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2009年11月

三十而立。

三十而立。

転ぶことばかり。

雨のあとに虹。

Arcoiris

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DGのラベル

特に高価な楽器ではないけれど、ユニークなギターとしてヤマハのDGがある。僕は長らくナイロン弦を張っていたのですが、発売された折はスチール弦で使用することを想定されていたみたい。まあ、そこは好みでいいのですが、過日弦を張り替えて掃除をしたときにラベルの写真を撮ってみた。ラベルの色やシリアルなどでいろいろなことが分かる。あとDGは裏面にトラ目が出ているものが多くあり、大変美しい。もし売っているのを見つけたら、是非チェックして下さい。どんなに高くても5000円以内で手に入ると思います。
Dglabel

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枝振り

どこだったか、思い出せないけれどなかなか見事な枝振り。右と左でまた違うものを排出しているのだろうか。それとも、右から入った空気が左から出てくるのだろうか。
Doble

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スペイン語の住所

先ごろ、いろいろな方にお手紙する機会があり、サラサラっと書いた住所数行でそれらがちゃんと到着することに驚きを禁じえない。すごいぞ、住所。住所パワー

スペイン語ではdirecciónといって、どこにdirigir(向ける、宛てる)されているか、ということ。スペインは通りに名前がついているので、(以下の住所は架空のもの。ホセ・モニーノはフロリダブランカ伯)

Sr. D. José Moñino
C/ Floridablanca 25

みたいにC/と書いて「通り」を示す。Av.(Avenida)やPl.(Plaza)の場合もある。番地はその後ろに来るけれど、大学なんかだと、そこにいけば分かるだろうからs/n(番地なし、sin número)なんて書いてあることもある。

Luna

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水際で人は

水に流す。

なかったことにする。

スペイン語にもliquidaciónという言葉があって、お店の在庫一掃セールのときなんかに目にする。「液体化する」が元々の意味で、清算するということなんだろう。

水は流れていくので、今あるものを運び去る。だから水際で人は安らぐ。

Leon

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むりやり文脈の中に位置づけてやること。

Gerbera10月最終週にとても忙しく過ごしていたのが、遠く感じられる。そのころ、あるいはその少し前から、鉢植えのガーベラがびっくりするくらい花をつけはじめた。今はもうずいぶん小さくなってしまったけれど、今年一番の咲きっぷりでした。

話は変わって、外国語を勉強していて例文なんかが出てくると「ハテ、これはいったいどのような文脈で発せられたものかしら」と考えるのが常になっている。それは高校生のころからの習慣なので、自分ではなんとも思わないが、それを人に説明したりすることがあって、うまく伝わらない気がする。

なんで文脈をわざわざ補ってやるかというと、言語はなまものだから。破格構文であろうが、妙な句読点が入っていようが、やはり発話されてしまえば意味が発生する。もちろん教科書や辞書の例文にそういうものがあるとは思われないけれど、一方で「ここをこう言い換えたらどうなるのか?」などと考えるときに、この文脈を想定しないとうまく頭の中で作業できない。言語は機械的に意味を伝える道具ではないし、ニュアンスというものが生まれる余地もいつもそのあたりにあるので、とにかく嘘でも状況を補ってやらなければわからない。単音では調性を推測できないし、(音のインターバルが)4度でも出来ない。文脈がなければ、なのである。発話に関する絶対音感は誰も持っていない。

授業のあとはいつもそんなことを考えているのだけれど、僕のそういう作業は学生にとって奇妙に映っているのだろうな、とも思う。

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1/f stability

穏やかにすごしたいと願いながら焦燥感に駆られることがあったり、忙しさの中ではそういうものを忘却していたり、人間とはままならないことがたくさんある。風の強い日に髪の毛バサバサになりながら犬の散歩へ行き、面白い本を読み、おいしいチーズとウィスキーがあって、もうこれ以上の幸せはないな、と思う。

毎日が日曜日というのは、案外幸せではないかもしれないけれど、たとえばある程度規則性のある中で生活のリズムが生まれる。そういうところから逸脱すると、心は不安定になるし、安住するとやっぱり不安定になる。誰だってそうなんだろう。

ディアンス の新しいアルバムを聴きながら、地味なのに退屈ではなく、目立とうとしてはいないが歌心に溢れるギターを満喫している。この勘所が難しい。それはギターに限ったことではなく。

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他愛もない話

Sebold

秋のある日、書棚の片付けなどをしていて、あるポスターが目に付いた。

すこし昔話になるけれど、2001年という年に僕はスペインのグラナダ大学という場所にいた。興味のある授業に顔を出し、本を読んだり、ギターを弾いたり、お酒を飲んだり、まあ今とあまり変わらない。

僕が18世紀研究をはじめるのはこの時期で、行く先々で18世紀関係の本を買い集め、図書館ではコピーロボットになっていた。そうすると、参考文献などでおのずとビッグネームに出会うこと頻りで、中でもシーボルトという名前の研究者の書くものはどれも素晴らしいインパクトに溢れていた。すごい人がいるなあ、と思って毎日を過ごしていた。

大学の廊下でふと見知った名前が目に入った気がしてきょろきょろすると、そこにこのポスターがあった。なんと、シーボルトがグラナダ大学にやってくるというのである。講演会と対談が予定されていて、このポスターは対談のもの。当時僕が習っていたミゲル・ドールスが対談相手だという。正直驚いた。シーボルトはペンシルヴァニア大学の名誉教授ですでに教職は退いていたが、その彼がこともあろうにグラナダにやってくるとは!

