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2008年9月

散ル散ル朽チル

September, high tide 気がつけば
波高き9月になって風の音が憂鬱を
足元の砂に埋めて 耳元でいつまでも
鳴り続けていた千のアリアをそっと
水に溶いて空に投げた

October, love song とめどなく音楽が溢れた空
階段を登りきって急に開ける風景が
君をそっと写し取った 鮮やかな水彩画のように
今もまぶたの底に輝く

君がいなくても
言葉がなくても
音楽はいつも変わらぬ色彩の中で
君がいなければ
僕など意味もなく散ってく 朽ちてく

November, white sigh ため息は立てたコートの襟元に

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靴みがき

Two過日学校へ行った帰りに、買い物をしました。

最近新しいブーツを買ったので、靴の中敷を買う。いつもと同じ、ペダックのものを。快適さが断然違う。様々なタイプがあるので、足に問題を抱えている人も一見の価値あり。

服にこだわりはないが、靴にこだわりがある。
とにかく、まともな靴でなければならない。
よく歩くがゆえに。

今回は秋冬ということもあって、ヒールが少し高いサイドジップのものを買った。紐じゃない靴は久しぶり。

くるぶしまで高さのあるブーツは安心できる。足を怪我するのは恐いから。たとえば足首を捻ったり、何かにぶつかったりしても、高さがあれば少しショックをやわらげてくれるような気がする。あくまで、気がするだけだけど。

普段履きなれない人は鬱陶しく感じるかもしれない。外国製のものなど、レザーは最初しばらくの間、硬いことも多い。辛くない範囲で、少しずつ自分の足に慣らすように履いていくといつしか、ありえないくらいフィット感のよいペアができる。それでも、足の形が靴の形とどうしてもあわないということもあるだろう。そういう場合は無理してはいても仕方がない。体にも心にもストレスになる。すっぱりあきらめましょう。

毎日違う靴を履くと、個々の靴が長持ちする。カビや匂い対策にもなる。でも、なかなか、出来ない。気に入るとずっとそれだけ履いてしまう。困ったものだ。

僕は会社勤めをしていた頃、毎週末靴を磨いていた。何足かを、1時間くらいかけて磨いていた。靴磨きは執事の仕事だったというようなことを、どこかで読んだ気がしていて、なんだか黙々と皮の表面を撫でながら、非常に気持ちの落ち着く思いがした。

雑誌などの靴のお手入れ特集には、あまり興味をそそられない。ある程度のゆとりがあって、フェティシズムがないと継続できないような手入れが紹介されているのを横目に、まあ確かに靴の手入れなんだけれど、本当は心の手入れなんですよ、と。

柔らかい布でクリームを無心に塗りこんでいると、いつしか静謐が訪れる。それは僕にとって心の平穏をもたらすための大事なルーティーンだったのだと思う。

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スチュアート・ダイベック朗読・講演会

ガルシア・マルケス関係のイベントがあるそう。

書けば売れる作家というのはいろんな人にとってありがたい。ガルシア・マルケスはコロンビアを代表する作家で、ノーベル賞も取っているから、そう呼んで構わないでしょう。

『百年の孤独』という作品がおそらく最も有名で、日本でも随分売れた本だから名前を知っている人は多くあるはず。焼酎の名前にまで・・・。

ラテンアメリカ文学を読むこと、語ることが既に一つのポーズとして出来上がっている。だからといって、ガルシア・マルケス読まずば人にあらずみたいなのは不寛容だ(『百年の孤独』よりも、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』の方がすごいぞ、とひそかに僕は思っているのですが)。

幸い僕の若い友人にそういう狭量な人はない。なんでも貪欲に読んで論じるすごい人が多いので救われる。

かつてラテンアメリカ文学が従来の世界の文学、つまりヨーロッパ的なものへのオルタナティブだったとするのなら、しかし今それを踏襲してしまうのは数多のマイナー文学を圧する結果となってしまう危険がある。もっと開こう、多様性へ。

いろんな人がいろんなものを読むから、良いんだと思うのです。面白いもの、つまらないもの、美しいもの、恐いものがどんどん読まれる。いつの、どこの、誰の、関係なく。

『百年の孤独』がすでにクラシックとなっているのに、文庫にさえならない。そちらの方が嘆かわしい気がする。

I_sailed_with_magellan 同じく10月にはスチュアート・ダイベックの講演・朗読会(入場無料・予約不要)が催されます。僕はこっちの方が興味あるなあ。Dybek

作家や作品の理解に、ある程度の文脈や予備知識があったほうが助けになることは勿論だけれど、わけのわからないまま生活の雑多な感触が詰め込まれている作品に触れる場合、分からないことの方が望ましく、かつ重要だと思う。

言ってるそばから、わけのわからないことを書いていますが、わからないまま読むのが吉みたいなことを言いたいのです。

自分のルーツや、周囲の環境が否応なしに多様なものを含んでいる語り手。それを一々説明して理解して、という読み方よりは、「何、この意味分からん日常は!」という手ごたえが、生々しい。

でも、本当は僕たち一人ひとりの生活だって意味不明な出来事の連鎖ですよね。自販機でコーヒー買ったらおしるこが出てきちゃうみたいな、信号待ちで前後左右BMWみたいな、面白いことの連続。小説と同じくらい、映画と同じくらい、あなたの人生は面白いはず。そうでなければいけない。その感触を思い出させてくれる。

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常緑ミクロ

Mossgreen デジカメのマクロ機能が好き。みなさん、使ってますか?ファインダーや液晶で確認もせずにパチパチとって、後から「あれ、なんだっけ?」ということがよくある。

森山大道さんがすごく気楽にシャッターを切りながら新宿の町並みを撮影する映像を見たことがあって、一緒に足を運んだ友人と面白いね、と話をしたことがある。その気楽さで。

植木鉢やプランターの中でも、はたまたアスファルトや石垣の上でも結構苔は生えていて、目を近づけるとすごく綺麗。マン盆栽のパラダイス山元さんもそうだとおもうけれど、あまりによい苔を見つけると「うーむ、名品!」と唸ってしまう。

今日は7年前にスペインで出来た友達と食事に行きます。7年かー!

