« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »

2009年3月

ある美しいアリア

 

ある美しいアリアを冬の光の中で聴いた。
公園には噴水がある。
水の流れる音が好きだ。
だから、人と待ち合わせる時にこの場所だと、とても嬉しい。

荒々しくなく、刺々しくなく、優しい緑が好き。
無関心と無造作の中間くらいで、枯れても凛としている芝生がいい。
子供が転んでも平気。
大人が寝転んでも平気。

誰かがヴァイオリンを弾いていた。
そうではなくて、頭の中で誰かがエチュードを弾いていたんだ。
空を掻く建物も、弱々しい陰になって沈む夕方。

雨が降り出して、水びたしになってもおかまいなし。
突然に、誰もいなくなった公園。
アリアは途切れることなく時間をなぞっていく。

Greenscape_2

|

サマータイム

EU圏は横に長いのに、結構標準時が同じで驚く。スペインからフランス、ドイツ、そのずっと向こうくらいまで「中央ヨーロッパ時間」という。国によっては暗かったり、明るすぎたりだと思いますが、スペインは割りといい時間割です。夜が明るくてさ。今年のサマータイムだと、スペインは3月29日に時計を一時間進めて、10月25日に1時間戻します。

|

ペドロ・アルモドバル最新作!!!

先にオスカーを受賞したペネロペ・クルス(Penélope Cruz)。日本でも人気の高いスペインの女優。ただ、受賞した作品については、そこまで素晴らしい作品だとは思わなかった。ペネロペはもっと良い映画たくさん出ているのに・・・。

そう、ペドロ・アルモドバル(Pedro Almodóvar)の新作映画にもバッチリ主演している。ウディ・アレンには悪いが輝きが違うよ、輝きが。新作映画は壊れた抱擁(Los abrazos rotos)』という作品。映画の内容に基づけば『最後の接吻』でも良いかもしれない。

映画についての映画をメタ映画と呼ぶことにしよう。これはまさにそのものといえるだろう。

盲目の脚本家ハリー・ケイン、アイディアを持ち込んでくる謎の青年、とある知人の死、かつて愛した女性、映画を作ること、映画を見ること、そして生きること。過剰なまでに詰め込まれた主題、現代的なテーマ、美醜混淆、映像美学のバロック。たとえば視覚障害者の生活ひとつとっても、冒頭から観客の頭にガツンと一撃。階段を降りるシーン一つとっても溜息が。

アルモドバルの作品で僕は『ボルベール』がとても好きなのだけれど、本作も素晴らしい出来だと思いました。映画好きな人も、映画なんて大嫌いだという人もおすすめ。

注意。アルモドバルはスペインを代表する映画監督だけれど、スペインの典型的な映画監督ではありません。一人だけぶっ飛んでいるので、アルモドバル作品が好き、嫌いというだけでスペイン映画を語っても意味がないのです。

