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2009年12月

2009年に出逢った素敵な音楽

これは簡単で、山中千尋さんをおいて他にない。僕としては珍しく生の演奏も二度拝見させていただき、心から堪能した。あんなにかっこいいガーシュインはもう二度と聴けそうにない。

最新作はランニング・ワイルド

Amazonでは取り扱いがないが、澤野工房から一番最初に出したLiving without fridayも素晴らしい!

今年は以上!

(おまけ)

今年作った素敵な音楽。

ピアノを久しぶりに弾いたUndercurrentという曲が気に入っています。

自分で歌ったものではまにまにという曲が今年の自分ベスト。

聴いていただけたら幸いです。

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2009年に出会った素敵な本

先に言い訳をさせていただきますと、今年は余り本を読みませんでした。なのでご紹介できるものなどありませんが、これは自分にとって(今後)大切になるだろうな、という議論を含んだ本を挙げると、

ポール・カートリッジ『古代ギリシア人―自己と他者の肖像 』橋場弦訳、白水社、2001.

エドワード・サイード『オリエンタリズム 』平凡社ライブラリー、1993.

後者については「いまさら?」と思われる方があるかもしれないけれど、いつまでも重要な本であり続ける。たとえば、ヨーロッパに行って差別をされずに生きることは出来ません。明らかな差別も、そうでないものも。それって被害妄想では、卑屈になっているのでは、と思われる方もあるかもしれませんが、何千年も差別してきたものを突然改めることは出来ないのです。その楽観主義は楽観的に過ぎる。別にホモ・エウロペンスのみを非難しているのではない。日本もゼノフォビアは強い一方で、欧米人に腰が低く、もっと近い外国に対する偏見をなくしたほうが良いと思うのだけれど、違いが分かりにくいからこそ差異を強調する必要がある、という差別の論理。そういうことって、どこに生まれても骨がらみであるはずだ。日本が、ヨーロッパが、ということではないと思う。そういう問題に思いをいたすときにこの二冊は心強いパートナーになるはず。

演劇は18世紀スペインの悲劇ばかりなので、あまりご参考にならないと思い割愛します。

小説もあまり読まなかったのでオススメできる作品がないのだけれど、一冊だけ。

清水義範『ドン・キホーテの末裔 』ちくま書房、2007.

これは、小説としてもだけど、『ドン・キホーテ』入門書としても優れていてオススメです。読みながら、電車の中でクスクス笑ってしまった。本当に面白かったです。

詩は、僕をやわらかく、優しい気持ちにしてくれたものを一冊。とんがった現代詩に関心が薄い僕は、自己弁護や言い訳にならない、語りかけるような詩が好きみたいです。

北山りら『にじのはし』竹林館、2009.

来年も沢山本を読むことは出来ないと思いますが、友人から薦めていただく本は極力読むように努めていますので、面白い本があったら是非教えてください。

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pianoster

pianoster

僕のコンポジションにしては珍しく評価がよくて、自分でもちょっと驚いた曲。

同時に公開したsbの不人気さといったらない。それでも作り続けるけれど。

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間違える。

昔むかし。

オー・ヘンリを読もうと思って図書館に行った。間違えてオーウェルを借りて帰ってきた。仕方ないよね。

おととい。

ヘルダーを借りに行った。持ってるのにどこにあるか分からなかったので、図書館に借りに行った。ヘルダーリンとは間違えなかった。ヘーゲルと間違えた。仕方ないのか。

で、ヘーゲルの生涯みたいのを読んでいたんだけど、彼が困窮していた折に援助したり、仕事を探してくれた友人がいる。持つべきものは友だよなあ、と思う。その友人の名がニートハンマー。なんか、ガツンと一撃だった。今の日本に必要なのはニートハンマーだと思う。

知ってる人は知っていることだけれど、ネイション論をやっている人に案外盲点なのはアラン・フィンケルクロート『思考の敗北あるいは文化のパラドクス 』であると思う。是非手にとってほしい。アラン・ホールズワースではないので注意。まあ、間違えても損はない。

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Feliz Navidad!