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愛の言葉はもっとずっと簡単でいいな

原田知世「自由のドア」

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ルソー/イントラ・テクスチュアリティ

古い文学を相手にしていると、難解なものを読んでいると思われることがあって、実際はそんなことないないと、否定する。

ルソーは文学だけでなく、世界史の授業などにも出てくるし、倫理や哲学でも取り上げられる、超がつくくらいの大物なのだが、書いているものの中にはドキドキするくらいロマンティックなものがある。

もちろん、ここでいうロマンティックは

(1)○○さんたら、ロマンティックね・・・(海の見えるホテルのラウンジで)。

(2)ゲーテの作品はロマン主義(die Romantik)の先駆である。

でいうと(2)に近いのだが、勿論(1)は(2)から派生して、いつしか(2)を駆逐してしまったというだけであって、本来的な要素は共通なのである。どちらの意味でもドキドキさせられてしまうのだ。

『孤独な散歩者の夢想』の中で犬に襲われるエピソードや(そしてそれをどうよけようかと苦心するあたり)、友人の別荘に引きこもってディドロたちと仲間割れして、しかも皆が自分を仲間はずれにしているというパラノイアに陥っているあたりなど、大好きなのだ。

ルソーが「トイレの近い人だった」というのは、多分世界史の教科書では教えてくれないだろう。ルソーは生前音楽で身を立てたいと思っていたことがあって、生活費を稼ぐために楽譜の清書(記譜法の知識がちゃんとあって、字がきれいでないとだめ)というアルバイトをずっとしていた人なのだが、自分が書いたオペラが王様の目に[耳に]とまり、「こんな素晴らしい作品を書いたのはどこの誰だ、誉めてつかわすぞ!」ということになった。年金も貰えそうだし、貧乏なルソーとしては嬉しくてこの上ない。でもルソーはこの時に名乗り出ることをしません。

理由は二つあるんだけど、一つは評価された作品がルソーにしてみれば「こういう音楽はダサいよな」と思って作った作品だから。皮肉を込めて作ったらそれが売れてしまったという悲劇。しかも自分がそういう作品をけなしていた手前、のこのこ出て行けない。

もう一つ。王様の御前に出たとき、トイレに行きたくなったらどうしよう、と心配した。夕食会などにもあまり顔を出さないのは、水やお酒が当然出てくるから。引きこもるに切実な理由が、ありもしたのです。

そのルソーの『ジュリ、あるいは新エロイーズ (Julie, ou la nouvelle Hêloïse)』は長大な書簡体小説。18世紀に書簡体小説が流行ったことはここでも何回となく言及しているが、この作品はゲーテの『ウェルテル』同様、ロマン主義全開です。自分が悲しければ世界は暗く、思い込みは激しく。さらには、恋文という文学形式にこれほどの知識、教養、文才、話題を盛り込んでしまうのか、と驚きを禁じえない、手紙文学の満貫全席みたいな感じで、ルソーをますます好きになってしまうのである。

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18世紀ならびに19世紀、人権に関するアイディアはおよそ発禁処分となったルソーの書物を通じて、極秘裏に(、かつ公然の秘密として?)伝わっていった(Arturo Uslar PietriのLanzas coloradasにも、隠れて『人間不平等起原論』を読むといういうシーンがあった)。これだけでもすごいことなのだが、文芸作品においてもその書く力は存分に発揮されており、かつ人権思想や民主主義を巡る思想は申し分なく展開されている。結果として、同一作家の相互のテクスト同士の連関の中から共鳴と不協和音を取り上げていくことが、おそらくはテクストへのアクセスが疎外されていない(作品が散逸、消失という不幸に見舞われなければ)現代の使命でもあると思う。

「とりあえずその作家について、残っているものはすべて読みましょう。」

インターテクスチュアリティ(inter-textuality)と区別しつつ、イントラ・テクスチュアリティ(intra-textruality)の前提というのは端的に言ってそういう真摯実直な態度のことなのだ。当然といえば、当然。僕の言うことは大抵当たり前のことです。けれど、当然だからこそなかなかきちんと出来ていないというのも、今ある実態なのである。残されたテクストをどのように結び付けていくかは自由だ。

でも、とても時間のかかることだよな、とも思う。一回読んで、はい分かりました、ということはまずない。内容のマッピングを頭の中でするのが一回目。二回目以降はつながりを見つけたり、地図を書き直したり。読むたびに、「あれ、こんなこと書いてあったっけ?」という発見もあるだろうし、読む側の年齢によって、あるいは経験や知識によって、作品の見せる顔も異なるだろう。