きっと日本にも行くはずなので、『それでも恋するバルセロナ』でいまひとつ期待を裏切られたら、こちらで口直しをしてください。7000倍面白い。

つまらなかったら僕に文句を言ってくれて結構だ。

払い戻す覚悟はある。

|

雨のペイシェンス

Patience of the rain

--
 耳の奥に声がすべり込んで、反応するまでの遅れが気づかれる前に、僕は態制を立て直そうと試みる。何度も繰り返された経験のような気もするし、そうでない気もする。窓枠の向こう側を色とりどりの傘が通り過ぎてゆくのに、ストップモーションのような視覚でしかそれを捉えられない。檻の中の動物達は、あるいはこのような景色を毎日見ているのかもしれない。話を聴いていないと思われるより前に、気の利いた相槌を口にしなくてはいけない気がする。そんな必要がなかったとしても、そうしたかった。生きていることに関わる数多の義務は、目的のない意地を張ることに依拠しているのだと思った。どこでそんなことを覚えたのだろう。
 目の色が変わる。僕の様子がおかしいことに君は気がついている。でも、気がつかない振りをしてくれている。何度となくその優しさに救われた。いつのまに飲み物が運ばれてきたのか思い出せない。いつ飲み物を注文したのかも思い出せない。白い器から湯気と心を落ち着かせる香りがただよってくる。大丈夫、落ち着けばいい。思い出すことは出来ない。いつからこうなってしまったのか、何が原因なのか。原因が分かったとしても今ではどうすることも出来ない。そのことだけが確実だ。
 悲しいけれど、確かなことがある。何も信じられなかったり、頼ることが出来なかったり、あるいは僕のようにほんの少し前のことを思い出せなかったりという不安定さの中で、その確かさは絶望が星となったように輝く。それはきっと北極星のように、すべての星の旋回をただじっと見守っている。悲しいけれど、確かなものがあるということは、生きていける支えになる。かつて星が航海者の道しるべであったように。
 昔のこと、まだ小さかった頃のことは無理なく思い出せる。生活の習慣も僕の中に根を下ろしている。シャツの置き場所がわからなかったり、時計のはめ方が分からなくなることはない。ほんのわずかの瞬間で僕の記憶は寸断される。もしかすると、忘れてしまったこと自体を思い出せないのかもしれないけれど。会話をしていて、何の会話をしていたのか分からなくなる。ミルクを注いでいるのに、そのこと自体を忘れてしまう。数秒間の記憶が欠けることもあれば、今その時に起こっていることを認識する前に忘れてしまうことがある。
 一番最初に異常に気がついたのも、やはり君だった。僕はそのことを覚えていないけれど、君が僕の病気のことを記したノートにそう書いてあった。会話の途中で、なんども途切れ、何度も同じ事を話すようになった。初めはからかっているのだと思ったけれど、あまりにもそれが繰り返されることに君は不安を覚えて、僕を病院へ連れて行った。覚えていないけれど、ノートにそう書いてあった。それを僕は何度も復唱する。声に出さずに復唱する。なぜだか、忘れてはいけないことのような気がするからだ。けれど、忘れてしまったとしても僕にはそのことさえ思い出せないのだろう。
 僕は車の運転が出来ない。僕は本を読むことが出来ない。けれどそんなことはささやかな不都合でしかない。そして僕は君が誰であるかを覚えている。君はずっと僕のそばにいたので、僕の記憶の中に留まってくれた。
 欠落していく記憶の中で、流れすぎる時間の中で、アスファルトを濡らす雨は地面に突き刺さる白い糸のように見えるだろう。天空と地上を結ぶ幾千もの柱のように見えるだろう。
 多かれ少なかれ、僕達はすべてを忘れてしまう。そして僕達はすべてに忘れられてしまう。地上から消えて、僕達を記憶していた人たちもすべて消えてしまう。だから、忘れることは悲しいことではないのだ。目の前に君がいて、心配そうな目で僕を見守る君がいて、悲しいことなど何もないのだ。
 いつのまにか、飲み物が運ばれて来ている。

|

Roberto Bolaño. La universidad desconocida

最近詩集を読んでいる。

部屋の窓際で。公園のベンチで。眠る前のベッドの中で。

ロベルト・ボラーニョ(Roberto Bolaño 1953-2003)のLa univerisidad desconocida という詩集(Barcelona: Anagrama, 2007.)。『知られざる大学』と訳していいのかな。ボラーニョ自身「すべての作家の成長においてその歩みを導いてくれる、知られざる大学があると思う。固定された本部などない、移動可能な大学なんだけれど、皆に共通している。」と書いていた。

僕は詩をそんなに読まない。いや、読むんだけどそれは韻文劇が詩の形式に則っているからで、いわゆる詩は読まない。なので、ボラーニョの死後出版された詩集を手に取ったのは、偶然で気まぐれ。

ボラーニョについては、以前Los Detectives Salvajes という小説を読んだ。確かに凄い小説だと思うのだけれど、これといった結末があるわけではない。そんなわけで、「これが今年最高の作品だ」と思ったりするほど感銘を受けたわけではない。一方で、50歳という若さで、しかも生前にはそれほど高い評価も受けることなく亡くなってしまった作家自身の伝記的な事実に心動かされてしまった僕は、およそ文学研究者としてはダメなんだと思う。ダメで結構。

