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2009年10月

人生はマジック

ベッケルの詩とか読んで、「きゃはー!恥ずかしいッ!」ってなってる自分が恥ずかしい今日この頃。

夏休みの宿題が終わったので、ちょっと息抜きにミルチァ・エリアーデ『オカルト事典 』など読んでみると、ローレンス・E・サリヴァンがあまりにもいいことを書いていて、息を止め、立ち止まる。

魔術は私たちに、世界が記号から成り立っていること、明白な現実がことごとく、隠された何かそれ以上のものを指し示している記号に過ぎないということを思い起こさせてくれる。(5)

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あとは書くだけ

過日ある方のお宅に伺うと、レーザープリンターが鎮座ましましていた。

「カラーで印刷することなんてないんだから、これでいいんだよ」とのこと。

ほんと、そのとおりである。インクジェットプリンターはウィン、ウィンと往還運動をして頑張ってくれるのだが、印刷量が多い人にとってはストレスフルだ。オフィスなどもモノクロ・レーザーがほとんどだと思う。

「ほんとだー」とすっかり納得させられてしまったので、帰ってすぐに僕も注文した。PPC用紙も箱で買った。

メンテナンスやトナーといった消耗品の心配もあるだろうが、印刷する量が多い人は概ねレーザーのほうがいい(コストが低い)。何よりもありがたいのは「待ち時間」がないこと。印刷されるのを待っている時間が短縮される。

環境は整った。あとは書くだけ、なのである。

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こどもはえらい!

8月末になって、夏休みの宿題が終わらないとこどもは言う。そんなの、ぜんぜんどうってことない。なにしろ、おとなは10月の末になっても夏休みの宿題が終わらないのである。僕をおとなといってよければ、の話だが。

7月のことだが、「10月の終わりまでにこんなテーマでこういう文章を書きます」という約束を交わしていた。それが、この時点で書き終わっていない。とても困っている。

こどもはえらいなあ、とつくづくおもう。立派なおとなになるはずだ。

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心のささえ

君に届け』を心のささえにして、毎日生活しています。

いいなあ。ほんと、いいなあ。

予定調和もなんのその、すべて丸く収まる完全な物語を(スペイン語で「丸い」は「完全な」と同じ形容詞)、僕は欲していた。日本中で胸がキュンとなる人、続出だと思う。

爽子と風早。いいなあ、高校生って。僕はそんなにキラキラした高校生活を送ったわけではないけれど、それでも強いノスタルジをおぼえながらその時代のことを振り返る。「現在に不満があるから?」という斜に構えた意見もあるだろうが、僕は大体どの瞬間も崖っぷちなので、遠く過ぎしものを安堵をおぼえて見守る、というのに近い。分かるかな、サブライム美学。

漫画だから出来ること、アニメだからできること、それぞれあると思うし、どちらもそれぞれにいい。アニメは背景とか、ささやかなカットが秀逸。漫画のフキダシ以外の台詞(写植ではなく、作者が手書きでいれているような)も見事に拾っていて、「ああ、これは作っている人がまず大ファンなのかしら」、と思う。オススメです。

12月にはDVD も出る。きゃあ。

Production I. G.関係では、11月には『東のエデン』劇場版総集編、来年1月には物語の続き。冬は楽しみがいっぱい。

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オリオン座流星群

10月21日から22日、オリオン座流星群が観測されるみたい。つまり、今日とか明日ですね。僕は最近就寝時間がとても早いので、早朝にトライするつもりです。肉眼で見えるそうです。

グッドラック。

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フェアネス

ガルシラソ・デ・ラ・ベガの詩をぱらぱら読んでいる時に、その方のことを思い出した。

外国語文学研究というのはつねに専門家が足りない領域があって、そういう空白を埋められる人材こそ望まれているのだけれど、そういうところには人が来ない。むしろ話題性と人気のありそうな作家なり作品を研究したい(辛口なことを言えば、「○○を研究してる」と言いたい)人がたくさん集まる。結果として必要のないところで飽和して、必要のあるところで閑散としている。コツコツと地味に努力をしている人の実力を、理解することさえ出来ない人材ばかりになる。ほかの人が立ち向かわない分野に敢然と挑む人がいるならば、関係者は全力で応援してやるべきだ。それが「誠実さ」だと思う。そして、現状はひどい。「この人には沢山教えていただくべきことがあったのだろうな」という方が何人も何人も、姿を消していった。

