱擁のかけら』として、2月6日より上映されます。彼の好きなものをこれでもか、と詰め込んだ力作。賛否あるけれど僕はとても好き。

主人公は視覚障害のある脚本家なのだが、その生活自体もとても興味深い。

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2010年が皆様にとって素晴らしい年でありますように。

あけましておめでとうございます。

Excepto_atado 年が明けてまずこちらを見てくださったあなたは、とても奇特な方です。感謝申し上げます。

今年もいくつかの場所でお仕事をさせていただいたり、ちょこちょこと自分の文章を書かせていただきます。どうぞよろしくお願い申し上げます。

2010年が皆様にとって素晴らしい一年となりますように!

また、自分の不勉強はあえて省みず、今年も沢山良い本、音楽、その他に出逢えますように!

年越しの一冊:

ロラン・バルト『物語の構造分析 』みすず書房、1979.

年明けの一冊:

舞城王太郎『ビッチマグネット 』新潮社、2009.

バルト翻訳は何度も読み返している本。読みながら、バルトが(あるいは翻訳者が?)「記号表現(シニフィアン)」「記号内容(シニフィエ)」を混同しているんじゃないかと思う箇所がある。でも間違えていたら見識高いどなたかが指摘されているだろうし、僕の勘違いであってほしいけれど、どうにも意味の通らない箇所がある。そうそう、大阪外国語大学(僕の在学当時)の図書館では行方不明だった本である。所蔵はあるのだが、その棚にはない、そういう本だった。表題作も重要でしょうが、僕は砂糖に関するエッセイが好き。

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