この長大な小説は、メキシコのある詩人グループをめぐる一大群像劇で、一応は一人の女性詩人を探すという大きなプロットがあるのだけれど、このグループの中の人々の個々の事情なり、とにかく書き分けが見事になされている。インタビューの形式を取っているので、それぞれの人物の発話の断片が連続している。それを大量に読んでいるうちに、たしかに文章の大きなうねりは生まれてくる。

でも正直「よく分からないな」という感想を持った。スペイン語はそんなに難しくないのだけれど、メキシコ方言など全く分からない僕には、「ん?」という箇所が多かったし。

けれども、それよりもっと大事なことには、メキシコの20世紀の詩をめぐる事情が分かっていないとこの作品は楽しめないんじゃないか、と感じた。だって実在の人物、批評家や詩人、作家が入り乱れて登場するというのに(中にはスペインの作家も出てくる。これは僕にも分かる)、その文脈を欠いていたらどう評価していいかわからないじゃないか。

そう思っていた。

そして今ボラーニョの詩集を手にとって見ると、それだけでは不十分だということが分かった。

この人、詩人になりたかったんだ。

ああ、こんな簡単なことさえ気付くことができずに、長大な小説をやり過ごしてしまった自分。そう、ボラーニョは詩人になりたかったのだ。そして、生前殆どの出版社から相手にされずに過ごしたのだ。この悲しみが、悔しさが結晶化した作品、それがLos detectives salvajesだったというのに。

ボラーニョの死後、遺族の手によって出版されたこの詩集。しかしボラーニョ自身は1993年の時点で一応の区切りをつけているらしい。全頁に先立って次の文章。

僕の文学遍歴

アナグラマ、グリハルボ、プラネタ、そして当然アルファグアラとモンダドーリに撥ね付けられる。ムクニック、セイス・バラル、デスティーノからもノーと言われ・・・。すべての出版社から・・・。すべての読者から・・・。(以下略)

アナグラマ以降の固有名はすべて著名な出版社の名前。兎にも角にも、色よい返事を一つも得られなかったこの苦悩は、詩集の冒頭を飾るには重過ぎる。

実はこの「文学遍歴」だけでさえ、先のLos detectives salvajesの中に似た箇所があったことを思い出すのだけれど、そのほか同作品の中で描かれていたバルセロナの暮らし、キャンプ場での話など、いくつもの断片が明らかに存在している。そもそも、小説の中で追い求めた女性詩人の唯一の作品として現れる落書きさえ、「海」(204ページ)としてここにしかと残されている。

追いかける詩人、追いかけられる詩人。どちらも自分だったのだ。

それを分からずに読んでいた自分に、途方もなく腹が立った。

|

A pocketful of Rainbow

大幅リニューアルの『交響詩篇 エウレカセブン』公式サイト。

映画『ポケットが虹でいっぱい』に関する情報が少しずつ増えていくにつれて、見たい気持ちと見たくない気持ちがせめぎあっている。

再編集でも再構築でもないパラレルな物語世界。それを知ってしまってそれ以前のように作品を愛せなくなることは怖いのだが、それはそれとして好きなほうだけ記憶に留めておくのでもいい。うん、やっぱり見たい気持ちのほうが強いので、四月を楽しみに待つ。公開まであと一月余り。

待ってる間にこういうもの を予約してしまう。見事に罠にはまっている気がする。

関係ないが、Othmar Schoeckのチェロとピアノのためのソナタ が物凄く良い。

|

出来ないこと、たくさんでいい

歯が悪いので、食べられないものが数多い。食べ方(噛み方)もかなり偏っている。困る。

しかし、固いものを食べなければ良いだけのこと。毎食ゼリーという夢の生活を実現する時が来たか。なんだ、嬉しいじゃないか。

不自由なことは人間色々あるもの。その不自由さを「不自由だなあ」と思って暮らすのも一興だが、その不自由さのカードを捨ててしまうのもまたしかり。

ギターを練習している人に「Fが抑えられなくて困っている」と相談を受けると、僕は必ずこう応える。「Fの出てこない曲しか弾かなきゃ大丈夫!」と。

Fを抑えなくても良い曲はいっぱいあるし、なかったら作れば良いわけで。

そう、なければ作れば良いんだ。

出来ることの組み合わせだけで、十分戦える余力が人間にはある気がする。それで事足りなければ作ればいい。既存の枠組みだけでも、組み合わせはほとんど無限。一応限りはあるが、大体無限。例えば、俳句など46の17乗という組み合わせの中から生まれる。中には、