パラノイア気味の人、トイレの近い人がルソーを読むと新たな発見があるかもしれないね。

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鋼入りのダン

仕事をしている人や、学校に行ってる人はある程度規則正しい生活を強いられていることと思う。

三十路手前にして無職の拙者は、嫌なことがあると2,3日沈没しながら部屋にこもって『ルソー全集』などに取り付かれて、気づくと体重が減ってる次第だ。

そういうときお酒飲むとよくないと思って敬遠するんだけど、今日はうっかり飲んでしまった。僕は普段焼酎は飲まないんだけど、偶々それを飲んだらすこぶる美味。島根の芋焼酎なんだけど(珍しいね)、ラベルにシモン芋使用と書いてある。

「なんだその名前、使徒か(新約)」と思って調べるとスーパーサツマイモです。とにかく白い、そして葉っぱにビタミンKが含まれている。

でも、焼酎作る時葉っぱは使わないと思う。全然カンケーない。

で、グラスを傾けつつ、スティーリー・ダンをBOSEで聴きながら、なんでこんなにかっこいい音楽を作ってしまう人たちがいるのか、まったく解せない。『ジョ ジョ』第三部に出てくるスティーリー・ダンは性格が最悪だが、本家は素晴らしい。そのエロティックな名前からして意味不明だ。

Royal_scam世の人が皆こぞって名盤 というThe Royal Scamだけは、なぜか聴いていない。でも、聴かずにとっている側面もあながちないわけではない。30歳になったら聴きます。

AjaAjaのDeacon Blues、GauchoのGlamoGauchour profession、Two_against_the_natureTwo against the natureのwest of hollywoodが個人的に大好き。でも、どの曲も心から好き。すべての音が心地よい。フェイゲンの信用ならないヴォーカルも、昔はそれほど魅力的ではなかったのに、今では。

どんな気分の時でも音楽は味方なのだ。

音楽だけは常に、そこに満ち足りてある。

曲にせよ、なんにせよ、そこにあるものを具現化するための努力が創作だという気がしてならない。

だから、本当は創作ではなくて、たとえば空中にメロディがあって、それを感知した「私」がそれをどのように形にするか(ラジオ受信機[=Syntoniser]のイメージ)。ゼロから自分で作るのではなく、どれだけ損なわずに再現できるか、ということのような気がする。

気がつくと、焼酎がもう3分の1くらいしか残ってない。飲みすぎ。ところで、The Royal Scamの邦題は『幻想の摩天楼』というのですが、なぜか『摩天楼の醜聞』だと記憶違いしていました。

実際の歌詞を読んだら違うのかもしれないけど、僕の間違えた邦題の方がかっこいい気がする。

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集団の意義、18世紀において。

方々で人気の高い創元社刊行の「知の再発見」双書シリーズ、図版の構成が絶妙といわれるが、僕にはちょっとビジュアルがすぎる。とりわけ、図版のキャプションと本文テクストを行ったり来たりするのが、苦手。それでも楽しく読める本が多い。こういう本はもっともっと出したほうがいい。眺めているだけで、ワクワクする。

Freemason リュック・ヌフォンテーヌ『フリーメーソン』村上伸子訳、創元社、1996.

もともとは石工たちのギルド、職業組合に端を発しながら、ヨーロッパの数多くの国で隆盛を見た秘密結社。もちろん今日も存続しており、日本にもロッジ(彼らの集会所をこう呼びます)があるので、ご希望なら参加も出来る。

フリーメーソンに対する立場があまりに二者択一なのは問題だが、18世紀の文化史を振り返る上で、集会を開いて、ある目的のために皆で努力するというムーブメントは興味深い。実際のところフリーメーソンとは関係ないが、フランス革命を彼らの偉業、あるいは陰謀とする説は19世紀まことしやかに語られていた。20世紀には独裁政権と社会主義国家はメーソンを禁止、弾圧していた(ユダヤ人による陰謀説が加味されたケースも多々ある)。唯一の例外がキューバのカストロというのが気にかかる。もしや・・・!

秘密結社という括りで語るとバチがあたりそうだが、18世紀中庸にスペインやポルトガルから追い出される(つまり、これらの国の植民地からも)イエズス会も、その政治への関与から言えば、興味深い。真偽は目下わからないが、1766年にスペインではエスキラーチェの乱と呼ばれる民衆の暴動が起こっていて、基本的には首都であったマドリードの事件のはずなのだが、イベリア半島のかなり広範にわたって、同時多発していることから、組織的な扇動の可能性も否定しされない。そこでイエズス会の関与が疑われもし、またこれと直接に関係があるとは言えないが、半島からの追放に至るのである。

フリーメーソンの政治的ポテンシャルの獲得と、集合的ムーブメントの規模や意義が大いに変化するのは、18世紀的コンテクストで平行して起こっている事件なのだ。関連の有無に関わらず、相互に参照して損のない現象だと思う。

18世紀スペインでは「国の友(Amigos del País)」と呼ばれる組織が生まれる。バスクが発祥なのだが(バスクの土着宗教に端を発するらしい)、社会福祉の向上、繁栄を目指す名士の集まりとして、経済同友会的色彩を帯び、他の都市でも陸続と作られ始める。

そういえば、これもまた同じ時期だが、各地でアカデミーが叢生する。中央にあるアカデミーだけがアカデミーではない。各都市に芸術アカデミー、歴史アカデミーなどがある。王の勅許を得れば、その名前にロイヤル(ロワイアル、レアル)を冠することが出来た。