スペイン語で「メリー・クリスマス!」を¡Feliz navidad!という。「生誕」を意味するnativitasというラテン語から来ているのだが、途中でtiの部分が落ちてしまったらしい。ふふふ。

さまざまな決断をし、さまざまな選択をし、さまざまな道を選ぶ皆様に祝福がありますように。先に答えが見えていれば走り出す道筋はいくつも見出せる。John Farnhamもそういっていた。

すばらしいクリスマスと新年をお迎えになりますように!!!

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bratislava

ブラチスラヴァ

光りがサラサラ降る
11月ももうすぐ終わる
時の透明な雪が窓の外に積もった

言い訳はもういい
僕たちは歩き出すんだ
迷いを忘れたふりをして無理やり足を踏み出す

僕が訪れた街は白すぎるくらい白い冬の城
言葉をなくしたあの人の唇のようにつめたい

この歌はどこへも行かない
何一つ変わりはしない
どうしていいかわからずに
とりあえず 笑った 笑った
風が強い午後で
木の葉が青く散った
きらきらと輝くものは僕の迷いだけだった

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これは11月の歌。10月中に録音して11月に載せようと思ったら忘れていました。ブラチスラヴァはスロヴァキアの首都。当初「迷いの歌」という名前だった。2001年の11月、やっぱり僕は迷っていたらしい。

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December

12月

エヴァが未来はないと語った
僕は片手に花瓶を持ったまま
理不尽に暖かい12月の空にカーテンを開いた

人は心のはるかどこかに
過ぎ去りし恋の記憶を閉じ込めて
何も傷つかなかったように
忘れた振りをするくらい愚かだ

マフラーを取って
僕は風の中で
自転車に君を乗せて

背中越しに
君の今日の話を
聞いて笑って走る

僕の未来を信じるのなら
僕と一緒に歩いていたいなら
何も迷わず君の手を僕に差し伸べてくれたらいい

エヴァが未来はないと語った
ひどく難解な言葉でそう言った
部屋のテーブルの花が枯れるころ
その預言を忘れるだろう

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BPM 144、冒頭から最後までガットギターで結構速いアルペジオを弾いているのに全然聞こえない。誕生日なので12月の歌を挙げてみました。

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師は走り、学魔は翔ける12月。

直前の案内になってしまうのですが、僕が見に行こうと思っている講演。お目当ては当然ですが学魔。

【明治大学国際日本学部特別シンポジウム】
ヴィジュアル・カルチャーと漫画の文法――ティエリ・グルンステンを迎えて――

[日時]2009年12月23日13時30分~18時(2部構成・質疑あり) 開場13時
[場所]リバティーホール(明治大学駿河台校舎 リバティタワー1階)
[主催]明治大学国際日本学部  [後援]国際交流基金
[プログラム]
13時30分~学部長挨拶     
13時35分~グルンステン氏の紹介 [総合司会:高山宏] 
13時40分~15時15分  
<第一部>『線が顔になるとき』をめぐって~視覚文化論の立場から
荒俣宏 × 高山宏
――休憩(15分)――
15時30分~17時30分
<第二部>『マンガのシステム』をめぐって ~国境を越えたマンガ論の試み
グルンステン×竹熊健太郎×伊藤剛(司会:藤本由香里)
*質疑応答(17時30分~17時45分)
17時45分~18時
<終わりに>高山宏 × グルンステン
18時   閉会のことば[総合司会:高山宏] 

※先着順・入場無料

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2009年の素敵なアニメたち。

師走も半ばを過ぎました。ノートの日付欄に、あるいは手紙の右上に、2009年と書ける期間はあとごくわずか。寂しいことです。

そろそろ書き始めておかなければ忘れてしまうので、今年良かったと思う作品を。まずはアニメから書いていきます。とくに順番は気にせず書いていくと、

けいおん!』・・・これを見てバンドを組みたくなったり、楽器を始めたくなったりした方も多くあるのではないでしょうか。僕は自分が高校生だった頃を何度も思い出してしまった。