あああああ
あああああああ
あああああ

みたいなものも含めてだけど、それにしたって相当な数の組み合わせである。さて、そこからこれといった作品をひねれない場合はどうするか。そこでもまた組み合わせだ。知ってる作品を組み合わせてみる。俳句でなくても、何でも良い。それっぽければ。

時は今
犬が西向きゃ
尾は東

なかなか趣がある。何か、伝えたいことが滲んでいる。

春過ぎて
夏来るらし
正露丸

これも、非常事態っぽさを演出していて、そのわりに雅やかだ。ストッパでもいいはずだが。

これをまあ100個くらい考えていくと、どうも自分の発想のルールなり、癖というようなものが見えてくる。それを知っていると自分を操縦しやすくなる。ともかくは、自分に出来るところからスタートするしかない。肝心なのは、スタートするところな気がする。

春である。

Tsukushi

|

腕まくりして、アニメのこと。

そろそろ今期アニメの最終回。前クールから継続しているものも含めて、今クールみていたのは以下の作品。最終回を待って書くべきなんだろうけれど、きっとその時は感無量で色々書けない。それに、最終回に僕自身も期待しているので、あえて今。

マリア様がみてる
とらドラ!
まりあ・ほりっく
黒執事

すでに僕のカノンと化している『マリア様がみてる』については監督の変更もあり、はてどうなるのかと思っていた(ユキヒロ マツシタさんの監督で見てみたい気持ちは今でも十分にある)。瞳子ちゃんが祐巳の妹になるまでを扱っているドラマなのだけれど、本筋では関係ない部分で白薔薇姉妹に魅された。背景等のディテールに見られたこだわりが消え、それは作品全体の粗さに繋がったと思う(踏襲されている部分もないわけではないが)。それを声優さんがカヴァーした気がする。それから、やっぱりOPには"Pastel Pure"を聞きたかった。誤解のないように書いておくと、全体として非常に高評価。

瞳子ちゃんの声優が『とらドラ!』の主人公の声ということもあって、今クール釘宮さん三昧でした。こちらはいわゆるボーイ・ミーツ・ガールなのだけれど、学園モノに弱い僕としては好きで仕方ない。多くの人が川嶋亜美を絶賛しているのも良く分かる。僕としては二期OPアニメ、みのりんの猛ダッシュするアニメーションがものすごく良く出来ていると思っていたのだけれど、ちゃんと本編にも使われている。良かった。

『黒執事』は僕のヨーロッパ愛、シャーロック・ホームズに代表される19世紀ロンドン愛から。二期を通じて作画が非常に安定していた。話は正直どうでも良かった。A1 Picturesの作品をもっと見たいと思わせる。執事が好きな人はカズオ・イシグロの『日の名残り 』がおすすめ。舞台となる時代の文化的背景を巧妙に取り入れている点では、『シュヴァリエ』など出色の出来で、18世紀研究者は是非見て欲しい。ディテールの来歴が全部分かったら相当なものだと思う。僕には無理だ。

『まりあ・ほりっく』はこの中で毛色が違う。まず、『マリア様がみてる』に代表される「ミッションスクールのような閉鎖空間内のホモジニアスな擬似恋愛空間」を揶揄している、一つのアンチ・テーゼとして機能している。80年代カルチュアや、この監督(『さよなら絶望先生』)のテイストがあう人は好きな作品だと思う。僕は対照が面白くて見てしまったし、OP曲がシャッフルであることにいたく感じ入った(アニメの歌でシャッフルのリズムは殆どない)。