人々が集合して、同一の目的のために、つまり集団的な目的に寄与するという意識を持ち始めているのだ。これは宗教的な関心から発するのであれば、古くから騎士団のようなものがあり、また経済的動機によるものならば、職業組合(アカデミーと対立した勢力だが)でも構わない。そういうものを離れて、個人より上位のレベルの目的を設定しているところが、これら新興の集団の共通点といわば言えるだろう。

スペインはメーソンリー(フリーメーソンのこと)や薔薇十字団はほとんど入ってきていない、という人もいるだろうけれど、本当にそうか?などと疑ってみると、なかなか面白いテーマなのである。先ほど述べた騎士団だって、スペインは長い伝統を持っているが、戦争がない時代に騎士団は何をしているのか、と考えてみるとますます興味深い。

いずれにしても、秘密結社によるものであれ、何であれ、人々[市民、と呼ぼうか?]が集まって共に働くことの重要性が増す事実を無視して、アンシャン・レジーム神話を純朴に信じていても、18世紀ヨーロッパの姿はなかなか見えてこない気がするのである。結社は顔を持たない。フェイスレスな象徴的身体のみを持つのである。勘の良いあなたは、僕がどこへ繋ぎたいか、もう分かってしまっているはずだ。

なお、巻末資料集のモーパッサン、ジュール・ロマンのテクストがものすごく興味深い!!!

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アンテル・コネクスィオン

Macro 人と会うこと自体が仕事。

古い友人からこの言葉をきいて、ハッとした。

仕事って、いやいやする仕事じゃないよ[僕は仕事という言葉をいい意味でしか使わない]。つながりを紡ぐこと自体に価値を置くというのはすごいことだ。そして、人の生業はみな、本当はそこにあるのだ。

秋は僕にとって、色々な人に逢う季節なのだけれど。

咲いては落ちる花のように、自由だろうか。

枯れては朽ちる木の葉のように、僕は自由だろうか。

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『書を読んで羊を失う』

愛を語るのはむずかしい。
愛について語ることもむずかしい。
語れば語るほど、迂回をしながら対象から離れていくようで。
愛そのものを語る言葉をもたないせいで。
もし愛を上手く伝える人に出会ったら、その稀有な出会いを大切にした方がいい。

Tsurugaya 鶴ヶ谷真一さんの『書を読んで羊を失う』という本は、読書への愛に貫かれた一冊。けれど、本への愛を直接に語るわけではない。行間から、めくるページの間から、本を支える表紙の感触から、言葉にならない愛が滲む。押しつけがましくない。なぜなら、これは語るための愛ではないから。これは愛するための愛だから。

収められたすべての文章の、瀟洒で愛おしい韻律。

僕、こういう素敵なものはあまりたくさんの人には教えたくない。

だからあなたにだけ、ひそやかに。

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街の風景

地図は神の目線から、鳥瞰図で街を見下ろすけれど、さて実際その場所がどういう風になっているのか、なかなかつかめない。たとえば、目的地のそばにどんなビルや目印があるのか分かるといいなあ、とも思っていた。それは地図愛好とは別の、もっと実用的な理由なのだけれど。

そしたらそしたら、Googleマップにストリートビューというボタンがついていて、これを押すと街の景色を見事に再現してくれます。どうやって作ったんだろう、と思う。車に三方向を撮影するカメラを搭載したのだろうけれど、あまり速く走っていては写真がちゃんと撮れないし、後続車両に遅くても怒られるし。

いつもながら、Googleのサービスの凄さよ。現時点で都市圏のみ。でも、他の地域まで拡充するということはないとも思う。最初の目的から外れて、随分遊んでしまいそう・・・。

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対話・交流・平和・断片

Conversation Conversation: Peace is...

Conversation Pieces

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経済自然

経済の話をもう少し。

大恐慌以来の危機とオバマさんが言ったそうです。とにかく、今回のアメリカ市場の暴落を楽観できない。グローバリスムということとは別に、今回の問題の中心にあるのは「証券化された商品」を保有するすべての金融機関、投資家に影響を与えるということです。風が吹けば、が一番シンプルな形で起こったのがサブプライムローン問題。そして会社が消えるんだから、びっくりだ。

基本的に実体経済の前提となる信用が崩れたところに、その証券化された商品を「地球上のほとんどすべての人」が保有していたという分かりやすい構図。私には関係ないとうそぶくあなたでさえ、きっとお金を預けている銀行は影響を受けている。

僕がいいな、と思うところが幾つかありまして:

・日本の産業界では対米貿易からそれ以外のオルタナティブへの切り替えが進む。

・円高ドル安(その他通貨も)が進むと原油、穀物、一次産品の調達価格が下がり、物価のインフレに歯止めがかかる。

・お金を借りやすい(金利が低く保たれる。金融機関の貸し渋りは別の問題)。家を立てる人とか、車を買うとか、映画を作るとか。

・上から下、というお金の流れが変わる。発展途上国(僕はこの言葉が大嫌いだが)からの資金の引き上げもさりながら、新興国の富裕層がアメリカ、ヨーロッパに進出しやすくなる。

・家計が引き締めモードになる。結果としてエコ。

案外良い事もあるんじゃない。この状況に鑑みてどういうことを意識するかというと:

・とにかく、預金、貯蓄モードへ移行しがちだが、為替通貨として円が強くなるので外貨預金や外債が魅力的。そういう商品(投資信託も含めて)たくさんある。

・インカムゲイン(いわゆる配当収入)を期待できるそれなりの株が買いやすくなる。ゼロ金利の日本で、為替の影響を受けない魅力は大きい。

・原油も安くなりそう。ガンガン車とか乗ればいいさ。

よく海外の投資ファンドを禿鷹などと呼ぶけれど、「安い時に買って高いときに売る」という金科玉条を守っているからこういう風に呼ばれるわけだ。リーマンは買いではなかったけれど、政府救済のはいったベア・スターンズは「安い買い物」だったからなんだと思うのです。理由はよく分かりません。

で、今回メリルリンチを買ったバンカメはお金持ち向けの戦略に長けた優秀なスタッフを買い叩いたわけだ(すごく良心的に、つまり買わないと世界中が困るな、という配慮の元にですが)。銀行としての信用も上がるとともに、競争力も大幅に上がったと思うのよね。

だから、ピンチは常にチャンスと隣り合わせです。

日経平均は16日ほとんど下げだったんだけど、200以上値を上げた銘柄があります。これを先見の明があって選んだ人というのは多分いないのだけれど、基本的に巨大なストレスがかかって、どこかに噴出口ができる。そこを狙い目にする人たちだっているわけだ。ぼくとしては、その裏側でガンガン売られた一流企業を買うほうが賢明だと思うけれど。流れに逆行するのは難しいことなのね。

当たり前のことですが、マーケットで誰かが儲けたお金は、誰かが損をしたお金です。でも、マーケットの素晴らしいところは「明日も開く」ということ。リーマンが消失するように市場は消えない。大恐慌の後に証券市場が消えたら、いろんな人が困ったでしょうが、マーケットは消えてない。常に起死回生への道は開かれている。冷酷なマーケットが唯一与えてくれる保証はそこなんだよね。

この悲惨なニュースをきっかけに経済に関心を持つ人が出てきてもいいんじゃないかな、と思っています。そういう人は日経平均が1万円を割ったら、是非参戦して欲しい。マーケットは全員参加のオリンピックです。インサイダー取引や不正売買などの「ドーピング」を別にすれば、10代の少年もベテランも同じ土俵で戦える。

ヴォルテールも書いているんだけれど、宗教や政治的に対立している人たちが商品市場ではつつがなく取引をしています。ここに、超寛容があるんだよね。そのフェアネス、僕は羨望を持って見つめるものです。

当分経済から目を離せない、かな。

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経済流転

リーマンの民事再生申請、バンカメによるメリル救済。ダウは300ドル近く下げていますね(15日23時現在)。

経済は生き物ですが、とにかく今年はこれまで世界経済を牽引してきたアメリカが地に落ちる歴史的瞬間に立ち会っている。アメリカでは"Bloody Sunday"なんて書きたてていますが、大丈夫アメリカの一つや二つなくっても。まあ、それは冗談。悲惨な状況でも、この世の終りではないので悲嘆しないように、といいたいだけ。金融株の決着がついたと思えば(リーマンには悪いが)、安心材料ともなる。

とはいえ経済は長期的な目で見ると必ず成長しているので(ゆるやかにインフレするので)、一時的に落ち込んでも投げやりになってしまってはいけない。突発の下げの後は、また上がるし、そこで利益確定売りが出て、また下げて・・・上げて・・・そのくり返し。

グローバリズムという言葉が声高に叫ばれた時代に描かれていたグローブは、幻想だった気がする。想像の産物。物事は、人々の生活はそんなに単純ではない。世界を寡頭制にするのよそうよね、空想でもさ。地球全体のパノプティコンは惑星としての地球そのものでしか作れないわけだし。

今後も経済的なリスク(経済では決してネガティブな意味だけには使わない言葉ですね)は地球を自在に飛び回りながら、ドラマを生み出し続けることでしょう。

2008年、日経平均とダウ平均の連動がどんどん少なくなるようになりました(もちろん、明日は下げると思うけれど)。結局経済の躍動は決してとどまらない。グローバリズムはワン・グローブの単一化のことを示しているわけではない。

ディヴァーシティへの自由な跳躍。下げたら売りから入るのも一興。ファンダメンタル重視の人は、今こそ買い、かしら?ともあれ、深刻にならずに愉しもうよね。

日本経済は厳しい環境を戦い抜いた前期をそろそろ折り返します。

悲観よりも賞賛の念でいっぱいです。

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原油、穀物などで実体経済との乖離ということが投機的な取引について言われていますが、事故米の問題の方も負けず劣らず深刻です。責任の所在を監督レベル、刑事レベルで明らかにするのはもちろん、被害者救済を急がないと潰れてしまう蔵元が出てきてしまう。また、事故米と知らずに消費された方々(もしかすると君や僕だって・・・)へのアフターケアもしなくては。こっちは短期決戦、初動で決まると思う。福田さんの遺産を巡って、こんな風に言えたらいいよね。

「あってよかった、消費者庁。」

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最後の一献

Ryujinmaru 春に届いたお酒

(写真は蔵元から拝借)

当初葉桜の頃に親しい人たちと、その新緑を愛でながら飲もうと考えていたのだが、その機会がなくなって、一人飲んでいたのだけれどそろそろ。

十五夜は今宵、でも満月は明日。

最後の一献はベランダでその美しさを愛でながら飲むことにします。

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たべたべ:ぶすのこぶ

Busunokobu世 の淑女の皆さんか ら鉈が飛んできそう。でも、全然ぼくのせいじゃない。それだけは分かってほしい。

中学校の国語の教科書で『附子』ってありましたっけ。でも、これはそれとは関係ありません。お菓子の名前なんですが、とにかくインパクト大。

Busunokobu03開けてみると、中身もインパクト大。

食べてみると案外おとなしいのですが、びっくりしたなー、もう(特にその名前)。

文学研究で主人公の名前には特別の注意を払う必要があるんだけど、ここにもとある迫害された人々の名残りがある。有限会社沢菊はネーミングセンスが尋常ではない

昭和五年創業は伊達じゃない!!