マリア様がみてる』・・・言わずもがなの、僕のカノン。小説による原作もほとんど読んでいる。4期は瞳子が祐巳の妹になるまでをとてもとても丁寧に描いているのだけれど(三期のエピソードを回収したりしていて、見事でした)、白薔薇姉妹に魅せられる場面も多くあった。さて、祥子様卒業までを5期で描くのでしょうか。見たいような、見るのが怖いような(原作もその巻は手が出せないでいる)。人生を通じて好きな作品。

東京マグニチュード8.0』・・・少し近年のアニメとは毛色が違うのだけれど、毎週しっかり見てしまった作品。崩壊した東京の風景もすごいけれど、主人公姉弟の描写が見事。そして、地震にまつわるこれらはすべて現実的、なのだ。気づかれないところで声の出演も豪華でした。

まりあ・ほりっく』・・・放送の時間帯なども含めて、『マリア様がみてる』に対する一つのアンチテーゼと取れなくもないけれど、素直に学園モノとして見ても楽しい。最近「百合」だな、と思っていたけれど、それを見事に打破している点でも注目に値する。新房監督作品はほかにもすばらしいものが多い。『夏のあらし』もすばらしかったし、『化物語』は今年もっとも優れていた作品だと思いました。少しレトロな映像感覚に魅了されました。

大正野球娘。』・・・これも「百合」ネスを感じた作品だけれど、さわやか過ぎてなんともいえない。直球の青春モノ、だった。OP主題歌が及川光博さんの「バラ色の人生 」を想起させるのだけど、それはこういうアレンジの方が既にあるから。ただ、結構面倒くさいので定石にしたがってしまうとどれも同じに聞こえる。それは盗作とかとは違う。サウンドトラックとはメタな創作であることも多いので(シーンとかイメージに併せて作るときに、既存の作品との間テクスト性が無視できないため)、それを楽しむ度量が必要。テレビでは流れないけれど、二番の歌詞に「乙女チックホームラン」というのがあって、驚いた。そのあとの「もー、なんですの」もすごい。いろいろ、すごい。声の出演も豪華でした。

東のエデン』・・・映画化もされて、それが心待ちでならない作品。大きな物語を小さな世界で作っていくのがすごい。もう、色々書けないくらいに好き。

とある科学の超電磁砲』・・・先述の「百合」潮流を強く感じさせる作品だけれど、能力ゼロの佐天さんがいることですごく良い作品になっていると思う。それから、ささやかなことだけれど主人公たちの住む学園都市の街並みが好き。

君に届け』・・・現在進行形で耽溺する作品。「百合」じゃない、そしてストレートこのうえない、けれどこんなに素敵な物語が・・・。実は第一回に僕の好きなアニメータの吉田健一さんが参加されていた。大好きすぎてしかたがない作品。毎週能登麻美子さんの声に胸をときめかせている人はおおいはず。漫画でできないことも色々と実現している、非常に細かい配慮がされている作品。

サマーウォーズ』・・・劇場版アニメ。単純に見てよかったと思える作品でした。風景がきれい。話自体はそれほど込み入ってないし、案外人物への感情移入が難しいのだけれど、好き。でも『時かけ』はもっと好き。今年はアニメーション映画を見るために劇場に足を運ぶことが多くて、『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』、『エヴァンゲリヲン新劇場版 破』も見に行きました。

全体的にテレビアニメは音楽が良かった、と感じています。いわゆるキャラソン人気もさることながら、『化物語』のように短いスパンで主題歌がどんどん変遷していくものがあり、興味深い。『夏のあらし』も挿入歌の豪華さが目を引く。それと、アニメのための歌、電波ソングを採用する作品と、そうではない作品の違いが目立って、後者については音響的な豪華さが前者に負けるとも劣らない。じゃあ相互に似ているかというとそんなことはないんだけど、音を作る人の意識がすでに、パレットにあるすべての色を等価とみなしている気がしました。歌詞がよいものは前者に多かったと思います。