余談になるが、今期放映されていたもののほかで見たものの中では『喰霊-zero-』や『GUNSLINGER GIRL』が素晴らしかった。

 

|

字、書き込み

字を書くこと。文章を書くことよりも、文字そのものについて最近少し考えている。

筆跡鑑定とは別に筆跡学(グラフォロジィ)という学問があって、これはちょっと眉唾なのだが、書かれた文字による性格判断のようなもの。もちろん文字は習字とか訓練によってある程度矯正もできるので、この結果に科学的な意見として信頼をおくのはどうかと思うけれど(これで論文を書いてる研究者がいてげんなりした)、普通の生活レベルで字の上手下手や、そこから感じる印象を書いた人の人となりに結びつけることは、少なくない気がする。洋の東西を問わず、美しい字を書くことは教養の表れだったのだろうし。

今時分、特に会社で働いている人は自分の手で字を書く機会は案外少ないだろう。キーボードで10本の指を使って文字を書くのはとても効率的だと思うし、人間的なことだと思う。でも、手書きの文字の持つオーラもまた魅力的だ。

僕は翻訳の下書きの段階では、手書きでノートを埋めていくのだけれど、自分の字が気に入らなかったらこれは出来ないなあ、と思う。字の上手い下手ではなくて。自分の書いた字を見るのも嫌、みたいな。長く弾いてなかった後にギターに触るとそういうこと、ある。自分の奏でる音が耐え難い。

手書きで、時折ノートの余白にふと思いついたことなどが書いてあることがある。人の発表などを聞いているときにその要点ではなく、様々な連想から生まれたアイディアなどを。後になってそういう書き込みをふと見つけて「はて、何のことだろう?」と首をかしげることもある。時折かなり珍しい外国語の単語などが書いてあると、辞書を調べなくては分からないことがある。本当に自分が書いたのか。

本への書き込みもそうで、何年も前に読んだ本に、詳細なメモ書きなどをしていることがある。時には別の資料へのリファレンスなどまで提示していることがあって、今の自分より過ぎた日の自分のほうがよっぽど知識の整理がついていると驚く。

考えやアイディアを記しておくのに、コンピュータは便利だ。でも出力される文字列はちょっと味気ない。手書きで書いてあると「あ、そういえばこんなこと書いたな」と思い出しやすいんじゃないかな。

その時の気持ちや、どこでそれを書いたかまで思い出せるような書き込みがある。たとえば日記などその集大成みたいなものだ。

|

まなざしと幻想

Fantasie

--
その公園を通り抜けると、いつも一羽や二羽の孔雀を目にした。けれど、早朝のその公園を通り過ぎるのは今日が初めてだった。水の流れる音が遠くいつまでも耳の底に聞こえていた。

青い空はとても高く見えて、門扉の鉄格子の装飾的なフォルムを薄い水色で縁取っていた。かつて訪れた街の景色や、そこにそよぐ風を僕達はよく記憶しているものである。忘れてしまったことを思い出せないせいかもしれないが。

その灰色のコーテックスにすべてが依存しているならば、些細な感傷はいつ失われるとも知れない。だから疲れた体を横たえる寝台よりも今はただ、一人でいることが心地よい。

すべてをいつか投げ出せるという甘えがあるせいで、僕の歩みはひどくのびやかで、ひどくゆるやかだ。加速しては点滅する黒い夜のトンネルに、オレンジ色の雨が横に長く伸びていった。

|

春には春の花を

In_a_little_word

行き交う人や 揺らぐ景色も
日常とまた変わらないのです

一秒ごとに確かに死んでゆく
僕の記録

|

マルタ・ゴメス、至高の音楽

マルタ・ゴメス(Marta Gómez)さんのコンサートを見た。

良い音楽は人それぞれなので、こんなことを書いても仕方がないかもしれないけれど、心地良いことこの上ない。心穏やかにするアンサンブル、あるいは力にあふれたアンサンブル、曲自体の精緻と旋律の豊かさもさることながら、アンサンブルで鳴らしたときのすごさ。圧倒されました。

