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2009年5月

UNDERCURRENT

5月が終わる。
5月はこんなことを考えていました。

Undercurrent

(些事であるけれど、音楽データをどのように公開するか考えあぐねていました。一つの候補としてリンク先の方法を検討したいと思います。どなたでも問題なく聴けると良いのですが。)

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ラミナ

lámina

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 歯科医院を想起させる寝台に僕は横たわっている。この部屋は無音で、白い壁紙にはパターンもない。無機質という言葉がぴったりくる。天井に照明があるが、今は午後の早い時間なので点灯されていない。どうせそこからも無機質な光が降ってくるのだろう。部屋の前面は大きなガラス窓のはずだが、白いロールカーテンがするりとのびていて、光は入ってくるけれど、その向こうにある景色を目にすることは出来ない。
 僕はサックスブルーのサマーセーターを着てそこに横たわる。この部屋に相応しい服装をしてきたかのように、一切の文字情報を剥奪されている。時計の文字盤だけが、何がしかの意味を伝達する。
静かに息を吐いて、目を閉じて、リラックスして、端々まで自分の体を思い描いて、と注文の多い指示を聞いている。その声はどこかに設置されたスピーカーから流れてくる声。けれど僕は職業柄それがボーズのスピーカーであること、この場所からは見えなかったけれど、診療台の後で目隠しになっているブラインドの奥の部屋の天井から二本吊り下げられた101であることが分かってしまう。アンプは通していない。ミキサー卓か、いやコンピュータに接続されていて、ソフトウェア上で管理されているのだろう。
「あなたがなりたいと思うものをイメージしてください」
 はたして、一般の患者が何をイメージすることが多いのか、見当もつかない。鳥だとか、魚だとか、人間ではない生き物なのだろうか。僕は自分が平べったい石の板になっているところを想像した。そのような石を見たことがあるかどうか、思い出せない。けれどそれは未開の人間達が儀式を執り行うために設えた聖壇ともいうべき場所で、その上で奇矯な衣装をまとったシャーマンが身を折り伏して祈祷する。そのような石の板。ラミナ。
 音がないせいで、僕は自分の発する一つ一つの音を聴くことが出来る。つま先を伸ばす、その筋肉の動きに従ってスラックスの裾がかすかに鳴いている。時計の音は聴こえない。デジタル時計だからだ。呼吸する胸の音、胸が上下する音。シャツとの摩擦。刺激を受けずとも顔面で緊張と弛緩を繰り返す筋肉の動く音。血の流れる音。
「あなたは高いところから森を見下ろしています」
 無機質な声がまた響く。音のインとアウトがスムーズなのは、強力なコンプレッサーとノイズゲートが効いているためだろうか。それとも、インを聞き逃してしまったのだろうか。本当に声はしたのだろうか。無から音が生まれるということがあるのだろうか。
 森はどれくらいの広さならいいのだろう。ジャングルのような途方もない森林か、それとも僕が子供時代に遊んだ家の裏の雑木林くらいでいいのだろうか。そして高いところを僕という石版は浮遊しているのだろうか。それともなにかの建造物にのってそれを見下ろしているのだろうか。やはり、多くの患者は人間以外の動物になった自分をイメージしているのではないだろうか。少なくとも、石版ではない。
 それから音が聴こえたのかどうか、覚えていない。目を覚ましたのかどうか、覚えていない。眠ったのかどうか、覚えていない。僕は石版になって高い空を浮遊し、広大なジャングルを見下ろしている。知性はまだ残っているが、覚醒と眠りの区別がよく分からない無機物になってしまった。重力法則に反して無辺際を飛ぶラミナ。時に雨に打たれ、時に太陽に焼かれながら、僕は人間その他の動物が生きる時間の短さを実感することが出来ない。生まれては死んでいく動物相と植物相も、もし瞬き出来るならそれは一瞬のことで、まして僕はすべての時間を等しく傍観している石版なのだ。
 ラミナ。僕は石の板になった。古いと新しいが共存する、一枚の板になった。