フェアじゃないんだ。

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医療系

生兵法は怪我の元というありがたい言葉が世の中にはあるけれど、最近はインターネットを通じて病気だのの情報を集めることもあり。

何年か前に慢性活動性EBウイルス感染症が疑われて、その情報を集めているうちに絶望的な気分になった。その時は病院で検査をした後だったのだけれど、結果が出るまで随分怯えた。あるいは、家庭の医学式のものを呼んでいると、すべて自分に該当しているような気がしたり。

とはいえ、だ。専門家がきちんと情報発信してくれているサイトは、大変ありがたい。そういうサイトは「(これで分かったつもりにならないで)ちゃんと診療してもらってね」というメッセージを発している。うんうん。

そんな中からオススメを、いくつか。

+獣医のペット病院ウラ話!?

・・・ビーグル獣医のペット情報サイト。タイトルを見ると病院事情みたいに見えるけれど、いやはや奥が深い。知識もそうだが、大変楽しめる内容。お気に入りは「きゃどっく」の話。その他、ビーグル獣医の人柄が好き。

ゆうメンタルクリニック

・・・マンガのクオリティが高すぎる。

ドクター林のこころと脳の相談室

・・・こちらはちょっとシリアス。「精神科Q&A」には背筋の寒くなるような症例もあって、その意味で特殊なファンも多いのだけれど、いつも的確な診断がされているように感じられる。

注意:僕ごときが言うまでもないことですが、不安があるなら専門機関へ行くのが絶対正しいです。読み物として、ぐらいにお考えくださいませ。

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マリオ・オナインディア『スペイン・ネイションの構築』

秋冬は僕にとって積極的に人に会いたい季節なのだけれど、ただ今足元で面倒なことがいろいろあって、なかなかそうは行かない。非常に残念。そういうときにひとつでも心を挫くような出来事があると、ほかの事柄にも悪い影響が伝播しそうで、そうなるともう寝るしかない。

面白い本。

Mario Onaindía. La construcción de la nación española. Barcelona: Ediciones B, 2002.

『スペイン・ネイションの構築』という本(17.5ユーロする本ですが、なぜか6ユーロで売っています)。著者は元ETA(バスク祖国と自由)の闘士。今は引 退して、けれどナショナリズムやバスクの問題を熱心に研究している。この人のすごさはその理知というか、論理でETAの抱える問題点を洗い出す姿勢がある ので、ただただ「独立だー!」と叫ぶ人より説得力がある。

この本には副題がついておりまして、Republicanismo y nacionalismo en la Ilustración(啓 蒙主義における共和主義とナショナリズム)という。中心的な題材は演劇、それも悲劇。この辺も僕とスタンスが非常に似ている。ただこの人は学生時代からこ の問題を取り扱っているようで、僕より年季が入っている。学者肌であるし、作品の解釈や分析にも面白いものが多くある。

長所でもあり、短所でもあると思うのだけれど、この人がバスク問題をめぐって持っている理想というのを確認しておくと、異質な要素を寛容に受け止め られる政府が必要とされている。その混交性を認める政府のビジョンが(彼によれば)啓蒙時代の演劇に如実に表されていて、後のカディス憲法にも反映されて いる、というのが彼の主張。結局すべての議論をここに着地させるために、かえって説得力を欠く箇所が結構沢山ある。

それがユニークさにもつながるわけですが、たとえば彼は絶対王政の時代に、しかし貴族の振る舞いこそが非常に重要だと言います。まあ、それはチーム としての政府としては当然なのだけれど、彼にとってはそこで身分の混交が生じる。それが理想的な政府である、と。でもバスクに関して彼が示す共和主義は水 平に広がる共和主義だというのに、ここで取り上げられているのは身分の、垂直な共和主義に他ならない。縦の共和、あるいは混交についてはマラバールも演劇 がブルジョワジーの社会的包摂に大事な役割を果たしたと指摘しているし、ほかでもなくここでネイションという言葉を使った。だから見当違いではまったくな い。ただ、18世紀と20世紀の往還はちょっと突飛にすぎる、苦しい。混合した政府という表現が何度も、共和主義という言葉が何度も。そしてモンテス キューとティトゥス・リヴィウスの名を連呼。背景の整理と演劇の社会的政治的役割に関する考察が的を射ているので、あまりにも惜しい。彼自身も引いているマウリツィオ・ヴィローリは 「十八世紀の共和主義は、これまでに強調されてきたようにギリシャ・ローマ時代の観念に立ち返る場合も時折見られたが、それよりもさらに、絶対主義に対し て政治的、軍事的に対抗するという、具体的な経験の結果であることのほうが多かった。」(マウリツィオ・ヴィローリ、『パトリオティズムとナショナリズム 』)と書いているけれど、そのあたりどうなんだろう。スペインなど、かなりこれを牽制したのではないか?