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『百科全書』的創造のこと

先に『百科全書』をソースとしての創作の技法が生まれたはず、ということを書いたのだけれど、いかんせん具体例がないから分かりにくかったと思います。僕がどういうことを念頭において考えたかというと、ざっと次のようなことでした。

Solaya カダルソの1770年ごろの演劇(執筆年代は例によって正確には分からないのですが)に『ソラーヤ、あるいはチェルケス人たち(Solaya o los circasianos』という作品があります。チェルケスというのは今をときめくグルジアのちょいと上あたり、コーカサス山脈の麓にある国です。

まず目を引くのは「なんでそんな場所を舞台に?」ということですが、ここがポイント。

文学史的には一応説明を試みることが出来るのですが、18世紀には創作のテーマに二つのベクトルが出てきます。一つは演劇に顕著なのですが、自分の国の歴史を扱うこと。とくに、遠い時代、ほとんど伝説とか神話の時代を扱う。もう一つは異国趣味。18世紀には外国との交易品がたくさん流れ込んで、今でいう生産、消費のグローバル化が起こっていますし、博物学的関心に基づく探検やその紀行文なんかによって外国に関する知識が増えてきたこともあり(そういうことを知っていることが素敵な宮廷人ということもあったのでしょう)、興味関心の対象として外国、異国は、かなり強力なものでした。

だから、18世紀の読み物を読むと外国人が主人公だったり、外国へ旅する話なんかもかなり多く出てくる。『ロビンソン・クルーソー』とか『ペルシャ人の手紙』とか『ザ・シチズン。オブ・ザ・ワールド(もともとのタイトルは中国書簡)』とか、『ザディグ』とか、まあその他。それから、今あげた作品は大体文学史上で重要とされているものだけれど、もっとくだらない、新聞の読み物レベルでも外国の話がいっぱい出てきます。ほんと、ちょっと調べるだけでもびっくりするくらい出てきます。とにかく、こちらは小説が主だったといえるでしょう。

だから、外国を扱うこと自体は、とりわけ不自然ということでもないのでしょうか。でも、チェルケスって、やりすぎだと思うのよ。もっと、近かったりしてもいいんじゃないかな?だって、誰もチェルケスがどこか知らないし、どんな人が住んでいるかもほとんど分からないでしょ。18世紀スペインに限れば、チェルケスについての言及はほとんど見られないのです。フェイホーが「遠い(そしておそらく野蛮な)外国」というような意味でチェルケスの名を上げているほか、わけのわからないファッションをチェルケス風、と呼ぶことがあったというくらいで、多分これもマイノリティだったと思います。僕はこの二つの例しか知らないなあ。

確かに異国趣味というのはあるのだけれど、全然知らない人を、国を題材にすることは難しいんだよね。たとえば、カダルソは『モロッコ人の手紙』という作品を書いていますが、モロッコはスペインの真下で、しかもこの作品の着想は実際にモロッコから大使がやってきたことに起因しているのです(モンテスキューの『ペルシア人の手紙』も重要なソースですが)。だから、それほど突飛でもない。そこへくると、チェルケスを取り上げるのは余りに離れ業という感がします。

で、僕としては別の説明が出来ないかな、と思っている。カダルソはチェルケスについて『百科全書』で読んだのではないかな、と。

『ソラーヤ』の中に、チェルケス人の女達がタタールの汗(あせじゃなくて、ジンギス汗とかのカンね。さしあたり皇帝という意味で取ってください)に差し出される、いわば貢納物として出てくるんだけれど、これをある18世紀の研究者は人身御供を扱った中世の伝説に基づいている、と主張している。僕にいわせればそんな馬鹿なことはないんだよね。中世の伝説、という言い方は全然説明になってない。というのは、明らかでないことがほとんどだから。さらにいえば、どの作品を読んだからインスピレーションを得た、ということが矢張り言えないんだよね。そこへくると僕も弱いのですが、『百科全書』の「チェルケス」の項目にこんな記述が出てきます(第三巻458ページ)。

チェルケス (地名)ヴォルガ川とドン、あるいはタナイス川の間に位置するアジアの大国でダゲスタン、カレ王国、モンゴル、黒海に囲まれている。住人は半分はキリスト教徒、半分はイスラム教徒。一部はロシアに従属し、もう一方は独立している。チェルケスの主要な産業は毛皮の商いと女達をトルコ人やペルシャ人に売ることにある。チェルケスの女達はアジア一美しいという評判を取っている。

えー、昔の事典だから間違ったことも書いてあるでしょうし(僕が訳したから誤訳もあるかもね)、地名などよく分からないこともあるんだけど、女性を交易していることの記述がある。これはもしかすると「チェルケスといえば美人の産地で・・・」みたいなクリシェになっていたのかもな、と。