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分別

6月を前にして「はて、自分はどうしてこうも面倒なことに足を踏み込むのが得意なのかしらん」と考えてしまう。

でも本当は、生きていること自体、勝手に煩瑣なものを増大させていくことなのだ。事態は事態としてあとは気の持ちようだろう、と僕の中の分別がささやいている。

Petpottle過日とあるゴミ捨て場にて。

そうだよな、分別だよな。

でも、なんかおかしいよな。

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アルゼンチン・ウィーク

Photo

東京にセルバンテス文化センター東京という機関があって、この6月アルゼンチン・ウィークというものが開催されます。

案内を見るだけでもかなり盛りだくさんな内容で、愉しみ。それぞれのイベントは予約が必要なのだけれど、是非お足運びください。対蹠地に楽園を夢見るか、どっぷりディープな世界に足を踏み入れるか。いずれにしても楽しいことは間違いないでしょう。僕も行こうと思います。

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Im Wunderschönen Monat Mai

5月は美しい季節。物憂く清涼であるがゆえに絶望が似合う。これを魔の季節と呼んだ詩人は正しい。雪に閉ざされた冬の沈黙の重圧よりも、美しい風景と葉脈を透かして射す健康的な日差しの方が何百倍も恐ろしい。

Im wunderschönen Monat Mai,

Als alle Knospen sprangen,

da ist in meinem Herzen

die Liebe aufgegangen.

シューマンの歌曲集『詩人の恋』、その冒頭を飾るのは「美しい5月に」という曲。ハインリヒ・ハイネの詩にロベルトが曲をつけた。ロベルト・シューマンという人は当初、歌曲を好んではいなかったのだけれど、クララとの出会いを通じて旺盛に作品を書き始める。もちろん、歌曲に限らず彼の歌はすべてクララへの恋文 なのだけれど。

僕が愛してやまない曲だけれど、この曲のピアノ伴奏もまた好きで、今僕が使用しているピアノで一番最初に弾いたのはこれだった。シンプルにして歌の旋律もかなり見事に織り込まれている。

バーバラー・ボニーナタリー・シュトゥッツマン ともに素敵な録音を残している。そこに僕の稚拙な録音も添えておこうか。歌っていないことがせめてもの救いだけれど。

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葛篭折の雲の下に

古い友人はいま旅先の空を見ているはず。僕には分からないその場所から便りが届く。僕は反芻するようにある言葉を聴いている。それはえり子さんの言葉。

口にしたらすごく簡単よ。世界は別に私のためにあるわけじゃない。だから、いやなことがめぐってくる率は決して、変わんない。自分では決められない。だからほかの事はきっぱりと、むちゃくちゃ明るくしたほうがいい、って。(吉本ばなな『キッチン 』)

このことを、僕は反復して「みずうみ」という手帳小説に書いている。この列車は僕がスペインからポルトガルへと国境を越えた車両をモデルにしている。

何を選択したから正解だったのか、不正解だったのか、判じえぬこともまた多い。比べようのない場合もある。時間が過ぎて、すべてが光の中で無色になってしまうような瞬間があるならば、その価値も、それを考えたことさえも消えてしまうだろう。

これは文字通りの意味だけれど、真空恐怖を宿した饒舌は、まもなく沈黙する。束ねられた言葉の量で、真摯に藻掻くあり様を類推することは正しくないせいだ。このタイミングで便りをくれた友人に、僕が伝えたい言葉は「頑張れ」とかそういうことではない。

僕たちの人生がまた交差することがあればいいね。

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オビエドいと涼し

Oviedo_weather

日本は週末大変よい天気で暑い位だったけれど、僕の愛するスペイン・アストゥリアスは全然そんなことないみたい(画像は新聞電子版のお天気欄。こんなの見てるから勉強がはかどらないのか)。

この天候の悪さもまた、僕がオビエドを愛しく思う理由です。これくらいのパッとしない天気が僕の精神状態とパラレルでちょうどいいのです。

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Build Up!

日本建設団体連合会のHPがすごすぎる。組み合わせは自由自在!クールな建設サウンドを追求せよ!

手抜きをしてもそれなりにかっこいい音楽が作れてしまうということ。

それなのに僕が手を抜かずに作ってもかっこいい音楽が出来ないということ。

まあ、それはおいといて、ループを利用して音楽を作る感じがとても簡単に理解できます。ループ素材は有料無料いろいろあるので、ハードディスクに録音できるMTRを入手すると結構愉しむことができます。

PCをそのままMTRにできるソフトでオススメはこちら:Kristal Audio Engine

とてもすぐれたソフトウェアです。しかもフリー。しかもキレイにとれる。僕も乗り換えそうになりました。DAWに関心があるけれど手を出せない方は試してみる価値あり。

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Horacio Castellanos Moya. Desmoronamiento

群像』2009年5月号に「海外文学最前線」という特集が組まれています。スペイン語圏、ドイツ、アメリカ合衆国、イタリア、イギリスおよび英語圏、中国、ロシア・東欧、韓国のそれぞれの地域や言語の新しい文学を、その筋の第一人者が紹介!という企画。

スペイン語圏のパートは神戸市外国語大学学長の木村榮一先生が担当。ラテンアメリカ文学の翻訳者としてすぐれた翻訳をたくさんされている方ですが、最近はスペインのものへも目を向けてくださっている。ありがたいことです。

さて、モダンなものばかりを紹介するのではなく、「若い方にどうしても読んでいただきたい本ということで以下のような作品を選んだ」とお書きになっていて、これは賢明な判断だと思う。翻訳点数が多い地域の文学であれば、最新の情報を挙げることにも意味があるが、「まずは読んでくれ、それから判断してくれ!」という状況のスペイン語文学ならば、むしろ総力戦であたるべきなのです。

そうはいっても、新しい作家が随分含まれていて、必読の書と新しい作品でオススメのものを半分半分にいれたような、バランスのよいセレクションになっている(その中にはこの日記で時折名前の挙がるボラーニョももちろん含まれている)。

さて、このセレクションにオラシオ・カスリャーノス・モヤというエル・サルバドルの作家の名が挙がっている。たまたま僕も最近彼の作品を読んだので、少し感想めいたことを書いておきたい。

ところで、エル・サルバドル文学のイメージがまず分からない。場所がわからない人だっているはずだ。中米の国で、ラテン・アメリカに関わりのない僕にとって唯一気になる国でもある。なぜか?

それはね、僕がスペイン語を勉強するきっかけになったのは、あるエル・サルバドル人の友人がいたせいです。それでも、これまでの人生で、エル・サルバドルの作家が書いたものを一度も読んだことがなかったこの僕、勉強を始めて関心の対象はすぐさまスペインに移りそれから随分経ったのだと今振り返る。

エル・サルバドルという国は政治的に安定している場所ではない(なかった)、ということだけ事前の知識として持っておこう。僕の友人はオーストラリアに亡命してきた家族の出身だった。

『崩壊』という作品(Desmoronamiento, Barcelona: Tusquets, 2006)。全体は三部に分かれているけれど、それぞれスタイルが異なっている。

・第一部は殆ど戯曲のような散文。
・第二部は書簡体小説。
・第三部はある人物の回想。

まず第一部は僕にとってもっとも好きなジャンル。戯曲は神の視点から語り手が説明を出来ないため、登場人物のやり取りからしだいに状況が分かっていくものだけれど、ある夫婦の喧嘩の様子が描かれている。対話の中から読者は登場人物たちについての情報を読み取っていく。ただし、発話している人物が信用にたるかどうか担保してくれるものはどこにもない。「あれ、この人物はちょっと・・・」と思っているうちに霧が払いのけられるように物語のおかれたシチュエーションが明らかになっていく。読んでいて頭の中に演出が浮かんだりしたよ(扉で隔てられた登場人物二人とか)。

第二部は僕の一番得意とする書簡体小説だ(18世紀は書簡体小説の黄金時代だから)。書簡体小説もまたある程度書き手を信用できないものとしてかかる必要がある。なぜなら、手紙は人に読まれることを前提としているから。日記も同様に「たちの悪い」テクストなのである。ここではルポルタージュ的な報告と、個人的な感情の発露が見事に融合している。日付などに注意して読み進めたい箇所。

第三部は、第一部に登場し、第二部では直接現れはしないけれど、常に意識されていた人物の死が扱われる。そして僕はそれを大変意外に思った。そうか、この人が(実は)主人公だったんだ、と。一人の人の死が、ある家族の完全な崩壊を示しているけれど、それは政治状態に引き裂かれたものと、壊れた精神に引き裂かれたもの双方の写し絵でもある。僕はこの人物がちょっとおかしな、そして手のつけられない困った人のような気がしていたのだけれど、最後に向かうにつれて、どうもそうでは(それだけでは)なかったのだと認識を改めたりもした。

最後に向かうまでの道程が作品の凄さなので、人名を挙げられない(ネタバレになってしまう)のだけれど、内容についてはほかに口語の力みたいなものが活き活きしている。

僕はスペインにしか行ったことがないのだけれど、ラテンアメリカではまた違う方言や喋り方がされていて、それに当初戸惑いました(慣れると読めるようになりました)。

スペイン語自体は難しくないので、スラスラ読める。

物語が大変面白いので、ぐいぐい読ませる。とにかく読者の注意を切らすことがない。

そんなわけで、大変楽しみました。人生初のエル・サルバドル作家でした。

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挨拶

「しごと」は「仕事」と書くけれど、また「為事」とも書いて、要は人の「為す事」みな仕事。生きることは働くことだし、単にお金を稼いで生活をするという意味ではなく、仕事をするということ。

そういうなら職のあるなしにかかわらず誰しも仕事をしているわけですが、それはさておき職業としての「お仕事」の場で、挨拶できない人というのは困りもの。そして挨拶できない人は案外多い。これは年齢に関係がない。僕より年上の方でさえ、あたかも「挨拶をするのは損」と思っているのかしら、と勘繰りたくなる人がいるほど。老若男女を問わない。

相手が挨拶しないからこちらも挨拶しないという風には考えないのだけれど、なにかのきっかけで人に仕事を頼まなくてはならないとか、一緒に仕事をしなくてはいけないという時、僕としてはこういう人にお願いしたり、パートナーとして選ぶのは気が進まない。

これは「僕からの依頼」という視点で見た場合だけれど、逆に考えるとその人には仕事がなくなることでもある。仕事と言っても「頼まれてもやりたくないもの」から「話が来たら是非受けたい」ものまで色々だと思うけれど、双方ともに仕事は来なくなるのだろう。

挨拶をしない人は社会人どころか言語を運用する人間として(大人だろうと子供だろうと)未熟なのかもしれないし、最終的には自分にやってくる仕事を減らすことになる。それは人生を減らすことでもある気がする。

あまりにも当たり前のことだけれど、やっぱり挨拶は大切なのです。

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ノート

Apuntes

最近結構な量のノートをとる作業をしていて、そうすると使い終わったノートも増えていくわけですが、過去にメモした内容を参照したりするのに不便。人間の頭は案外時間軸上の出来事を覚えているので、あるページを開いて「ああ、これよりもっと後だ」とか思い出せるのですが、バサバサと数冊のノートを開いていくのも面倒くさい。

こんなノートが欲しくなるのも人情である。

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正直わかりません(ダイジョーブダヨ)

Pannuelosなんだ、これ?

左上にThe little adventurerと書かれていて、メガネの女の子(おでこに、ほらね)と、宇宙服のような、けれど黄色一色でそれが伝わってこない衣装を着ているネコ。顔や身体部分は白抜き。黄色とピンクとライトグリーンの三色だが、薄いピンクで塗り分けられている箇所もあり、案外芸が細かい(その反面黄色はベタ塗り)。

箒に扇風機を折衷したようなものにまたがって、つぎのセリフ。

ネコ「コワイニャー」
女の子「ダイジョーブダヨ」

どこが大丈夫なものか。

扇風機に見えるものは本当はハロゲンランプなのだろうか。

どうやって箒の先に接合されているのだろうか。

いずれにしても、これ「前に」進むのだろうか

これはポケットティッシュの表面に印刷されているのだが、誰が何の目的でこの不可思議なイラストを描いたのか(裏面には一切文字情報がない)。この二人(一人と一匹)はこれからどうなってしまうのか。

そして、一番の謎は次のもの(だと思う)。

何で僕がこんなものを持っているのか?

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携帯電話三様

Movilesスペインで使っていたもの(ノキア)を別にすると、これまで僕が使った携帯電話は三つです。左からだんだん新しくなっていって、一番右のは今使ってるの。

一番最初のものは、「カメラが付いてなくて赤いの」を探したらこれしかなかった。仕事を探していた時で、連絡先として携帯電話の番号がないと不都合だったため。仕事を始めてからも遅刻の連絡以外にはほとんど使わなかったけれど、うちのワンがアダプターを噛んで充電できなくなり、それを好機と解約。

二つ目は結構気に入っていたし長く使っていた。キルテッドメープル柄の木目のカバーでシーマのウッドパネルみたいで好き。しかも、この木目のあるほうが裏面で、開いて通話する際の手の動きがいわゆる一般の携帯電話と違う。普及しなかったことから考えて、そのデザイン特性、失敗だったのかもしれないが、よく考えると「手に取る」→「通話する」の動きからするとそのほうが正しい(家庭の電話機を考えてみてね)。