劇場版は前評判が高く、実際に期待を裏切らない作品が多かった。当たり年だったと思います。

作品とは別ですが、今年僕は小林ゆうさんを拝見する機会がありました。来年は『おおかみかくし』、『ソラノヲト』に期待しています。

面白そうな作品があれば皆様も是非教えてくださいませ。

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セーラム

セーラム

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細いセーラムのメンソールに
口紅をつけて吸う君に
止めたらという僕が子供に
見えるのもしかたない

ピアノの上に置いたライターを
君が見てないうちに手にとって
ポケットに隠した僕は
あまりにも幼すぎる

夏のように青い背景に
僕たちが戸惑うような日々は
会えなくなることを前提に
ゆるやかに流れた

愛されているのに愛されてない素振り
ゆりの花のにおいが強すぎる
あの日以来ピアノは弾いてない
悩む君とつつしむ僕に銀色の雨がふりそそぐ
火をつけて一度だけ深く吸い込んで

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時には春のよう

この師走。寒いことは寒いけれども、時に春のように錯覚する日がある。風が吹き頬を冷たく撫でるのだが、それさえ心地よく感じる。季節感とは別に、ああこういう感じを以前も憶えたとおもえば、それは大抵が春のこと。においや空気で情景などを思い起こすことができるのは、五感のおかげだとおもう。

夜半から始まるイベントにいくので、前日早起きして、途中昼寝をすればちょうど良いと考えていたのに、仕事をしていたら昼寝をするのを忘れていた。仕事をすると時間のたつのが早い。悩みがある人は仕事に打ち込むといいよね。

雑事の合間、遅々として進まないけれど『フランス革命の省察 』を読んでいる。保守主義の筆頭であるけれど、物事常に中庸たるべしは当時の啓蒙思想家の理想でもあるわけで、あからさまな急進主義は産業、教育あまたの面で否定的に受け入れられた。つまりはバランス感覚が重要。さて、バークは「われわれは昔からこうだ」という自己の神話化のレトリック自体をかなり意識的にとり上げて、伝統が数世紀にわたって保持されているかどうか、ではなくてそうしてきたと考えたい心性を評価している。ネイションを語るときに考えるべきことだと思う。

皆様も良い師走をお過ごしください。

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オラシオ・カステジャーノス・モヤ『崩壊』

エル・サルバドルの亡命作家オラシオ・カステジャーノス・モヤのDesmoronamientoという作品がこのたび翻訳(『崩壊 』現代企画室、2009)されました。僕もスペイン語で読ませていただきましたが(こちらにも記事を書いています)、作品内の声(登場人物たちの声)の存在感がものすごい。えーい、まどろっこしい言い方はよそう。なに、このライブ感、ドライブ感、バリバリはじける罵詈雑言!!

この翻訳出版を祝うかたちで、セルバンテス文化センターで催しがあるようです(12/16 19:00-)。作家本人と翻訳をされた寺尾隆吉さんのスペシャル対談!たぶんこんな機会はもうない!

気になる方はセルバンテス文化センターに問い合わせてくださいませ。入場無料・要予約です。

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ふくらますをふくらませて(hinchendo el henchir)

スペイン語に「henchir(ふくらます、満たす)」という動詞があって、現在分詞がhinchendoになる。一般的なルールからするとhinchiendoになりそうだけど、ch, ll, ñの前ではiが落ちる。

普段気にしたことはなかったんだけれど、たまたまそのことを教えてもらって小学館の辞典 を見ると「pedir(頼む)」と同じタイプの活用としてある。並べて書いてみる。

pedir - pidiendo
henchir - hinchendo

あれ、違うじゃん?と思うけれど、pedir型なのは最初のeがiになっている部分に言及しているのだと思う(語根母音変化という)。ただ、この説明を読んだらhinchiendoと勘違いしてしまうだろう。とはいえ、実際に間違えていた辞書もあった。

先ほど書いた特定の文字のあとでiが落ちるという現象について、なんだかよく分からないけど古めかしい文法の本にそのことが書いてあった。henchirは現在分詞(その本の中では活動形容詞と書いてある。かっこいい!)はhinchendoになるので注意、と書こうとして、でも誤植によりhinchiendoになってしまっている!

いろんなことが裏目に出たケースなのだろう。執筆者は注意を促すためにわざわざ特記しているのだが、植字工は勝手にそれを修正して(おそらく自分が普段、文法などを気にせずに使っている形で)印刷に回してしまったのだろう。それでも、本当はhinchendoにしたかったということは、前後関係(他の動詞の例)からも察することが出来るので、たまたまこの箇所を読んだ人がクスリと笑って気づく。何年も、何十年も、あるいは何百年もあとに。

さて、何でch, ll, ñの後ろではiが落ちるのか、僕には詳しいことは分からないけれど、この本には脚注がついていて:

この理由については、IEという二重母音は決してこれらの子音に続かないからである。というのも発音が大変粗野になるからである。

ますます微笑ましい。それを粗野だと感じない人たちは形を変えていってしまうだろう。変わってしまうかもなあ、とちょっとだけ思う。

言葉の変遷は、無人称の主体、匿名の多数によって引き起こされてしまうんだろう、と思う。それに対する学術的な誠実さとは、たぶんドグマを振りかざすことだけではなくて(それもすごく大事なことなんだけど)、変わってしまうかも、という正直な感想を添えることなのかも。

おっと、随分話が・・・。

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センセイのセンセイ

先生は昔学生だったので、先生がいる。

先生は(場合によっては)今も学生なので、先生がいる。

先生は他の先生に助言をいただいて指導されることもあるので、その場合他の先生が先生になる。

それから先生は、教室で沢山のことを学生さんに教わるので、先生の先生は学生さんなんだと思う。

一朝一夕でいい先生にはなれそうにないので、とりあえず襟を正す。たぶん先生の先生も、そのまた先生もそうしたはずだと思う。

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『よつばと!』9巻。

よつばと! 』がとても好きなのだけれど、このたび9巻が出ました。前回から一年以上の時間を経ていますが、作品の中ではまだまだ秋の気持ちいい季節。絵もますますすごくなってきたけれど、内容は当初の無邪気さから少し疎遠になってしまったようで、さびしくもある。まあ、そこは波もあるだろうし、変化もしていくだろうけれど、何度も読み返しながら師走を静かに過ごしたい。この時期、カレンダー もほしくなってしまうから危ない!

皆様も健やかにお過ごしください。学位論文提出を控えている方、終わらないと思ったたびもそろそろゴールです。身体にだけは気をつけて。

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B棟にいた

ずっと昔のこと。B棟という建物での話。

Edb

図書館は21時に閉まってしまうのだけれど、教室等は22時まで守衛さんがやってこないので、そこで本を読んでいた。このスペイン語の文章を、分かりやすく説明するにはどうしたらいいのかな、なんて考えながら。それは教育の形而上学とは無縁の、もっと実用的なレベルの話として。外国語を、外国語のまま理解できてしまうのは理想だけれど、僕は外国人なのでそういうことはたぶん難しい。でも、外国語のまま理解できてしまっては、説明できないというより、分からなさが理解できないだろう。分からなさを共有できることは、スラスラスラ、とスペイン語を読めない僕がそれを教える数少ないメリットなのだと思う。

Autopsy(「自分の」+「(目で)見る」、が原義)という物凄い言葉があるけれど、分からないものを俎上に、分かるものに因数分解していく感じ。公開の解剖実習は、同時に公開の実技試験である。外国語の文章を読むことは、僕にとって確実に肉体性を伴っていて、分からないことを分かるようにするまでは、スポーツのような営みなのである。食えない文と対峙するために、毎週闘技場に引き出されていっては、傷を負って帰ってくる。

それはロマンティックな幻想に過ぎなくて、本当は恥を切り売りしている。それでも、理を尽くして説明できる先達に出会えた僕には、やはりその伝統を継承する義務があると思う。横のものを縦にするのではなくて、分からないものを分かるようにする。

黒板の前に立つ僕の頼りないシルエットは、たぶんB棟にいたころと何も変わっていない。

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靴紐をかたく結んで師走かな

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