Correspondence 実はこの項目に先立って、ヴォルテールの『哲学書簡』にほとんど同じことが、もっと詳しく、書かれています。彼の『哲学書簡』という作品の第11番の手紙にチェルケスの話が出てくる。多分チェルケスに関する最も詳細な記述の一つだと思う(ちなみにその手紙のテーマは「種痘」です)。

ヴォルテールは『百科全書』の幾つかの項目を書いているけれど、多分この第三巻の時点で彼は参加していない。それに、ヴォルテールってほとんど項目を書かせてもらってない。ディドロがこいつは危ないぞ、って警戒していたみたい。まあ、実際老獪で危ない奴なんだけど・・・。いずれにしてもこの項目を書いた人(匿名だけど多分ディドロ)はヴォルテールの書き物か、彼のソースを知っていたのだろう。ヴォルテールもどこかでチェルケスに関する文章を読んだはずなので。

まあ、どちらかを参照した可能性は大きい。カダルソはフランス語が良く出来た人だし(彼のスペイン語にフランス語っぽさが残ってる)、出身校はヴォルテールと同じルイ・ル・グラン校ですから。、でもこれだけではやはり根拠不十分です。さっきの中世の伝説と同じだ。それに、『百科全書』や『哲学書簡』以外にもチェルケスの記述はあっただろうし。

では、もうひとつ、僕が引っかかった点。こっちがより重要。

その演劇の中で、登場人物でセリンというタタールの王子様がいるんだけど、その名前を先ほどの研究者は「イスラムの名前だ。ここにはキリスト教徒(チェルケス人)とイスラム教徒の戦いが描かれている」とまた馬鹿なことを書いていて・・・。

まず、宗教のことを扱うと検閲で引っかかる可能性があるので、カダルソはなるべく書かないように努めているんです。まあ、かなり初期の作品だし、実際カダルソが検閲にやられた最初の作品でもあるので、この可能性はあるのですが、その割に神様の名前とか出てこない。さらには、「神」という単語をほとんど使わないのです。「おお、天よ!」と言い換えてしまう。明らかに「宗教の話題はやばいので避けてますよ」という証拠がいっぱいあるのです。だから、セリンの名前がイスラムを示すために使われているとは僕には思えない。

それに、セリンってイスラムの名前なんですか、という疑問がある。せいぜいセーラムに近いけれど、多分セリンはトルコの女性名だ。だから、わざわざイスラムを表象するためにセリンという名前を充てるとは考えられない。

じゃあ、セリンという名前はどこから来るのか、と考えているとタタールに流れる河の名前でセリンガ川というのがあるのです。『百科全書』のセリンガの項目には「バイカル湖に注ぐモンゴルの川」というのもある(ちなみにこの項目の執筆はシュヴァリエ・ド・ジョクール)。

タタール人の王子様の名前に、ここからアイディアを持ってきたのではないかなあ・・・と思ったのです。

まあ、いずれにせよカダルソが百科全書を読んだという可能性自体を検証できない以上は全部机上の空論なのですが、そして多分検証は出来ないんだけど、僕が面白いと思ったのは、仮に『百科全書』から想を得たとしたときに、違う巻を引かないとこの二つは結び付けられないということ。つまり、タタールを調べて、また別の項を調べて、という風に芋づる式に項目の移動をしたことを想定しているんだけど、そうやって物語が生まれていくとしたら、なかなか夢があるなあ、と思う。しかもそれまでにはない創作の技法だよなあ、ということ。それまでだって、先行する文献を参照しながら作品を作るということは当然あるわけだ。でも、事典のランダムな配列のなかを、自分の関心の糸に引かれてさまよっているうちに、着想を得るという体験はたぶん18世紀以前にはないと思うのです。

かなり長くなりましたが、具体的にはこういうことを考えていたのです。セリンがタタールの王子である必然性を、イスラム説を排除しながら考えれば、あるいはある程度までは説得的になるかもしれないけれど、まあこれくらいで。

文学的ソースとしての『百科全書』という研究はほとんどないんですが、かなり面白いテーマになるでしょう。それにはフランス語が読めて、きちんと教養のある人がやらないとね。僕では荷が勝ちすぎる。スピードワゴンはクールに去るぜ。

蛇足:

もうひとつは、セリンがスラブ語ルーツなんじゃないか、と思ってもみたんだけど・・・。

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情報カード

Ficha 先日まであるスペインの戯曲に関する論文を書いていた。自発的に書くのが5年ぶり、もう研究者でもなんでもない。ただのアニヲタです。

そうそう、これ情報カード。以前名前が思い出せなくて丸善で恥をかきました。パソコンでメモを取る人が増えているとは思いますが、僕は自分の手で書かないと記憶できないのよね。今回も500枚ほど使って引用する箇所などをメモっていった。そりゃボールペンもなくなるわけだ。

部屋を散らかし、紙を浪費してわさわさ書いて、それで載らなかったら目も当てられないのだが、そしてここにこんなことを書いてしまったら、載らなかった時にもきっと報告してしまうのだろう。今回僕にとって初めてが多かったので、随分楽しめました。

たとえば、演劇を扱うのが初めてだったり、あとは日本語で書くのも初めて(修士論文は日本語だったけれど、それは僕の都合ではないのでカウントせず)。さらには、推理小説にあるような見立て、とかそういう仕掛けを色々してあります。つまり、おふざけが過ぎるので、載らなかったらという危惧が高まるのだが、別に論文書くために生きているわけじゃないので・・・。