三つ目は今使っているものだけれど、薄っぺらくて軽くて邪魔にならないところが良い。「ワンセグが見れないけどいいですか」と店員さんに言われたけれど、「電話も掛けられなくていいです」くらいの心持なので・・・。

道具に過ぎないけれど、持ち歩くことが多いため(当たり前ですが)愛着が湧くものでもあります。大事にしましょう。

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ライトノベルの話をしようか

標題に比べちょこっと堅い話からスタートするのだけれど、いつもの通り、すぐ柔らかくなるのでしばらくおつき合いください。

Alonso Santosというスペインの批評家は1990年から2000年にかけての国内での文学潮流を幾つかのカテゴリーに分けている。これが既存の枠組みより柔軟な分類なので興味深い。その中にNovela lightというのがあって、これは日本でも「ライト・ノベル」といわれているジャンルがあるけれど、同じようにネガティブな含意が与えられたカテゴリーなのだろう。次のような作家の名前を挙げている。

-Manuel Vicent
-Almendra Grande
-Antonio Gala
-Arturo Pérez Reverte
-Maruja Torres
-Rosa Montero

よく売れる作家や文学賞を受けたりしている作家も含まれているので、日本のライトノベルとはちょっと違うと思うけれど、大衆的な文学作品がここに含まれているらしい。

映画にもなったManuel VicentのSon De Mar という作品は、まあ大したことない話ではあるけれどホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにしていて、そこにパラレルなプロットをありありと感じさせる。

さて、ホメロスを下敷きにして今文学を書こうという人はどれくらいいるのでしょうか?これはひっくり返すと「ライトノベルが文学を取り込んでいる」事象を端的に表してはいないか?

ライトノベルの書き手といわれていた人たちが、いわゆる純文学の賞をとったりすることが続いて、日本でもスペインでも似たようなことが起こっているのではないか、と思っている。とりわけ、クラシック(古典)をアーキタイプや根幹として取り入れることにより積極的なのはライトノベルのほうだったのじゃないか?

テレビアニメも二期が準備されている、あの大人気シリーズは単純なボーイ・ミーツ・ガール譚というよりSFやミステリへの壮大なオマージュとなっているし、読書への深い愛に貫かれている。純文学とて聖域ではない。『”文学少女” 』シリーズは文学への恰好の案内書となっているばかりか、読解の手引き、果ては批評の現場になっている。

「太宰の『人間失格』は、『はしがき』と『第一の手記』『第二の手記』『第三の手記』『あとがき』から構成されていて、当時、雑誌『展望』に六月号、七月号、八月号の三回に渡って連載されたわ。物語のプロローグである『はしがき』と、主人公葉蔵の幼少時代を告白した『第一の手記』が掲載されたのが五月。そのおよそ一ヶ月後の六月十三日に、愛人の山崎富栄と玉川上水に身を投げたの・・・」

(中略)

「太宰の作品は、まるで作者自身に語りかけられているような親近感と臨場感があるの。イスカリオテのユダを題材にした『駆け込み訴え』なんか口述筆記で、あれだけの文章をほとんどつっかえることなく立て板に水状態でしゃべりっぱなしだったというからすごいわよね。この潜在的二人称が生み出す太宰の最大のマジック。それは、作者と作品への”共感”よ」(野村美月『”文学少女”と死にたがりの道化』)

文章の巧拙は文学の関心事だから、別にこれらをもって今ある文学を刷新せよ、というわけではない。ただ、専門家が鹿爪らしい顔をしている間に、実際の受容者は古びたステレオタイプから離脱して、新しいパースペクティヴへと放り出されている。

文学のいいところは、歴史として並べられることで、まあこれによって「教室で教えるのに最適なフォーマット」を獲得するわけだけれど、批評の現場というのはそういうことだけに拘泥していない。ましてや、衒学と建前に無縁な読者が自らの嗅覚に従って、しなやかかつ敏捷に新しい作品を見出していくならば、専門家とマーケットのどちらが出遅れているかは自明なのだ。

繰り返すけれど、ライトノベルで文学という慣習上そう呼ばれているものは駆逐されない。しかし、妙な棲み分けをする必要もまたないのである。日本とスペイン(そしてその他の場所)でパラレルに起こっている現象は、「低年齢向けマーケットの活性」とか「文学の質が下がった」とかそういうことじゃないんだ。「文学が読者の下に還って来た」ということなんだと思う。

えーい、御大がすべてを明らかにしてくれているではないか!

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