ルサンの『詩学』に関する講演、ドールスとの対談、双方に足を運んだ。対談の後、僕は持参していたカダルソの校訂本(もちろんシーボルトによる)にサインを求めた。英語で話しかけた。僕は自分のスペイン語がまずいのをよく知っていたのだ。

それから随分時間がたって、僕はまだ18世紀周辺をうろうろとしている。何かは変わり、何かは変わらなかった。そんな他愛もない話。

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女子バレー

世界最強のブラジル相手に遜色ない試合を見せた、女子バレーボールのワールド・グランド・チャンピオンズ・カップ

すごい、すごい、すごい!

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読書のお供に

Pocky

11月は特に忙しくもなく、先だってある大学の学祭を見に行った以外は当面、遊びに行く予定もありません。それも学祭自体を見に行ったというよりは、そこであったあるイベントを見るためにいったのです。平穏といえばこれほど平穏なことはないよね。あとは『君に届け』を心のささえに、しっかりと生きていくだけ。アニメはちょうど漫画の二巻 までのエピソードが終わったところです。見てない人、まだまだ追いつけます。

そうそう、今日はポッキーの日。読書のお供に、行楽のお供にどうぞ。パッケージも洗練されていて、もはやこどもには手を出せない。

僕の部屋にはもう一方、読書の友がいる。疲れてふと目を挙げると、黙々と読書に勤しんでいらっしゃる。

負けられません。

Nagato

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『フランス革命と家族ロマンス』

リン・ハントという人の本がとても面白い(翻訳は結構手に入りづらいです)。今僕が読んでいるのは、『フランス革命と家族ロマンス 』という本。家族ロマンスという言葉は、フロイトに縁のない僕には分からなかったのですが、丁寧に著者が説明をしてくれています。それによれば、両親に不満のある子供が「こんなの本当のパパやママじゃないやい!」と思って、自分は本当は王様とか貴族の息子〔貴種流離譚的に〕という空想を抱く、という精神作用。フロイトの術語をそのままに歴史に当てはめるのではないけれど、親を拒絶した上で新しい展望を描くという社会的政治的な運動がフランス革命にはあるのでは、という話。

親って何よ、というとフランス国王のこと。この当時の王に望まれていた父親としての正義とか秩序を保つ力、それを根底から覆しているのが革命なので、その空白を埋める作用がどうしても必要になる。たとえば、王様をすごく悪く言う(だから自分たちの行為は正当であると主張する)とか。そういうのが文学とか絵画で確認できますよ、という。

父親としての国王に暴君の名を着せてこれを殺すというのは、普通出来ないことです。だって王様の権威が神様由来だとも信じているわけですから(カントーロヴィチの本 とかアポストリデスの本)。それを克服するには相当な葛藤を経たはずで、それが父親の凋落する文学作品や絵画に兆候として現れ、新しい家族モデル(平等性に依拠した社会契約)を模索する。すごく、面白い。眉唾と思う人もあるかもしれないけれど(フロイトから用語を借りた時点でそういう感じはぬぐえないし、それはリン・ハント自身が一番理解しているのだけれど、それを拡大再解釈してフランス革命という歴史的大事件を説明する道具に変えたところが彼女のすごいところだと思う)、フランス革命周辺のことを勉強するなら、読んでおいて損のない一冊だと思います。スケールが大きいというよりは、目配せが良い本。こういう歴史の方法が僕は一番好きです。

英語版 がペーパーバックで入手しやすいみたいです。

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Le fantôme de l'Opéraとか。

ちょうど三年前の12月22日に劇団四季の『オペラ座の怪人』を見に行きました。なぜこの日付を正確に覚えているかというと、その日は修士論文提出の翌日(つまり提出日は僕の誕生日でした)、進学にかかる書類の提出期限だったのです。

眠い頭をシートにもたせ掛けると、もうあまりお芝居の内容は入ってこなくて、音楽だけが心地よく響いていた。アンドリュー・ロイド・ウェバー やばすぎる(映画版で失礼します)。このイントロはもはやヘヴィ・メタル。オーケストレーションも巧み。非の打ち所がない。タンゴの曲としても踊れる。そんなことはどうでもいい。