当該の論文とは関係ないが、今回初めて『百科全書』を読みました。大型のファクシミリ版ですが、とにかく物凄いボリューム。圧倒されました。そこで僕が思ったのはね、文学的ソースとしてこれが利用された可能性は大きいよなあ、ということ。

これを拾い読みしながら着想を得るという創作の技法が絶対に1700年代に生まれているはずで、それはフォーマットとしての辞書(『哲学辞典』から『悪魔の辞典』まで)ではなく、世界の模型(シミュラクル?)としての辞書を繰りながら、読み、書く、ということ。

ただ、これを跡付けるのは非常に難しいので、仮説として提示するくらいしか出来ないかもしれない。さらには、広範な教養が要されるので、僕などにはとてもとても。

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漫画とか、あと漫画のこと

夜や明け方などに聞く虫の音の涼やかさ。秋が少しずつ。

Yotsuba 夏休みからスタートした『よつばと!』はついに秋になりました。8巻はちょっとギャグ漫画みたいになっちゃってて、僕が好きなほっとする感じは少ないのですが、それでも愛しい作品なのです。

巷で熱い『聖☆おにいさん』や『ハチワンダイバー』も買って読んでいます。それから、買ったけれどまだ読んでいない『チェーザレ』5巻も楽しみ。

しかしなんといっても今月から『ジョジョの奇妙な冒険』読破という一大プロジェクトに取り掛かっております。置き場がないので、必要な文献等を棄却しなくてはいけないなあ。

やれやれだぜ。

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長月を迎え

Pepper たわたに実る赤トウガラシ、まるで音符のように風に揺れます。

秋の抜けるような空を、こうして待つ。

昨日まで秘密の作業をしていて、肩こりがひどかった。筋肉疲労というだけではなくて、体の中の疲れがどこかにはけ口を探している。それが、たまたま肩に出た、ということなのでしょう。

泥のように眠りました。

昨日、久しぶりに大学へ行くと夏のような陽気。歩く一足ごとに、力を失っていくようでした。

大学の夏休みは長くて、あと一月残っています。一月あったらいろんなことが出来ますね。でも、目標を立てすぎるとどれも達成できずに、あとでげんなりしてしまうので、達成できてからご報告するつもりです。

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関係者立ち入り禁止

 とにかくスポーツの話題が苦手で、薀蓄も含蓄もどっこいどっこいに願い下げだ。僕としては自分が好きなスポーツが殆どないので、テレビでそれを見ることもない。例外は相撲と高校野球なのだが、この二つにしたって愛好の域にはとても達してはいないのである。
 相撲を好きな理由はシンプルさ。これは僕が子供のころから変らない。僕は相撲のルールが分からなくて困ったことがないからだ。
 高校野球については、僕に関係ないところで戦っているところが魅力で、夏の暑い折に昼ごはんか遅い朝ごはんを食べる時、テレビをつけるとやっている。これを真剣に見ると負けているチームを応援するという判官びいきが頭をもたげて、ついにはテレビの前で腕立て伏せをして、負けているチームに念を送り始める。俺がついてるぞ、頑張れ、と。フローリングがびしょびしょになって、なれないことをした僕は頭痛に悩まされるオマケ付き。
 それなのに、それなのに高校野球が好きだといって○○学園が、とか言われても困ることこの上ない。知ってる学校を応援してどうするのか?それは高校野球の妙味じゃないぜ。予想外こそ愛するべきなんだ。それを分からずに高校野球を愛でるのは見当違いじゃないか(何言ってるんだろう、僕は)。だって学校という入れ物や名前に愛着があるんじゃないんだから。今そこで劣勢に立っている人を応援したいだけなんだから。
 そのね、関係者以外立ち入り禁止、お断りですみたいな世界に嫌悪感があって、学校やら部活動やら、仕事やら研究の世界でもなんでもそういうところに顔を出さない。これは仮想の他者を敵に仕立て上げて、コミュニティの堅固さを高めるシステムと変わらない。こういう連帯感はそれ自体に安心感を産むから、存続し続けられるんだけど、そこに所属しない僕を責められてもお門違いだと思う。いや、誰も責めてはいないんだが、そういう風に感じてしまうのは要するに一人で野球を見たい、出来ることなら負けてるチームが逆転するところを目撃したい、とかそういう性格なんだろう。

 さて仮に秘密の趣味があったら、僕はそれをやっぱり秘密にして一人愉しむと思うのである。本当に立ち入り禁止のドアは開かないように作るべきだろう?

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机上の空論

Desktop机の上をしっちゃかめっちゃかにして、空想旅行。

いや、これはまだ片付いている方で・・・。本当はもっとひどい。

本当にひどい!

ところで、何をするにしても自分なりの儀式があると楽しい。

たとえば、僕スペイン語の辞書は必ずケースに片付けたいのよね。で、取り出すときは勉強するぞーという気持ちになりたい。あと、DRAE(真ん中あたりの二巻本の辞書ね)を取り出したときは、もう真剣勝負、とか。

なかなか難しいことですが。

Hyperionさてさて。

早くも長月と相成りました。僕にとっては懐かしい友達にあったり、手紙を書いたりという、心静まる季節です。

ハイペリオン』も挑戦してみます。

ひー、長い・・・。長いよ、長門さん

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