もちろん、これは僕の立場からすれば、という意味での不満でしかない。共和主義を啓蒙専制君主と並存、そして叶うことならば存続させようという政治 家たちの手腕にこそ凄さがあると思われるが、一方で啓蒙主義者がそこまで共和主義を信奉していたかどうかは判断できない。理念の上では(モンテスキューを 読んだりしていたら)たぶんそうなんだろうけれど、res publica(民衆のもの、つまり共和国)という言葉の難しさっていつもそこにあって、これを議論する人はもう民衆としての立場から語っていないエリー トであることが多い。たとえば、日記の記述などから察するにホベリャーノスは民衆を愛してはいるけれど、民衆と貴族の身分をきちっと二分している。共和主 義を推し進めると、この垣根を取り下げることにならないか?しかしどうやって?間に緩衝材としてブルジョワジーが入るといっても、ブルジョワジーは「自ら そこに入る」ことはなかなか出来ないだろうし。それが出来るようになるにはカルロス四世のある決断を待たなければいけないのだが、そのとき悲劇はもはや・・・。

何はともあれ、力作。文章は平易。結構手軽に18世紀演劇を勉強したい人におすすめ。18世紀スペイン演劇に関する基本的な研究書は本書の他には

Andioc, René. Teatro y sociedad en el Madrid del siglo XVIII. Madrid: Castalia.
Pérez Magallón, Jesús. El teatro neoclásico. Madrid: Ediciones Laberinto.

あたりということになる。え、三冊だけ?そうなんです。まだまだやるべきことが沢山ある気がするでしょ(John Cookという人が英語で書いた研究書もあるのだが、入手が割と困難)。

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届く言葉/届かない言葉

週に一度、ある場所でスペイン語を教える仕事をさせていただいています。ありがたいことです。さて秋になって大学が始まり、そちらも再開したのですが、まず声の出し方をよく覚えていなかったり〔授業用の声というのがあります〕、なかなか学生の目を見て話すようなことが出来なかったりして、自分でも不甲斐ない。届かない言葉で話しかけられても、何も伝わらないのだし、ましてや何かを学んで帰ることは出来ない。これは明らかに僕の側の瑕疵です。そろそろ調子を上げていかなければ、と反省すること頻りです。学生は平然としているのに、声を張り、教室の中を歩き回っている僕はハンカチが手放せません。

授業は一回90分で、その中で完結している必要があり、考えようによってはショーとしての要素があります。教壇は舞台、受講者は観客。美輪明宏さんはお芝居についてこんなことを話したことがあります。

そして劇場の空間の処理のしかた。五百人の劇場、千人の劇場、千五百人の劇場と、その劇場に応じて役を演じるときの目線の位置が変わります。声の出し方、張り方、そしてアーチキュレーション、つまり歯切れよくしゃべって大丈夫かどうかも変わってきます。(美輪 146-47)

場所場所によって臨機応変に対応する必要性は明らかです。それから、もっと僕が「大切だなあ」と感じることがあって、

舞台に登場する、そのことだけでも難しいのです。素人さんが何も考えないでその舞台の上にのこのこ出てくるのは、登場ではなく「出てくる」だけなのです。登場というのは「出たっ!」という感じがすること。それはどこが違うのか。まず呼吸法です。息を吸っておいて、ためて、それでふわーっと吐き出す間際に幕のところから出てきてふわーっと空気を吐き出す。それと同時に、額に第三の目というのがありますが、ここからテレパシーやエネルギーや式をお客様一人ひとりの受信機にふわーっと出すのです。自分の意識がぱっと三回のてっぺんの席のお客様の受信機にも届くように、ぶわーっと出す。つまり、念力の操作です。そうすると、その役者さんがどんなに小柄な方でも舞台いっぱいに見える。大役者に見える。(美輪 145)

ほんと、これにつきる。精神論の演劇指導みたいで随分時代遅れに見えるかもしれないけれど、たとえば自分が芝居を見に行ったら良い役者さんというのは大きく見えるのですね。そういうこと、だと思う。登場するだけでも難しい。その舞台に立っている資格を証しながら授業をするのは、もっと難しい。

まだまだ勉強することはたくさんあります。届く言葉で、届く声で、愉しい授業をやりたいものです。

美輪明宏『人生・愛と美の法則 』NHK人間講座テキスト、2005.