コロンビア出身、バークレイ音楽院を優れた成績で卒業して、NYを本拠に活動している方です。いわゆるワールドミュージックのコーナーにひっそりと置かれている隠れた名盤とかではなくて、メインストリームでどんどん戦える音楽を、しかもクオリティは論理と感性の双方に貫かれた音楽を生み出している。

とにかくアンサンブルを絶賛したのだけれど、フルート、パーカッション、ベース、チャランゴ(ヴァイオリン、サンポーニャ、その他いろいろ)、彼女自身のギターとヴォーカルというクインテット。それぞれの楽器の魅せ所も見事ですが、なんだろう全体で鳴らしたときに一番良いように計算しつくされている。これはもちろん彼女自身のリーダーシップもさることながら、このメンバーで相当リハーサルを重ねたのだろうと思われる。

自身ラテンアメリカ各地のリズムを収集しているとのことで(それを自らの楽曲に積極的に取り入れている)、単にミュージシャンと呼ぶよりは民族音楽を理詰めで研究できる方なのだろう。音楽の複雑さと豊饒さがとても一人の人間の想像力から生まれたとは思えないほど。曲を作るときの着想もすごくて、「こういう話を聞いて作りました」というのがすごく多い。

日本でも幾つかのアルバムは手に入るみたい(Entre Cada Palabra とかCantos de Agua Dulce (Songs of the Sweet Water) )。僕ももちろん買いたいと思います。

買ってきた!上記二作品と今年出た新作『musiquita』を買って来ました。当分BGMはこれ。

|

『グルブからの通信なし』

最近人から「面白いよ」と教えてもらった本。

Eduardo Mendoza. Sin Noticias de Gurb Barcelona: Seix Barral, 1991.

『グルブからの通信なし』という感じですね。

宇宙人がバルセロナにやってきます。二体。一方が偵察(地上の生命体とコンタクトを図りに)に行くんだけど行方不明になっちゃって、もう片方が探しにいく。その詳細な記録がそのままこの本。

とにかく地球に来るのは初めてなわけで、いろんな目に遭うわけですが、この小説はくり返しが巧妙に使われている。ある失敗をする。普通の(地球)人なら気をつけようとなるけど、一分後に同じ目にあって、また一分後に同じ目にあって、そのまた一分後に同じ目にあって。もうやだ、ってなって初めて学習する。この滑稽さ、名前も分からないこの主人公が、とても愛しくなる。

滑稽さの演出以外に、現在文学では繰り返し、反復は結構興味の高まっているトピックでもある。大江さんの『取り替え子(チェンジリング) 』や筒井さんの『ダンシング・ヴァニティ 』などが好例か。これは突き詰めると「文学は焼き直しですよね」という、作者読者ともに耳の痛い一大問題になるのだが、考えたくない人は考えないように。

別の特徴としては、作者エドゥアルド・メンドーサ自身も言っているけれど、18世紀の小説の枠組みを見事に踏襲している点があげられる。どういうこと、と思う人はヴォルテールの「ミクロメガス」(『カンディード 他五篇 (岩波文庫) 』に所収のはず)を思い出して欲しい。

他の文化、さらには他の住環境からやってきた主体(異星人、この場合どちらもエイリアン)にとっては、目に映るすべてが奇怪極まりない。まったくこの星の連中と来たら、ということにもなるでしょう。でも、この他者との遭遇がひとつには相対主義への道を開くのであるし、ヴォルテールはそのあたりをしっかりと描き出しています。さすが。

他の旅行記文学や書簡体小説でも良いんだけど、このSFの直系の先祖といえばやっぱりヴォルテールのこの作品を措いて他にないだろう。

|

火難

先日オーブンで料理をしていたら、うっかり右手に火傷をしてしまった。

僕は右利きなので、色々不自由。シャワーを浴びても、食器を洗っても痛い。そして何もしないでいても痛いのが辛い。

数日たって痛みが引いてきたのだけれど、今度は道で誰かさんの歩きタバコにより左手に小さく火傷。地球を禁煙にして欲しいです。

痕が残ったりしたら嫌だなあ。火傷をしたときはとにかく冷やしましょうね。

|

« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »