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2009年2月

三月のこと

もう二月も終わり。

こうした時候に、少しずつ春になっていくなあ、と感じるようになったのは結構大人になってからです。季節の移ろいは、足を止めることができる年齢にならなければ分からないのかもしれないし、ほんとうはそんなこと関係ないのかもしれないし。でも植物を見たら、そんなこと簡単に分かるのだけれど。

師走と同様に、社会では三月も年度末なので慌ただしい。色々な転機が訪れる時期でもあるし。僕としてはお正月よりも三月末にいろいろと今年(四月以降、来年度)のことを考えるほうが好き。そして、僕は本番よりもリハーサルが、当日よりも予行演習が好きなので、四月より三月の方が断然愉しい。

僕は三年日記(artemisのものを使用しています)というものをつけていて、同じ頁には一年前とか、二年前のその日に何をしていたか、ということが書かれています。今のものは二年目の部分を書いている(日記自体は二冊目)ので、去年のことしか分からないのだけれど、ある仕事が終わる時期で、買い物に行ったり、とあるパーティに足を運んでいる。そうそう、閏年だったんだ。極端に忙しい時と、極端に暇な時は日記を書かないこともあるのだけれど、一行だけでも何かを記してあると、その頃の景色を思い出せるようで面白い。

で、三月は日記の段が変わる月です(日付は自分で書いていくものなので、五年前のその日に、日記をつけようと思ったのでしょう)。この、頁が少なくなって、そろそろ段が変わるときは、やはりドキドキする。

四月からやりたいと思っていることはたくさんあるけれど、それを考えて過ごす三月はやっぱり愉しい。十年、いやもっと前から中断していたあることを再開しようと思っていて、それも愉しみ。春に読もうと買いためている本も愉しみ。そして、きっと春になればどちらともなく連絡を取って友達と会うだろうことも愉しみ。静かな生活は静かな愉しみで満たされている。

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三月のはじめ、とある舞台がありますね。残念ながら僕は見に行けないのだけれど、気になる方はこちらを。とても愉しそうだ。

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『Lunascape』のこと

パソコンのソフトウェアの話。

自分がどういう機能を使うのか、何が必要なのかというところまで還元していって、案外シンプルなものしか必要でないと分かる。まあ、そこは人によりけりで、僕だと次の機能で満たされる。(最後の点を除けば)高性能なパソコンがいらないことは明らか。

・文章を書くときには、特殊記号の欧文がない限り(日本語だけ、英語だけで書ける場合)、テキスト・エディタを使用している。入力に対する反応速度が速いから。

・ワードも使うけれど、人とファイルの交換をするという機会は意外と少ない。ネット上での資料の配布ならPDFに変換すれば良いけれど、これはgoogle documentでも出来る(上手くいかないこともあるけれど)。それよりも、OOoをデフォルトで使うようにすれば良いとも思う。

・仕事をしているときはデータベースをいじったりしたけれど、そんなにたくさんのテーブルは必要ないので、もうエクセルでいい。これだって、OOoをデフォルトで使うようにすれば良い。データベース自体をウェブに挙げても良いけれど、18世紀関係の資料にどれほど需要があるか。

・音楽(作る方)に関してはcakewalk(Sonarではありません)のソフトを使っている。使い慣れたし、基本的に自分で演奏して録音することも多いので、MTRとして使っている。他にはソフトウェアシンセを(複数)使う。(音楽再生に関してはヘッドフォン使用か、オーディオ・インターフェースからBose M3に流すので、音質が・・・とか思ったこともないです)。なおmp3再生にはAudioactive Playerを使用しています。

案外フリーのソフトで上手くいってしまうことも多いけれど、優れたソフトだったらお金を出して使いたい。長い目で見てそのほうが良い投資だと思うからです。

そして殆どすべての人にとって大事だと思うのはウェブブラウザ。今現在はFireFoxを使っていて、でもFireFoxだけでは見れないページもあるのでInternetExplorerも併用しています。Google Chromeも興味はあったのだけれど、結局乗り換えなかった。

Lunascapeというブラウザにちょこっと関心があるけれど、周囲に使っている人もいないのでなかなか踏み出せない。ネットでは「重い」という意見も多いようです。そのほか操作性については個人の好みと慣れなので、パソコンソフトではなく人間のソフト部分で対応しよう。ただFireFoxとIEの併用に不満も特にないので、積極的に開拓する気にはなれない。

でもブラウザはまだまだ使い勝手よく進化できると思うので(人はどういう順序で考え、どのように手を動かし、何を求めるのか。「仕事」のシミュラクルになると思う)、期待しています。

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まだ二割/Translator's high

翻訳家になりたい、という人にごくたまに、それでも考えてみれば割としばしば出会うのだけれど、不思議なことに、実際に作品を訳しているという人には案外めぐり合わない。現代の作品を訳したいという意気込みのある人でも、最近読んだ本は?と聞いてみると芳しい答えが帰ってこないことも多い(僕もそうだけど)。文芸翻訳でもその程度、それ以外のジャンルならなおさらだろう。そこから考えると、翻訳をしたいという衝動よりも、翻訳家への憧れの方が勝っているのではないかしら、と意地の悪いことを思ってしまう。実際には翻訳をしたいということが先にあって、気がつくと翻訳家になってしまっていた人が多いのではないかなと考え、またそうであってほしい。

最近ある本を訳している。興味深いが、それゆえにかなり神経質になりながら作業をしている。疲れて顔を上げると、図書館に誰もいなくなっていたりする。そんな時、本当にそんな時なんだけれど、自分は翻訳が好きなんだなあ、と思う。

場合によるけれど、僕は原文を読んでノートにコリコリと訳を書いていきます。それをまた後でパソコン入力していくのだけれど、直接入力しないのはそこで誤訳の第一次チェックが出来るから。そして、ノートに向かっている方が落ち着いて訳せるから。些細なことに思われるけれど、案外自分の書く文字が好きでないと出来ない作業かもしれない。自分の手で文字を書き付けていくと、いつしか自分の呼吸と原文の息吹が合うように感じられることがあって、むしろそうでない文章は後で大いに推敲する必要がある。この回り道を何重にも仕掛けながら、自分自身の中で言葉を研ぐように努めています。

まだ仮訳のさらに下訳くらいのレベルなので、残念ながら詳細はお伝えできないのだけれど、そしていつ、どこから出版にこぎつけられるか分からないのだけれど、そうなったらいいなあ、と思っています。

まだ二割くらいです。

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ペネロペおめでとう!

『ヴィッキー、クリスティーナ、バルセロナ』でペネロペ・クルスがオスカー(助演女優賞)を受賞しました。

『ボルベール』でも一度ノミネートされていましたが、今回宿願の受賞。スペイン人女優では初めてです。よかったね、おめでとう。

当の映画は『それでも恋するバルセロナ』というタイトルで日本にも行くことが決まっています。共演はこちらもアカデミー助演男優賞を2007年に受賞したハビエル・バルデム、スカーレット・ヨハンソン(レベッカ・ホールが主演なのにかすむのはなぜだろう)。僕としては『ボルベール』がおすすめですが、どちらも見たことがない、という方はこの機会に是非!

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indifference

スポーツ選手やアーティスト、その他プロフェッショナルといわれる方は、その優れている部分において重宝、評価、支持される。これはサラリーマンでもそうで、程度の差こそあるけれど、ある役割を中心的に担うことで組織の中で自分の位置する座標が決まってくる(環境によってそういう役割を担う、ということもあると思うけれど)。先の例なら「取り替え可能性/不可能性」のレベルが普通のサラリーマンとは違うけれど。

個人的な生活において数少ない友人は、僕が優れていることよりもむしろ劣っていることにおいて僕を好きでいてくれるのだと思って(「もう、しょうがないなあ」、と)、大変ありがたい。また逆に、僕が大層優れた人であったなら、もしかするとその人たちとは親交を結べなかったかもしれないので、やっぱり結果論なのだが「これはこれでよかったのだ」、と思わざるを得ないし、ありがたいことだ。

プロに対してアマチュアがいる。プロでないからアマチュアなのだが、僕などはやることなすことすべて専門性から程遠い。今勉強していることがなにかのプロフェッショナルへの道かというと、そうでもなくて、当初「これってどういうことなんだろう?」と思ったときに周りに教えてくれる人がいなかったから、自分で始めたということに過ぎない。そしてずっとアマチュアでいるだろう。でも誰もやらないことを、まあ好事家と呼ばれるような誰かがやってくれていたらいいなあ、と思えば希望がある(professionとspecialisationを混同して使っているからいけないのだけれど)。

愛の反対が無関心だというのは、すごい明察だ。知らないこと、見えないこと、知ろうとしないこと、見えないフリをすること。樹の役割、背景の役割、いやそれ以下の場所で壁の花が繁茂。けれど、だ。愛でられることがかつてあったからこそ、今壁を這うのであるし、いつか軒先に雨も降ろうから待てば良いのだ。今日枯れても明日枯れても、誰も気がつかないとすれば、そこに重きを置かなくてもいいんだと。

異なる二つのことを書いているけれど、同じことのような気もしている

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いいおとな

色々な時のモチベーション。

Rascalo たとえば延々と続く本なんかを読んでいると、関係ない人にしたら「何でそんなことしてるの?」ということになると思うのだけど、「これこれの理由でね」、と説明できることよりも「より良く生きるために」と答えられると素敵だなあ、と思う。それは一番遠くにゴールを置いた場合。

気の進まないことは、状況的な要因よりも前向きに対峙出来ると良いなあ、と思う。いらいらしたって過ぎたことは確定しているのだから、そこは変えられない。「やらなきゃ」から「やるか」までの径庭は大きいんだけど。

モチベーションという言葉の語源には動きを表す要素があって、それが他動詞よりは自動詞の方が気分が良い。いつもできる必要はないけれど、その回数を増やしていけば、良い大人になれそうな気がする。

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『狼と香辛料』のこと

支倉凍砂『狼と香辛料 』(シリーズ、現在十巻まで)という小説があって、それが昨年アニメ化(2008年)されたのだけれど大層面白い。経済をこんなに簡単に理解させてくれるものはあまりない。オープニングの音楽 (アニメーション)も素晴らしい。僕のヨーロッパ愛が共鳴する。隅から隅まで、製作の情熱が感じられる素晴らしい作品。今年はパート2が放送される。愉しみ。

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『しりとり』とメトリクス

それは二人芝居。

舞台上の画面でビデオで録画された男のモノローグが再生される。殺人を犯した直後の告白から始まって、今現実の舞台の上でも一人女を監禁している。女を殺すつもりの男、何とか逃れようとする女。駆け引きのさなか男が「しりとり」をしよう、と持ちかける。舞台の上で物語が進行するにつれて男が誰か、女が誰か、色々なことが明らかになっていくのだけれど・・・。言葉と無意識、演劇と狂気を織り交ぜて最後まで飽きさせることがない。

標題はPalaules encadenades (Palabras encadenadas)、連鎖する言葉の意味だが、これがちょうど日本語のしりとりのようになっている。最後の音節を使って次の単語をスタートする。

たとえば(76ページ。分かりやすいよう最終音節を太字にしています):

Falso

Sonríe

Espía

Amenazar

Zarpa

Patio

o

Ofensiva

Vatio

Tiovivo

Vómito

Tormento

Tortura

Rabo

Bobo

Boba

Bastardo

Doctora

Rape

という具合。途中で登場人物が言うように、実はこのしりとりに出てくる言葉が舞台上の出来事を示唆していて、精神分析における自由連想法に近いことが行われている。

それとは別に僕が面白いと思ったのは、韻律のルールが適用されるという点で、メトリクス(métrica)を知らないとこのゲーム、負けてしまうのである。次のくだり(29ページ、人物は伏せておきます):

女:Dama(貴婦人)

男:Marea(潮)

女:Marea(潮)...Reanimar(元気づける).

男:(嬉しそうに)Reanimarね。看護婦の言葉だ。言いたくないんだけどね、君は結構上手くプレイしたけど、ミスをしたよ。文法的なミスだ。Ma-re-aなんだ。Ma-reaじゃないんだよ。EとAだ。強母音二つは独立したままだ。二重母音にはならないんだよ。Aからはじめなきゃいけないんだ、Reaじゃない。そんなことは君も知ってるだろう?どうしたんだい?緊張してたの?集中しなきゃダメだよ。間違える人が多いんだ。でも君なら・・・いいや、僕の勝ちだ。ナイフを探してくるよ。

どこで母音を区切るか、と言うことをちゃんと理解していないと負けてしまうのである。まあ、外国語としてスペイン語を勉強していてあまり気にしたことはないのだけれど、詩を読む上ではとても大事な知識。でも難解な解説書をいきなり読むよりも、この戯曲に触れた方が親近感が高まる。「殺されるのは困るな、勉強しとくか・・・」と。

戯曲そのものは散文劇なのだけれど(僕は普段韻文劇ばかり読むので、ちょっと興味深かった。)、当然会話主体なので(モノローグもあるけれど)比較的意味が取りやすい。なので、文学を学ぶ人、教える人にとっては、これをステップに次は韻律を学ぶ、と言うコースデザインも面白いと思う。

作者ジョルディ・ガルセラン(Jordii Galceran)は1964年バルセロナ生まれ、同地でカタルーニャ文学を専攻。1982年より劇作を始め、1995年に初めて作品を演劇賞に応募。見 事受賞となって以後快進撃が続く。劇作のほかにもゴルドーニの翻案やテレビシリーズの脚本なども手がけているそう。

大学生の頃にはフランコ独裁も終わっていたわけで、大学でカタルーニャ文学を専攻したというのが面白い。彼の作品はカタルーニャ語で書かれて、それがカスティーリャ語(スペイン語)やその他の言語に翻訳されている。

Galceran, Jordi. Palabras encadenadas. Madrid: Asociación de directores de escena de España. 1999.

Born演劇賞(el XX Premi Born de Teatre)受賞は1995年。オリジナル刊行は1996年。映画にもなっています。緊張感のある、なかなかよいフィルムです。

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ラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナ『グレゲリア』(続きの続きの続きの続きの続きの続き)

グレゲリアの続きを挙げておきます。

以前のものはこちらこちらこちらこちらこちらこちら

翻訳については、翻訳権というものがあります。ここでは、それを侵害、無視して翻訳しているのではなく、「スペインにこんな面白いことを書く作家が いるよ」という紹介のために一部を引用していると考えてください。原文がスペイン語なので、参考までに僕の拙い訳が付いています。

El texto de base: Gómez de la Serna, Ramón. Greguerías . Ed. Rodolfo Cardona. Madrid: Cátedra, 1988.

Greguerías

 

Greguería=Metáfora + Humor.

 

グレゲリア=隠喩+ユーモア。

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Cuando baja una mujer por una escalera de caracol parece haber sido despedida del Paraíso.

螺旋階段を降りてくる女は楽園を追放されたように見える。

 

¡Cómo rompe los calcetines lo que tenemos de monos irremesibles!

サルゆずりの足の爪はなんと見事に靴下に穴を開けるのだろう。

 

La niña con el aro en la mano va al jardín como al colegio, a jugar con la circunferencia y la tangente.

フラフープを手に少女は円周や接線と戯れるべく庭へ出る。学校へ行くみたいに。

 

Tengo suprimido el paréntesis de (q. e. p. d.) porque no hay nada que ponga más nerviosos a los muertos.

(安らかに眠りたまえ)からカッコを外してやった。これほど死者を苛立たせるものもあるまいから。

 

Los tornillos son los gusanos de hierrro.

ねじは鉄で出来たイモムシ。

 

No me gustan esas sillas de tubo metálico que parecen arrodilladas.

ひざまずいているように見える鉄パイプのデッキチェアが好きじゃない。(このグレゲリアには一本のパイプを折り曲げてフレームが作られたデッキチェアの絵が添えられている。)

 

En las tormentas hay truenos sin rayos porque su rayo se ha traspapelado, y por lo mismo hay rayos con olvido de su trueno correspondiente.

嵐の時、音ばかりの雷がある。稲光が置き去りになっているのだ。同じように光ってはいるのに音がしない雷もある。

 

A veces el abrelibros no marcha porque ha tropezado con el nudo de la novela.

小説の核心に引っかかってしまって、ペーパーナイフが進まないことが時々ある。

 

Los sellos son el tafetán de las cartas.

切手は手紙の絆創膏。

 

Las gaviotas nacieron de los pañuelos que dicen ¡adiós! en los puertos.

カモメは港で別れを告げるハンカチより生まれた。

 

Uno de los contrastes más graciosas de los espectáculos modernos es cuando en el boxeo el hombre pequeño en mangas camisas y con corbata ayuda a levantar el brazo al atleta triunfador. ¡Qué trabajo le cuesta!

現代のショーにおける最も滑稽なコントラストは、ボクシングの試合で勝者の腕を掲げるのに、長袖でネクタイを締めた小男が手助けをすることだ。なんという大仕事!(このグレゲリアには巨大なボクサーの腕を持ち上げる小柄なレフェリーの絵が添えられている。)

 

Los ceros son los huevos de los que salieron las demás cifras.

ゼロは他の数字が生まれて出た卵。

 

Es conmovedor en las óperas ver que cuando lloriquea la que canta, todo el coro la consuela.

オペラで歌手がすすり泣いていると合唱隊が皆一同に彼女を慰めるのを見ると感動させられる。

 

Las básculas marcan las doce en punto.

体重計はぴったり12時を差している。

 

El mar se pasa la vida duchando a la tierra para ver de hacerla entrar en razón.

大地が納得するまで波を寄せて、海は一生を過ごす。

 

Las plumas estilográficas son desobedientes como niños que no saben o no quieren escribir.

まるで字の書けない子供、あるいは書き取りをしたくない子供のように、万年筆は言うことを聞かない。

 

El rayo es una especie de sacacorchos encolerizado.

稲妻は怒り狂ったコルク抜きである。

 

--¿Oyes ese olor? –dijo ella en el jardín.

「あの薫り、聴こえる?」庭園で彼女が言った。

 

El que toma el refresco con dos pajas parece que toca la doble flauta de Pan.

二本のストローで飲み物を飲む人は牧神の笛を吹いているよう。

 

Botella: sarcófago del vino.

ボトル:ワインの棺。

 

Las corsés musicales de la pianola.

自動ピアノの音楽的なコルセット。

 

¿Y si las hormigas fuesen los marcianos establecidos en la Tierra?

蟻が地球に定住した火星人だったとしたら?

 

Hacer símiles parece cosa de simios.

類似を比較するのは類人猿らしいことだ。

 

Cuando se ve la calavera de un buey en el campo se piensa que la muerte ha andado jugando al toro por allí.

野で雄牛の骸骨を見つけると、死神がそこで闘牛をしたのだと思う。

 

La escoba nueva no quiere barrer.

新しい箒は掃除を嫌がる。

 

La melancolía de ríos de América es que son tan grandes que no pueden tener puentes.

アメリカの河川の悲しみは大河ゆえに橋を架けてもらえないこと。

 

¿Qué es la ilusión? Un suspiro de la fantasía.

幻覚とは?ファンタジーのため息である。

 

El agua de Colonía es el whisky para la ropa.

コロンは服のウィスキー。

 

Lo más bonito del cristal es cuando se rompe en forma de telaraña.

ガラスが一番美しいのはクモの巣状に割れる時。

 

En la rotativa que gira y gira en la noche del diario, es el mundo el que da vueltas y deja en el papel sus huellas, como el rostro del Redentor en el paño de la Verónica.

夜毎新聞を刷る輪転機の中で世界は回り、聖骸布のごとく紙面に足跡を残す。

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プラドの春

2009年2月3日から4月19日までプラド美術館で『フランシス・ベイコン大回顧展』やってます。余りの気持ち悪さにクセになってしまう作品を連発。眠れなくなりそう。いいなあ。

彼は1992年、マドリードを訪れた折に亡くなっています。ベラスケスの作品をモチーフに、それをベイコン一流のデフォルメイションでもって気持ち悪くしたものなど、プラド美術館との縁が薄いとはいえない。

このレトロスペクティブ、ロンドンのテートが終わり、マドリードのプラドを経て、ニューヨークのメトロポリタンまで行きます。春休みにスペインにいらっしゃる方は是非。

あまりにも恐い絵なので紹介がはばかられますが、興味のある方はこちらとかこちら

おまけ:関係ないけどこれもこわいって・・・。

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