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秋、こころの準備。

読む書籍が英語ばっかり、という人ならばいいかもしれない。Kindle。今後ますます電子出版物の重要性は増していくだろうし、そうだからといって我先に、と一番に名乗りを上げる必要があるはずもないが、こういうものが出てきているということを知っているだけで、なんとなくこころの準備が出来るような気がする。

秋になれば文をしたためることが多く、そうした場合に実際に手に筆を取って書くということになる。その段になって、普段まったく文字というものを書かないで一日を終えることさえあるという事実に慄然とする。これはなにも、文字を書かないということを反省したり、嘆いたりしているのではなくて、その必要がなく一日一日を送ることが出来るという、単純な驚きである。

金木犀の香りに導かれて坂を下って降りると、美しい色に染まった柿がなっている。木の上で赤く熟している実と、道路に落ちてひしゃげた実。どちらも同じように風情がある。心を騒がせるように遠くでカラスが鳴いていたが、空の青さを見ていたらそのざわめきもなりを潜めてしまうようにおぼえた。秋だ。

いろいろなことにそろそろ、心の準備をしなくてはいけない、と思う。誇張で無しに残り時間のほうが少なくなった今、もう読める本の数は限られているし、とすれば読むべき順番も決まっている。このところの習慣として、朝起きてはじめにすることは、その順番に狂いが、間違いがないかということを確認することになっている。怠惰な性格ゆえに、予定よりも読み進まずにその日を終えてしまうことが多い。そして読んだものを忘れていくのは早い。悲しいけれど、そういうふうにできている。

時計が日付を跨ぐ頃、小さい時分には関心がなかったのに、空を眺めて星の名前や、そこに描かれる星座のすがたを実際に指でなぞってみたりすることがある。名前ばかり知っていた、シリウスだのアルデバランだの、そういったものが僕の中にきちんとした知識として定着するのに30年かかった。

秋だなあ、と思う。

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10月スタートのアニメ。

じっくり見るとまったくそんなこともないんだけど、今放送中の『戦う司書』のキャラクターが『シュヴァリエ』に似てるな、と思った。それぞれ追求している要素は違うのだが、ひらひらしてる衣装のせいか。

割と多くの作品をチェックしているけれど、どれも既視感があって、これはすごいという驚きをもたらす作品にはまだ出会っていない。

直球ながら精彩を放っているのは、『君に届け』だと思う。漫画 も好調。アニメは絵が平板ながら好きなタッチ。背景とかで好きになるアニメもある。

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連続テレビ小説『ウェルかめ』がおもしろい

あたらしいNHKの朝の連続テレビ小説『ウェルかめ』がおもしろい。 僕はすべてのドラマを見ているわけではないけれど、関西の放送局が作るものを好んでみている。『ちりとてちん』や『芋たこなんきん』、『風のハルカ』など大層面白かった。

さて、第一週は子供時代の主人公の話だったが、今大人(倉科カナさん)になって本格的に物語が動き出そうとしている。楽しみで仕方ない。

ところで、主人公の幼馴染、笹原綾(田中こなつさん)が可愛すぎるのは一体どうしたことか。困る。本当に困る。

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sky high

sky high

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街は思ったより海に近いところにある
忘れられないことを忘れさせるために
僕が一人で歩き始めた日から
ずっとこの場所を知っていたようさ

荷物は少ないがとりあえずコーヒーでも飲もう
余裕があれば誰かに手紙を書くのも良い

過去も遠いが未来も遠い
見えないものばかりが大切なものさ
たとえれば このスカイ・ハイ
願うばかりで祈るばかりで
優柔不断はなおりそうもないな
問わざれば このスカイ・ハイ

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思い立って、古い音源を上げてみる。1997年に作り、2001年に録音したものを、2009年に聞いてみる。僕は1997年に大阪で一人暮らしを始めた。卒業まで随分面白い目に遭ったが、中でも住んでいた場所が面白かったし、そこにいた住人達が面白かった。さて、その場所にたどり着いて一番最初に作った曲がこれ。僕には珍しい8分の12、最初と最後のメロディは「後戯」という曲の冒頭にも現れる。2001年の『Funk Pops @ Roll』というCDに入っている曲で、こちらが9曲目、後戯が10曲目なので繋がっているように聴こえる、はずだ。

