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ライトノベルの話をしようか

標題に比べちょこっと堅い話からスタートするのだけれど、いつもの通り、すぐ柔らかくなるのでしばらくおつき合いください。

Alonso Santosというスペインの批評家は1990年から2000年にかけての国内での文学潮流を幾つかのカテゴリーに分けている。これが既存の枠組みより柔軟な分類なので興味深い。その中にNovela lightというのがあって、これは日本でも「ライト・ノベル」といわれているジャンルがあるけれど、同じようにネガティブな含意が与えられたカテゴリーなのだろう。次のような作家の名前を挙げている。

-Manuel Vicent
-Almendra Grande
-Antonio Gala
-Arturo Pérez Reverte
-Maruja Torres
-Rosa Montero

よく売れる作家や文学賞を受けたりしている作家も含まれているので、日本のライトノベルとはちょっと違うと思うけれど、大衆的な文学作品がここに含まれているらしい。

映画にもなったManuel VicentのSon De Mar という作品は、まあ大したことない話ではあるけれどホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにしていて、そこにパラレルなプロットをありありと感じさせる。

さて、ホメロスを下敷きにして今文学を書こうという人はどれくらいいるのでしょうか?これはひっくり返すと「ライトノベルが文学を取り込んでいる」事象を端的に表してはいないか?

ライトノベルの書き手といわれていた人たちが、いわゆる純文学の賞をとったりすることが続いて、日本でもスペインでも似たようなことが起こっているのではないか、と思っている。とりわけ、クラシック(古典)をアーキタイプや根幹として取り入れることにより積極的なのはライトノベルのほうだったのじゃないか?

テレビアニメも二期が準備されている、あの大人気シリーズは単純なボーイ・ミーツ・ガール譚というよりSFやミステリへの壮大なオマージュとなっているし、読書への深い愛に貫かれている。純文学とて聖域ではない。『”文学少女” 』シリーズは文学への恰好の案内書となっているばかりか、読解の手引き、果ては批評の現場になっている。

「太宰の『人間失格』は、『はしがき』と『第一の手記』『第二の手記』『第三の手記』『あとがき』から構成されていて、当時、雑誌『展望』に六月号、七月号、八月号の三回に渡って連載されたわ。物語のプロローグである『はしがき』と、主人公葉蔵の幼少時代を告白した『第一の手記』が掲載されたのが五月。そのおよそ一ヶ月後の六月十三日に、愛人の山崎富栄と玉川上水に身を投げたの・・・」

(中略)

「太宰の作品は、まるで作者自身に語りかけられているような親近感と臨場感があるの。イスカリオテのユダを題材にした『駆け込み訴え』なんか口述筆記で、あれだけの文章をほとんどつっかえることなく立て板に水状態でしゃべりっぱなしだったというからすごいわよね。この潜在的二人称が生み出す太宰の最大のマジック。それは、作者と作品への”共感”よ」(野村美月『”文学少女”と死にたがりの道化』)

文章の巧拙は文学の関心事だから、別にこれらをもって今ある文学を刷新せよ、というわけではない。ただ、専門家が鹿爪らしい顔をしている間に、実際の受容者は古びたステレオタイプから離脱して、新しいパースペクティヴへと放り出されている。

文学のいいところは、歴史として並べられることで、まあこれによって「教室で教えるのに最適なフォーマット」を獲得するわけだけれど、批評の現場というのはそういうことだけに拘泥していない。ましてや、衒学と建前に無縁な読者が自らの嗅覚に従って、しなやかかつ敏捷に新しい作品を見出していくならば、専門家とマーケットのどちらが出遅れているかは自明なのだ。

繰り返すけれど、ライトノベルで文学という慣習上そう呼ばれているものは駆逐されない。しかし、妙な棲み分けをする必要もまたないのである。日本とスペイン(そしてその他の場所)でパラレルに起こっている現象は、「低年齢向けマーケットの活性」とか「文学の質が下がった」とかそういうことじゃないんだ。「文学が読者の下に還って来た」ということなんだと思う。

えーい、御大がすべてを明らかにしてくれているではないか!

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