さて、怪人(エリック)がなぜ仮面をつけているのか、その理由が僕の中で判然としなかった。火傷だったとか痣だとか、奇形だとか、たぶんいろいろなヴァージョンがある(ミュージカル、映画、ドラマなど)のだろうけれど、ガストン・ルルーの原作では割とさらっと書かれていて、

<ペルシャ人>の話では、エリックはルアン近郊の小さな町の出身だった。彼は左官工事請負業者の息子として生まれたが、あまりの醜さに両親にまで忌み嫌われたので、早くから家を出た。しばらくのあいだ、彼は縁日の見世物にされ、興行主は彼を<生ける屍>として宣伝した。彼は縁日から縁日へとヨーロッパじゅうを渡り歩き、芸能と記述の本家本元、ジプシーたちの間で、芸人・奇術師としての風変わりな教育の総仕上げをした。(『オペラ座の怪人 』長島良三訳、角川文庫、448)

生まれつき醜かった、なのです。見世物として、というのはダイム・ミュージアム的に怖いもの見たさの客がやってくるのでしょうか。僕など醜形恐怖症なので、エリックにどうしても肩入れしてしまう。外見によって厳しい人生を送らなければならなかったエリックは、結果としては諸芸に秀で才知に長けた超人になるというかなり安易な怪人誕生なのだが、彼が一番欲したのは人間として扱われることだったのだろう。クリスティーヌに別れを告げようとするエリックに彼女がくれた言葉を反芻して

しかし、彼女は私といっしょに泣いてくれたんだ・・・・・・おまけに、『可哀想な不幸せなエリック』と言ってくれたんだ!・・・・・・(438)

もう、もう!しょうもないルポルタージュ型式の推理小説でありながら、僕の心をつかむのはこのあたり。『ノートルダム・ド・パリ』とならんで、エリックは僕をとても悲しい気持ちにさせる(まさかユゴーの作品がディズニーによって映画化されるとは・・・)。

さて、顔の話をしたので春日武彦『顔面考 』にも是非言及しておきたい。人は顔をどのように見、扱ってきたか。それはすべてが現れる場所なのか、それともすべてを裏切るものなのか。図版の集積も見事。さらにナンシー・エトコフの『なぜ美人ばかりが得をするのか 』をあわせて読むと効果大。

外見をアピアランスという。現れるもの。表出したもの。一方で先験的に外見は決まってもいる。とすれば、この二つは齟齬をきたし、不条理を生み出す。でも、生き物の大抵の不条理はこういう風に出来ている。生まれるものは死んでしまうとか、死ぬために生きているみたいな。ただそれを顔だけで見事にやりおおせているところがすごいと思う。

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rep: cl-s

クロード・レヴィ=ストロースが死んだ。

僕は彼がまだ生きていたことを知らずにいたが、死んだ。いずれにせよ本の中で出会った彼はまだ本の中に生きており、僕にとっては一切変化がない。個別の事象に拘泥しては、見えないことがあることを示した。だからその消失を陳腐に嘆くのはそぐわないことなのである。

彼とその世代の、きらびやかなフランスの冒険者たちの功罪はいずれ今世紀に再解釈されていく。ゆっくりと休んでほしい。

Qu'il repose en paix.

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手帳2010

Diario2010来年の手帳を買いました。手帳人間なので。

今年と同様、高橋書店のものが3年目に入ります。ちょっと日常にはない水色で、一年を楽しくすごしたいと思います。

週ごとにある予定などは、早め早めに書き込んでしまいます。そうすると、生活のリズムが見えてくる。未来のことなのに。

特別な行事なども忘れないように、パパッと。

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タイピングとか。

どうでも良いことなのですが、酔っ払ってろれつが回らなくなる人がいるように、僕は酔っ払うとタイプミスが増えます。

くすっ!

それから、僕はk/g, p/b, t/d, s/zなど、無声音と有声音で打ち間違えることがあって、これは音声的に処理しながら筆記言語の表象に影響されている稀有な現象なのではないかと思っています。

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ご近所のパン事情

アンジェ・ターブルが撤退して、antiqueが入った。どちらもパン屋さん。

antiqueは今メディア紹介が相次いでいて、主力商品の天使のチョコリングを買うために行列が出来るほど。

チョコチップとクルミの入ったパンで大きな輪の形をしている。

結構オイリーなので、たくさん食べられるものではないけれど、たまーに食べたくなるかも。出来立てすぐのほうが美味しい。

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ハナシカ

ハナシカ

それはどんな動物なのかしら

話すことのeconomic viabilityというのは(形而下の問題として)等価換算できないものだから、いつも恐ろしい問題として立ち現れる

(今人前で話をさせていただいている僕は、初舞台を踏む前に随分と落語を聞いたのである)

しかしそれで生きるひとがあり

そういうひとが死んで

はて、その人の落語は一度も聴いたことがないくせに、日曜日の夕方にいつもテレビに見た三遊亭円楽さんのことを惜しみつつ見送る

同じ日にもう一方噺家がお亡くなりになっている

そういう日だった

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