思えば遠くへ来たもの。以下無用のことですが、最近の録音には次のようなものがあります。CTRLを押しながらリンクを押すと便利かもしれません。

まにまに(長め)

retroactive

kinks and knots

blue in blue

sillicon ballet

足元に流れる深い河

すてきな朝ごはん

春には春の花を

sad lily

ESCAPE(demo)

まにまに (demo)

riplp

少女ガール

Undercurrent

marie

未来

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物語の回収/『マリア様がみてる』について

 僕が『マリア様がみてる 』をこよなく愛していることについては、幾度となく書いてきたことだから繰り返さない。アニメーションから入ったが、原作も殆どのエピソードを読んでいる。そこで思うのは、この長大なリリアン・サーガ(それは三つの薔薇ファミリーの歴史)における、物語の回収の見事さである。そのあたりは、アニメーションで表現されていない、といえばそんなこともない。説明なくポンと片が付いていることもあるので、原作をよく知っている人には理解できるし、僕のように後になって原作を読んだ人間には「ああ、そういうことだったのか」と思われる(予告編とかも重要!)。小道具やちょっとしたひとことが進行する物語の中で(時にはいくつもの巻を跨いで)解決を与えられるのは、大変嬉しい。読む側も、この結構が推理小説と同じことを弁えた上で読む。
 また、サイド・ストーリーというか、本編ではそれほど光の当たらなかった、しかし魅力的な脇役達の素晴らしい活躍もある。たとえば、写真部の武嶋蔦子は第一話(無印と呼ばれている)から一貫して登場しているが、彼女を中心に据えるということは案外難しい。なぜなら彼女は常にレンズを覗く側にいるので、観察者に近い場所から、リリアン女学園の生活を見ているからである。その意味で『フレームオブマインド 』、『キラキラまわる 』で彼女がかなり前面に現れていたことが嬉しかった。
 視点の移動も素晴らしい。物語をどの視点で描くか、ということは結構大事な問題で、同じ事柄を違う視点で語れば二つの経路の違う物語が出来上がる。アニメ版でも聖と志摩子の出会いはそのような手法で描かれているが、語り手のスイッチングを非常に意図的、そして効果的に使用している。
 結論はいつもと同じ。大好き。第4シーズンで瞳子ちゃんが祐巳と姉妹になりました。一方、原作では『ハローグッバイ 』(怖くて読めない)で祥子さま達が卒業していく。ということは、第5シーズンで、追いつきアニメ版は完結ということになるのだろうか。

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まにまに(ちょっと長め)

まにまに
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君の背中に空を見上げてた
決着はすでに着いている
失うよりずっと前に君は
僕の心を連れて旅に出た

知らない街の懐かしい場所も
懐かしい街の知らない場所も
素敵なものに出会えばいつも
「君に見せたい」と言ってくれた

パリで会いベルリンで別れた
春の雪をキャンベラで眺めた
風の速さに目を細めては
移ろう時に耳を澄ます

それは果てしない波のまにまに
あなたの声を聴くように
とめどない憧れだけで
どこまでゆけるかな?
終わらない雨に打たれて
あなたが愛を知るように
重ねる別れのあとで
途方に暮れるんだ

君の手紙を待ちわびて僕は
行き先も決めず旅に出た
冷たい風にコートの襟を立てて
次の列車に飛び乗った

人気のない避暑地の駅で降り
葉を落とした白樺の木立を
はじめて訪れる場所ではない
錯覚を覚えて歩いた

僕ならば変わり映えもせずに
日々のことを音楽で紡いで
いつかどこかで 君に会えたら
聴かせたい歌ばかり積もる

枯葉のざわめきの中で 
流されてしまうのに
まばたきの後に
君を見つけ出すんだ

声はいつも心に留まっている

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過日デモを掲載した「まにまに」という曲、僕にしては珍しく二番まで作って、違うギターに持ち替えて歌ってみる。どうでもいいことだけれど、日本語の歌でキャンベラが出てくることってあまりないよね。キャンベラはCanberraと綴って、両唇破裂音(pやbという子音)が来る時通常mになる「ン」の音が、nであるという稀有な例である。英語が出来る人ほど綴りを間違えやすい厄介な単語。まあ、地名だから。雪が降るのかどうか、知らない。多分滅多に降らないはず。

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