« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »

2008年6月

2008年前半を振り返る

2008年前半に読んで印象に残った本やアニメ作品等を、特に順位をつけることなく、思いつくままに挙げていきます。新しいものとは限りません。この半年、あまりたくさんの本や作品に触れられなかったのですが、以下にあげるものはすべてオススメです。

書籍:
Phillip Blom. Encyclpedie. Barcelona: Anagrama, 2006.(まるで小説のよう。まるで研究書のよう。また、まるでそのいずれでもないよう。ディドロへの、そしてジョクールへの関心がじわじわと。)

有川浩、『図書館戦争』ならびにそのアニメーション。(純粋に好き。メディア良化法もまったくの虚構とは笑えない。)

池田理代子、『ベルサイユのバラ』(どれほど多くのことを教えられたか知れない。)

平出隆『葉書でドナルド・エヴァンズに』(美しく軽やかで静謐。)

J.M.アポストリデス、『機械としての王』(ルイ14世なので、僕の専門とする時代より少し前だが、実はここでも同じ問題が起こっていたということ。)

G. M. Jovellanos. El delincuente honrado.(実によく書けている、見事な新古典演劇。鐘の音のトリックが最後に・・・。そうか、新古典演劇は推理小説と同じカタルシス構造なのだ。)

歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(読み手の偏見を最後に華麗に破砕する、これは文学史上の事件。ぼく大絶賛。)

映画:
スイス(ドイツ、イタリア合作?)映画『VITUS』(これが理想。)

アニメーション:

『涼宮ハルヒの憂鬱』ならびにそのアニメーション(アニメから先に見ました。余りに良く出来すぎ。原作も結構評価している。というか、あわせて楽しめる。テクストを読んで、あああの台詞は、と思うこともあるし、逆も然り。第二作に期待が高まる。)

『マリア様がみてる』(原作は読んでいません。でも読むつもりです。この閉鎖空間、色々な連想をさせる。絵の美しさ、そしていやらしさが無いところが好き。)

『コードギアス R2』(実は第一期より好き。ギアス能力が複数あること、権力を志向する勢力が複数あることで、より充実した物語になってきた)

『ヤッターマン』(そこまで、本当にやっていいのか、ヤッターマンよ)

音楽:
ステファン・グラッペリの一連のJazz in Paris作品(部屋いっぱいにしあわせオーラを。)

ジェフ・ベックの一連の作品(Blow by blowを差し当たり挙げておきます。)

Jean Sibeliusピアノ作品集(舘野泉さんの演奏。)

Maria Rita, Samba meu(曲はそんなに、だがこの声は天与のもの。)

その他:
県立神奈川近代文学館 『澁澤龍彦回顧展』(2008.4.26-6.8)(行って良かった。)

Web上で公開されている漫画『痴漢男』ならびに『オナニーマスター 黒沢』(どちらも素晴らしい。結構お約束というか、マニエリスティックなところがあって、そこも好き。)

Web上、あるいは雑誌紙面で話題となった『長門有希の100冊』ならびに、アニメ版で彼女が読んでいる書籍を検証した「なに読んでるの? 長門さん」のコーナー。(本を読む人は、人が本を読んでいることも幸せに思う。その一例。すごい。)


最後に、後半の目標を記しておく(多分一つ目が異様に困難)。

『ジョジョの奇妙な冒険』をすべて読みたい。

笠井潔の代表作をすべて読みたい。

Nicolas Fernandez de Moratinの戯曲を5つほど読みたい。

Cadalsoの『鬱夜』の翻訳をここに載せたい。

それでは、2008年後半も、素晴らしい作品にたくさん出会えますように!!

|

歯を巡る冒険

フォークロアにおける歯の重要性に明らかな通り、それはそれはもうのっぴきならないものなのでした。

子供時代に乳歯が抜けかける頃の気持ちの悪さ、虫歯の痛み、舌の先で触れるその形状、人体で最強に固い組織、歯(dent)の中に神(dieu)が宿っているのではないか、と思われるほど(嘘です)。

さて、ここまでの経過については以前に記したとおり。猛烈な痛みが在って、歯科診療、レントゲン、挿し歯の心棒が歯そのものを突出している、オー ヴァーインストゥルメンテーションであった。心棒の除去にあたって、場合によっては歯茎を切開するという外科的方法を採ることになるかもしれないと言わ れ、大いに怯えていたものである。

初回の診療で挿し歯を外し、その後コアを除去し、次回までは抗生物質を飲んでいたが、当然のように化膿、歯茎の膿胞が腫れ、数日後瘻孔が開き、のくり返し。人間痛みには慣れるもので、腫れ具合にも慣れ、案外平穏に過ごしていた。

今日は挿し歯の根元(これは自分の歯)の心棒を取り除くべく仮歯を外して、診療していただいた。歯と心棒素材の癒着や、歯の先に突出している部分が生体(僕の歯茎)と癒着している場合など、上手く取れない場合はやはり手術なので、ドキドキしながら口を開ける。

30分ほど口を開けていたのだけれど、終いには歯茎に内視鏡を入れられるという稀有な体験を経て、ニ分割された心棒(途中で一度折れてしまった)を無事に摘出していただいたのである。あー、良かった。本当に安心しました。

現在は空洞部分に殺菌剤を詰めてあり、今後根の治療を継続してまいります。

もうT大学歯学部に足を向けて眠れません。感謝!

--

さて、病院から戻ってきたら、先日T大学コードギアス研究会でご一緒した方より「『マリア様がみてる』が面白いです」というメールをいただき、それを見て過ごしました。

すごいなあ、このホモ・ソシアルっぷり。ガーリーなものだけでなくて、イエズス会や欧州の寄宿舎的ロマンスも含まれていて、人の呼び 名につけるラテン語、フランス語の呼称もまたゲームを深化させる(ヴィトゲンシュタインもそう言っているそうです)。閉鎖社会と伝統・継承の縦の時間軸。 いや、何より絵が美しい。

とにかくリリアン女学園に耽溺した木曜日でした。

それでは、ごきげんよう。

|

合カギあります

Llave そうそう、こちらも同じ日。

石川町を降りてすぐなので、知ってる人は知ってるでしょうか。

合カギ。階段の上か、二段目くらいか。

この左横にちゃんとお店もあるので、そちらでしょうね。そうですよね。

意図しなかった効果が得られていると思う。

過日出身大学から卒業証明書、成績証明書を取り寄せたのですが、成績の方は取得単位数が多すぎて二ページになってしまっている。教職をとっても、普通はそんなことにはならないんだけどね。

それにしても、悲惨な成績で、僕の専門であるはずのスペイン語関係の授業など目も当てられない。卒業論文くらいしかAがないんじゃないか。逆に突出しているのは副専攻だった英語で、殆どAしか見当たらない。明らかに進むべき道を誤った。

まあ、過ぎたるは及ばざるが如し、とね。

学部時代を振り返れば、今大学院で過ごしている僕の環境とは随分違っていて、性格的にももうちょっと尖っていた気がする。そも、大学の成績は先生と反りが合うかどうかで結構違うし。

専攻でAをくれているのは、僕を誉めてくれたことのある先生ばかりだ。逆にこっちが気に入らなかった相手は、向こうも気に入らなかったと見える。単純だなあ。

先生になる人は、自分が受けた授業をリピートしてしまうそうです。そも、教育メソッドの引き出しなぞ、それほどたくさんあるわけでもない。熱心に開拓していく人もあるだろうけれど、多分多くの人は自分が好きだった先生の授業を踏襲して、少しずつスタイルを身につけていくのだと思う。

小学校でも、大学でも、いい先生との出会いってかけがえない。

|

横浜の異人館で

Fiore 6月の初めころ、横浜。

文字通りの心の洗濯で、一応用事はあったのですが、その後半日オフ。

さて、横浜は観光名所としてキャラの立っている施設以外に、ポツリポツリと、入ってみると面白い場所がたくさんあります。

異人館など、その最たるものだと思う。

別にそこへ訪れて歴史を学ぼう、とかそういうのじゃないな。ただ、ゆっくりして、気分が落ち着いたらまた外に出て行く。そういう場所がいっぱい。

数もたくさんあって、僕などすべてを訪れる気にはならないのだけれど、時間が止まったような部屋がたくさんありました。

人間のんびりしてて大丈夫。

あなた一人くらい養える酸素、その他、十分。

歩調を緩めても大丈夫です。

|

J.M.クッツェー『恥辱』

Coetzee_  ハヤカワepi文庫に入ったJ.M.クッツェーの『恥辱』遅ればせながら手にとり、あっという間に読んでしまいました。流麗な翻訳、日本語としての美しさにも感嘆させられながら、ぐいぐいと引き込まれる内容。
 デヴィッド・ラウリー、52歳、セクハラ事件で職を逐われた男、農園を開く娘の下へ身を寄せるが、ここで3人の悪党に押し入られる。娘はレイプされ、自分は大怪我を負う。この土地からさるべきだと娘を説得する父と、頑なに抵抗を見せる娘。親子関係はギクシャクしながら、動物病院の手伝い、農園のささやかな作業のほかは、無職の余暇を新作オペラの執筆に費やしつつ・・・
 主人公デヴィッドの論理が通ることは作中殆ど一度としてない。立てば打たれるタイプの人物なのだが、果敢に打たれにいく。それでも何かを学んでいるのやら、いないのやら。
 史上初となる二度のブッカー賞受賞、そしてノーベル賞、世間様が盛り上がるほど、盛り下がって手に取る機会に恵まれなかったが、実はこの作品で後景にあるアパルトヘイト撤廃以後の南ア状況が、いわゆる西欧にとっての不条理として評価されているのなら、そんなブッカー賞、ノーベル賞はいらない。けれど、日常に顔を出す暴力なら、誰にでも、内戦中の国でも、平和漬けの国でも、感じられるものだから、そちらの普遍性と取りたい。
 まとまりがない、一方モラリスト的含意も多い、にもかかわらず読み進んでしまうのは語りの力だが、僕は例によって「語りの力」などという曖昧な言葉に逃げてしまう。何がすごいのか、を説明する不安。違うよと否定される不安。そういうものを脱却できない。
 あえてしよう。人の世の寄る辺無さを飾らず書いてるところが良いんじゃないでしょうか。ノーベル賞についてはこの作品のみならず、これまでの功績において表彰されたと考えたい。ブッカー賞は、どうでもいい。

 その作品の多くが、今日本では手軽に手に取れる稀有な現代作家である。彼を南アフリカ作家という時、とはいえ実際ヨーロッパ作家じゃないか、という気もするけれど(インカ・ガルシラソはスペイン作家じゃないか、というのと同じで)。もっと読んでみたいと思う作家。

330ページ、3行目「三本足」のルビ「ドリーポート」は「トリー(トライ)ポード」か。

|

Refugee Film Festival(難民映画祭)

当日の告知で申し訳ないですが、東京にある複数の外国文化機関にて、難民問題を取り扱った数多くの映画を上映する意欲的な試みが今日から!

第三回難民映画祭

それぞれの場所で異なる作品が上映されているので、まずはホームページをご覧いただくと分かりやすい。

珍しい作品が多いと思うので、お時間が許せば、是非。

|

歯痛妄言

 歯の痛みは続いています。歯茎、問題の歯の根元が膨らんでいます。これは多分内側で化膿しているのでしょう。痛いのと見目麗しくないのとで不安な為、約束の日ではないですが、明日病院へ行って見ます。頭痛、肩こりや頸の痛み、眼の痛みなど、関係ないところに波及しています。困ったちゃんだ。顔の真ん中辺りがまるで痺れているようです。

そんなときに飲みの誘いや、食事の誘いなどあるのだが、どうしても参加できません。

また、今後お酒もあまり飲めなくなるような気がします。そも6月はストレス因子が多かったためにこうなったんだろうな、とふり返って思う。以後は「好きなことしかしない」という経営方針を改めて遵守したいと思います。

今いそいそとある作業の準備をしているのだが、熱心にやっていると歯の痛みを忘れているから不思議。病気の時も殊勝に研究をしてしまうのは、不安になるせいなのだな。

ところで、僕が編集タイプの人間だと勘違いしている人が多くあって、同人誌などの話を持ちかけられることが偶にある。勿論書き手としての誘いもあるのだが、編集の実務を頼んでくるケースもある。

僕は完全主義者なので、逆に言えばそういうことにはいたく向いていないのだが。

端的に言って、批評であれ創作であれ、書き手になりたいと思う人は多く、裏方をつとめたいと思う人間は少ない。僕などはシステマティックに物事を運ぶ方が好きなので、後者に向いているという判断なのだろうが、虫のいい話もあったものだ(書き手になりたい人は書いてから売り込みに来て欲しい)。

とはいえ、場合によるな、と思ったのは今日、ある人と知り合ったため。その御仁、夢見がちな大学院生風情と違って、かなり商業ベースで売り出せそうな話をする人なのだった。

僕も随分おしゃべりだが、相手はさらに上、あまりにも為になるので、僕など最後にはノートまで取り始めてしまう始末。モジュール化して連載しても相当面白いレベルの話を聞いたのである。

今、同人誌冬の時代である。あえてペーパーメディアでviableなものを生み出す戦術は乏しい。それでも最低限の費用で僕が今作るなら、こういう感じだろう。

・A5サイズ、12ページ(つまりA3両面印刷を四つ折にして、A4で「くるみ製本」。各ページニ段)
・毎号特集を組んで、表紙は複数の書き手による関連エッセイを寄せる(テーマは僕が決める。船頭多くして・・・である)
・ゲスト執筆者への依頼(勿論原稿料を支払った上で執筆の依頼をする)
・創作にせよ、批評にせよ、連載は書き終わっている作品のみを掲載(休載を出さない)
・発行頻度は月刊
・広告を取る
・新刊本書評コーナーをつける
・映画評を載せる
・カラー面を作る
・出版社に発送
・投書、投稿を受け付ける
・誤字脱字皆無(これは難しいのだが、僕がすべての記事に目を通せるとすれば、だ)

僕が編集主幹なら僕の名前を載せる。匿名でこんなことをやっても仕方が無い。問題が生じたときに、誰が矢面に立つという責任の所在を明らかにするためだ(この日記だって僕は匿名で書いていない)。

結果として同人誌的な規模で商業誌と同じことをやることになるだろう。自己満足でつくる雑誌ではなく、執筆者がその雑誌に載った事を自慢できるような雑誌とする。基本的に出版社、他の雑誌、読んで欲しい人へのアピールを目的とし、ウェブでの閲覧も可能にする(ターゲット外の人がこちらから知ってくれるようになればいい)。

と、ここまで書くと発行部数からおのずと経費も計算でき、案外1、2年くらいなら出来そうな案であることが分かるのだが(逆にこれくらいのことがパッと想定できない人は同人誌向いてません)、歯が痛い今はそれどころでもないのである。

そも、かっこいいタイトルも思い浮かばないし。

|

僕が憶えているささやかなこと

shapes of the night

--
 ポークソテーと、グリルしたブロッコリーにチーズをかけた料理で夕食をとって、時計を見ると9時半を廻ったところだった。その日空けたロゼはあまり強くなくて、僕も彼女も酔ってはいなかった。
 前夜、彼女がシャワーを浴びに行っている間、ナイトテーブルの上に置かれた避妊具の箱を手にとって、12個入りのそれに4つしか残っていないのを見て(1つはその直前に使ったばかりだ)、他の7個はどんな男が使ったのだろうとぼんやり考えていた。僕もコンドームを持っていたが、二人裸になった時、彼女がいそいそとそれを持ってきたので、こういう場合は女の好きなようにさせるべきなのだと、僕は経験で知っている。
 こういうときに、残った避妊具の数を数えるなど、我ながら不幸を呼び寄せそうな行為だと思う。
 そしておよそ一日経った今日の夕食である。使った皿とグラスを片付けて、テーブルクロスの上のパンの欠片を小さな箒で新聞の上に掃いて載せて、捨てる。
 片付けが済む。僕たちは二人ともテレビを見ないので、ソファの上に寝転がって、彼女は仕事の書類に眼を通し、僕はまだ読んでいなかった新聞の日曜版に付いてくる雑誌をパラパラとめくる。彼女の部屋は、読書をするには少し暗い。けれど、照明のことを持ち出して僕たちは以前小さな口論をしたことがあるので、そのことは口には出さないでおく。
 11時を過ぎた頃、そろそろ帰るよといって彼女の部屋を出る。建物の玄関まで見送りに来てくれるかと思ったけれど、彼女は戸口までやってきておやすみなさいとキスをくれただけだった。僕はなんだか損をしたような気持ちになって、9月の夜の道をくさくさしながら早足で歩いて帰った。

|

歯なし

歯のことを。

5日ほど前から歯が痛い。

僕は前歯が挿し歯なんですけれど、その辺がとても痛くなりまして、一旦歯医者さんへ行って、レントゲンなどを撮りつつ、じゃあ、様子を見ましょう。今日は歯石を取りますといわれる。全然それどころじゃないぞ。

次の日、眠れないほど痛い。眠れないから起きている。『脳病院へまいります』読了。あ、すごい時にすごい本読んだ。それから手元に『ジョン・ランプリエールの辞書』を用意。不眠症対策バッチリ!

歯というより、歯茎、歯茎というより、顔の右半分痛いです。ちょっと顔を傾けたり、しゃがんだり、それだけで鈍痛。5分おきくらいに痛いのと痛くないのが交互にやってきて、右のまぶたも痺れたように痛い。物も噛めず、麻酔が効いているときのように、歯がふわふわ浮いた感じがする。

午前三時頃、もう本も読めなくなるくらい痛みがひどい。バファリンを飲んで、朝イチで木曜日でもやっている大学病院にいってくる。幸いご近所さん。そういえば凄い雨でした。

またここでもレントゲンを撮りました。診断は大体同じなのですが、その場で被せている義歯を外してもらい、コアと呼ばれる金属の切除・剥離に3時間くらい。結局その日だけではとれなかったのだけれど、痛みは大分和らいだ。

ところで、ガッターパーチャという言葉を知っている人はあるだろうか。Gutta Perchaと綴るはずだが、TOEFLの試験問題などに時々出てくる、非常に珍しい単語。ゴムみたいな樹脂なんですけれど、これが医療用に使われている。

僕の場合歯の神経を抜いてあるので、その隙間にマッチよりすこし細いようなGutta Perchaが芯のように入っている。まあ、ここまでは問題ないのだが、当の歯が普通の永久歯より歯根の短いものなので、芯が根っこを突き抜けてしまっている。

挿し歯自体は8年ほど前に入れたものなので、その間問題なく生活できていた。今回何らかの原因で痛み始めたのだが、これを機会に取り除けるのであれば、そのほうが良い。

ただ、歯の方から簡単に取り除けない場合、歯茎を切開して、外科的に(手術して、という意味)取り出すことになる。ちょ、ちょっと、それ、恐いぞ。

とにかく、少し憂鬱になりながら、一週間ほど全面休業とさせていただきます。

--
職場や学校で、春にはたいてい健康診断がありますね。僕は最近大学へ行く用事が少ないことから、いつだったか分からなかったのですが、すでに終わっていたそうで、問い合わせても「外部で受けてください」の一点張り。でも、知らなければ受けにいけないのだから、もっと大々的に宣伝して欲しいなあ。むー、と思いながら眠る。さっさと卒業しなくては。

--
『ラーゼフォン Rah Xephon』(ボンズ、2002)というアニメがあって、非常におすすめ。音楽も素晴らしい。第四回くらいにいきなりボルヘスの引用が出てきて圧倒される。ペダントリを敷き詰めたアニメが最近(エヴァンゲリオン以降)多いけれど、僕はそういうの大層好み。この、建て前上若年者向けのカルチュアにおけるペダントリについては別に一文草するつもりだが、端的に言えば、一面ハイブラウへの憧憬と取られるが、インターテクストへの啓蒙、展開、発展となっていると、僕は思う。

読み手が書き手となって成熟するまでのタイムラグから、僕たちはそれを意識できないでいるだけなのだ。したり顔で批評する前に10年、せめて10年待て。

そして、第19話、呼吸が止まる・・・。

|

観測

seen (scene)

--
 殿瀬遼一の右手にはめたGショックが午前二時を電子音のアラームで告げた。そろそろ眠らなくては、と彼は双眼鏡を脇におく。ずしりと重いペンタックスのそれは、しかし眼前に据えると安定して、使用感も快適だった。 
 遼一は部屋の電気をつけて、本棚の裏に双眼鏡を隠しに行った。覗き趣味があると家族に知られることは恥ずかしいと思っているのだが、一方で覗く行為自体には遼一は罪悪感は覚えていなかった。彼にとってそれは風景を眺めるのとまるで変わらない。ただ、遠くにいるはずの他人の生活を垣間見ることは、安全でかつスリリングな遊びだった。
 夜になると母と妹はリビングでテレビを見るが、遼一は勉強してくると言って二階の自室に籠もり12時までは何がしかの参考書や問題集を開いて形だけでも勉強する。そして12時になると部屋の明かりを消して、レースのカーテンを引いた窓から、去年の秋に買ったペンタックスで夜の世界を眺める。
 酔っ払って電信柱で嘔吐するサラリーマンや、ネコの集会、こんな夜更けにまだ公園で抱き合う男女(遼一とそう年は変わらないかもしれない)、他人の家のベランダの洗濯物(明日は雨だと言っていなかっただろうか)、持ち主の分からない派手な下着、幼馴染の家の風呂場(もちろん小さな曇りガラスがあるだけだ)、古いアパートの三階で煌々と電気が点っている一室の部屋のテレビの色の変化(この部屋にはカーテンがないのか)、いつも電気がついている部屋、いつも電気が消えている部屋、たった今電気がついたばかりの部屋、そしてたった今電気が消えたばかりの部屋、群像は生活をルクスに託して世界に伝達している。
 遼一はある程度決まりきったコースで住民の生活を眺め回し、その日のターゲットを絞る。特段何も事件が起こらなくて良かった。ただ誰かを凝視しているということが、夜の漆黒の中で、知的な快楽となっていく。自分は一個の眼球になる。
 ゆっくりと街を徘徊するその視線のなかでパチッと光が閃いた。高台にあるマンションの6階の角部屋だった。住人が帰宅したのか、玄関の明かりがついたときに遼一はそちらにレンズを向けたが、しばらくして明かりは消えてしまった。遼一のように人間の観察を執念深く続けていると、帰宅時の人間のパターンにもいくつかの類型が出来てくる。帰るなり家中の電気をつける人と、玄関、廊下、居室やリビングと部屋を移動しながら、都度電気を点けては消す几帳面な性格と。また、照明の種類も白色蛍光灯を好むタイプと、暗い間接照明を幾つか点すタイプなどがあって、住人の性格や嗜好も多少は感じ取ることが出来る。もちろん表層をかい撫でただけの観測結果に過ぎないが。
 しかし、電気をつけるのが玄関だけだったということは、そしてすぐにその明かりが消えたということは、あるいは靴箱の上かどこかに忘れ物をしてそれを取りに帰ってきただけなのかもしれない。もう部屋の中には誰もいないだろう。遼一は無人の部屋を覗いても仕方ないと思う。そうしているうちに、スーパーの駐車場に複数のオートバイが滑り込んできたので、遼一は視線を動かしてそちらの方を観察し始める。
 時々、観察の対象と目があったと思うことがある。そんなことはありえないと分かっていても、だ。高校生くらいの頭の悪そうな連中が仲間の一人を殴りつける。喧嘩か仲間割れか。自分はそんな醜い争いを目撃したくはない。
 それから視線を逸らして、深夜のファミリーレストランの窓際に、背広を着た若い男が一人で腰掛けている姿を見る。本を読んでいるのか、うつむいている。そのような時、遼一はその本の題名さえも知りたいと思うのだが、それは叶わない願いだった。
 そろそろ今日の日課も終わりだ。最後にざっと眺望する視線で街を舐めるように眺めるのが、習慣だった。だから双眼鏡がその女の姿を捉えたのは偶然だった。先ほど、電気がついて、すぐに消えたマンションの一室、その住人はまた部屋を出たのだろうと考えていたが、その部屋のベランダにおんなの蒼白い影が立っていた。遼一の方をまっすぐに凝視しているように見えるが、そんなことはありえない。遼一は念のためレースのカーテンを引いて、その隙間から夜の世界を探検しているのだ。部屋の電灯はもちろん消しているのだし、相手がこの部屋を覗いているということはありえない。
 女はやがてするすると服を脱いだように見えた。錯覚かもしれないが、何かそういう動きの後で、女は裸の肩を見せていた。ベランダの手すりと、アクリルの目隠しのせいで首から下の様子は見ることが出来ない。
 やがて女は沈む。部屋の中へ帰ったのではなく、沈んで消える。すべてが沈黙して停止した。遼一はその後も10分ほど双眼鏡をそのベランダに向けていたのだが、女は再び現れなかった。
 そして二時になり、遼一は女の姿をもう一度見ることの出来ぬまま、床に就くことにした。一階のトイレに降りると、父親の部屋のドアの枠から光が漏れていた。遼一は最近父親の姿を見ていない。口も利いていない。仲が悪いのではなく、父が帰ってくる時間が遅く、その頃遼一は受験勉強をしているのだし、父はわざわざ部屋に顔を見に来る様なタイプではないのだ。父親のそういうところを遼一は好ましく思っていた。
 あの女はどうしただろう。足音を抑えながら二階へあがり、ベッドに潜り込む。あの女はどうしているだろう。あっという間に眠りが訪れる。遼一はその女のことをそれきり思い出さない。

|

iRiver D5

最近電子辞書が気になっています。幾つかのメーカーから出ているのですが、スペイン語で収録されている辞書は白水社のもので、小学館の西和中辞典は入っていません。だからちょっと腰が引けています。それと、紙の辞書を引くということに大変愛着があるので。

そんな折、ちょっと気になる商品。まだスペイン語辞書は入っていないのですが、とりあえずご紹介しておきましょう。

iRiver D5(画像はリンク先より拝借しています)

D5 韓国のレインコムという会社はメモリーオーディオの雄ですが、ついにこんなものも。デザインが非常によろしいですね。液晶も綺麗な感じ。これに西和中が入ったら最強なのだが、そうもいかないのだろうか。

電子辞書で使うデータのフォーマットがどういうものなのかわからないのだけれど、PCと共通になると便利ですね。僕が入れたい辞書としては:

Diccionario de la Real Academia Españolaと『英辞朗』です。この二つで、結構いろんなことがどうにかなる。

|

たべたべ

Yuzuzukushi

ドレッシングはオイリーなものを好む方と、シンプルなビネガーを好む方がありますね。僕は基本後者です。

スペインでサラダを食べる時は塩、胡椒、酢、オリーブオイルの順で掛けていきます。最後にオリーブオイルをかけるのがポイント。順番を間違えると、まったく味が付かない。

ピエトロのドレッシングなんかはオイリーで美味しい定番ですが、やっぱり油は控えめにしたいのです。振る前のボトルを見ると、いろんなことを諦めさせられるもの。

さて、ポン酢のご紹介である。鰹のたたきはもちろん、サラダにも肉料理にも合う、さっぱり系。僕など酢を好んで食酢が、このポン酢と出逢ったのは僥倖であった。

こちらは旭食品さんのゆずづくしという商品なのだが、ゆず度が非常に高い。ホームページの商品紹介の欄で、

ゆずの果汁20%以上 通常のゆずぽん酢の2倍以上を使用!
ゆずの生産日本一の高知県のゆずを100%使用。
ゆずの香りと酸味が豊富!
国内産のかつおだし使用!

とある。なんだかゴージャスだなあ。大根サラダやほうれんそうのおひたしにも必要以上の爽やかさを加味してくれる。甘酸っぱい恋に胸をときめかせる高校生カップルや、もう三十歳に手がかかろうとしている大学院生にももってこいだ。

Ryoma このポン酢の一番好きなところは、ここ。

ラベルの横になんと、坂本竜馬の姿が!!


四国は美味処ですね。

|

スノビズム、二様

 世の中には良いスノッブと悪いスノッブがある。最終的には嗜好の問題なので、厳密さを求めるわけではないが。前者は「俗物主義」という訳語とは齟齬がある。
 自分の能力や年齢、そういったものから少し背伸びをする、そうすると今まで見えなかった世界が開けてくることがある。僕が外国語の本を読み終わるときに、あるいは読んでいる時に、まだこういう感じが残っていて、かつて柴田元幸さんもある場所で、洋書を読むのに最初はそういうスノビズムから出発していいんじゃないか、ということを書かれていて、大いに力を得た。まあ、伊達とか気障とか、そういう感じに程近い。実はダンディズムなんだ。但し、未来に向って投企されている、ということがかなり大事。
 悪いスノッブは、これもまた発露は自己顕示欲なんだろうけれど、背伸びの部分がない感じ。今ある状態を他人様に示して、どうですか、私すごいでしょ、というような。成長しない。止まる。だから、何かの原動力になることは無くて、他人を不快にさせるだけで終わるのだ。僕などこの手合いとはどうしても相容れないので、なるべく相手にしないようにするが。
 いずれにしたって、スノビズムに価値を与えることは無いのだが、美意識を挫かれることに我慢がならないのだ。
 言葉の問題ならば、では前者をダンディズムと呼べばよいではないか、と短絡的に考えられるかもしれないが、夫子自身それをスノッブと呼ぶところが既にひとつのダンディズムなのですよ。

|

オロチ、牙を剥く。

Orochi_rear 先日本棚から愛車のオロチ(by タカラトミー)が落下して、電気スタンドのシェードの上をドリフトして、足の上に落ちた。きゃあ。危険運転だ。

拾い上げるとオロチが見たことないような形になっていて、「ん、壊れた?」と一瞬焦ったが、なんとリアハッチ(エンジンが後載)がご開帳!知らなかった。

いやいや、知ってた。箱にサスペンションとエンジンフードが開くって書いていた。

でも開け方が分からなかったのよ、本当のところ。そっか、落とせばいいんだ。

とにかく、ちょっと裏面から振動を加えてやるとか、手に持ったまま振るとかすると、燃費悪いエンジンが剥き出しになることが分かった(正確には、エンジンのせいじゃなくて車重のせいで燃費が高い=悪い)。

あー、良かった。一つ賢くなった。


後姿もバットモービルみたいでカッコよろしおます。

|

アラベスク

Arabesque

--
 藤崎ゆかりが階段で躓いた時、心がポキンと音を立てて折れた。ああ、自分は知ってしまったのだと、ため息をつくように思った。
 中学高校は私立の名門校で、大学は誰もが名前を知る有名校に入ったゆかりは、それでも自分は苦労が多いと感じていたし、努力も影で重ねていると理解していた。はじめから何もかも要領よくこなせる人間でないことは、自身が良く知っているし、だからこそ困難を見据え、それに対策を立てる。方向が示されれば、それを目指して歩き出す。人生はそのくり返しだった。理性的であることは、ゆかりにとってひとつの美徳であった。
 要領よく立ち回れる人間との違いを、彼女が不公平だと思わなかったわけではない。それでも、自分をしっかり保つのでなければ、どこへもたどり着くことは出来ないと思っていた。投げやりになることもあった。大学を出て、仕事を始めてからはそういうことも多くなった。仕事の量と、それに費やす努力が、正当に評価されていないと感じることは、とりわけ外見ばかり飾り立てた同期の女性達がちやほやされる環境の中で暗い苛立ちとして募っていた。
 そのように考えることは健全ではないし、しかしそれをわざわざ押し殺すこともまた、同様に健全でないことはわかっている。自分はひがみっぽいのかもしれない、と思う時でさえ、そのことを認めたうえで何とか自分としての対処をするのでなければ、どうすることも出来ないことはわかっていた。
 言うなれば美しさは絶対だ、けれどもそれを補うことは出来る。仕事で、周囲への気配りで、広く言えば努力で。そして美しさだけがすべてにおいて評価される基準だとゆかりが考えていたわけではない。強いて言えば、美しさは多くのものに振り替えることの出来るワイルド・カードなのだという理解だ。美しさは、よりよく生きていくためには頼りになる手札だった。
 そしてまた、言うなれば立ち回りの上手さは絶対だ、能力も美醜もタイミングの魔法に変えて、しかるべき時に、しかるべき位置に立つこと。感覚的なものと、所与のものと、双方が重要だ。人間の子供も、動物の子供も、幼い頃は可愛らしく愛嬌に溢れているが、それは周囲の関心を掻き立て、注意を引き、世話をしてもらうための必須条件なのだ。それを大人になってさえ身につけていれば、自分は何もしなくても、世界が何とかしてくれる。世界が自動的に奉仕してくれる、そういう人間がいる。極端に言えばカリスマなのだし、魅力なのだ。
 そしてゆかりは自分にそれが備わっていないことをよく知っていた。自分という人間の魅力の無さを、多くは努力で補っているのである。
 華々しい女達の陰で、多くの同僚達との席で、仕事の合間に給湯室で、会議の準備作業をする中で、通勤の電車の中で、自分に華がないことを、自分がただそこにいるだけでちやほやされる存在でないことを、世界はゆかりに無関心であることを、一秒ごとに心の中で言葉にして確かめた。いつでも、どこでも。彼女の生きる努力は冷静な判断によっていた。
 つまり、ゆかりはものわかりがよすぎるほど自分と他人と世界をよく分かっていた。問題を一般化してもそれは変わらない。
 たとえば、このように考えることが出来た。世界に対して、自分が抱きうる苦悩は、自分以前に誰かが既に経験しているものだと。
 あるいは、このように考えることが出来た。苦悩してもしなくても、人生に与えられた時間は有限なのだと。
 誰もがゆかりを空気のように思っている。誰もがゆかりの存在を当然のものと思い、ゆかりの仕事を当然のものと思い、ゆかりの気遣いを当然のものと思っている。一方で、そのようなゆかりの「奉仕」(と呼んでみる)を享受し、またゆかりのように気を使わずにより快適に暮らしていける人たちが多くいる。彼ら、彼女らはゆかりがいてもいなくても、要領よく世界を渡っていける。とすれば、世界は当初よりありのままなのであり、変化を望むことは不自然な事態なのである。
 勿論こうした考えは、ゆかりを長く苦しめたものだったが、それさえ既に経験されたものであり、有限な時間をこのような思考に費やすことは無意味だ。費やさないことが有意味だというわけではない。
 三月に人事異動があって、新しい部署での前任者からの引き継ぎ、これまでの部署での後任者への引き継ぎ、資料の作成、移動、新しい業務、そういったことがバタバタと過ぎて、気が付くと六月になっていた。いつ寝て、いつ目を覚まし、いつ仕事に出かけ、そしてまたいつ仕事から帰ってきたのか、昨日も、おとといも思い出せない。
 マンションのエレベーターで部屋のある6階まで行ったつもりが、降りた階は5階だった。誰かがいたずらで押したものか、自分で気づかず押したものか。それに気付いて振り返ると、エレベーターは1階へと呼び戻されていった。
 ゆかりの部屋は階段よりの部屋なので、階段を登っていった。階段の踊り場にある窓から、すこし欠けた満月が見えた。最後の一段を登り終える時に、躓きその時にポキンと音を立てて心が折れてしまった。
 誰かが悪いわけではない。こういう風にしか生きられない自分は、それとして仕方ない。それでも、そのことに満足できない自分がいる限り、生きていることは辛いことだろう。生きるなと誰も言っているわけではない、しかし、生きろと積極的に言う声も聞こえない。自分に不満を持っていること、その不満をどうにか解消しなければいけないということ、それが理解出来ているというのに、この様だ。
 きっと心はいつ折れてもおかしくなかったのだろう。ずっとその重さに耐えていたのだろう。ただ偶然、この最後の一段で躓いたのと時を同じくして、折れてしまっただけなのだ。ドラマチックなものは何一つ、そこになかった。
 ゆかりは冷静に鍵を取り出して、ドアを開ける。玄関でヒールを脱ぎ落とす音が、整理整頓された2LDKの部屋に、響く。
 孤独が恐いのではない。悲しい時に孤独であることが恐いのだ。楽しい時に、孤独は恐くない。理性は自暴自棄への跳躍を許さない。
 メイクを落とし、着替えを済ませ、朝食のプレートを洗って、冷蔵庫のミネラルウォーターを飲み、彼女は仕事机のノートパソコンを起動する。職場もプライベートも、今ではすべてが繋がっている。
 ネット上のニュースで、ゆかりは自分と同い年のアナウンサーが自殺したことを知る。容貌にも恵まれ、学歴も申し分ない。スターのように周囲にもちやほやされたに違いない、美しい女性。故人の関係者に寄れば、周囲への気配りを忘れない素敵な女性であったと。
 最強ではないか・・・。完璧ではないか・・・。
彼女のことは知らなかったけれど、テレビで見たこともなかったけれど、もしも知っていたならば、もしも身近にいたならば、ゆかりに強いひがみをもたらす原因となりうる女性だったろう。彼女が自分で死を選んだということ。
 この人も、心が折れてしまったんだわ・・・。
 液晶の画面を見たまま、ゆかりは動けなかった。自分でも、自分でなくても、生き死には、生きることと死ぬことは、こんなにもあっけなく、弁護も出来ない。ひがんで生きる自分も、時に愛され、時に妬まれていたであろう人も、このように死を選ぶ時には同じように軽い翼のように高く飛び立つ。
 動くことを止めなければ。
 ゆかりは直感でそう分かった。動いているものは仕方ない。止めることも一つの運動になりうる。けれど、それ以外で自発的な運動をすべて停止しよう。いまだ起こらざるすべてを、起こらないままにしておこう。海綿のように、沈黙していよう。なされるがままでも、なすことはせずに。自暴自棄になることは、エネルギーのいることだ。
 ゆかりはコンピュータの電源を落として、再びキッチンへ向い、冷えたミネラルウォーターではなく、蛇口から流れる水を、グラスは使わずに、直接口をつけて飲んだ。
 水道の水は頬を伝って、髪を濡らし、耳たぶを伝い、首筋から胸元へこぼれた。実際に飲むよりも多くの水がシンクに吸い込まれていった。
 手の甲で口元と頬をぬぐい、シャツの前を濡らしたまま、ゆかりはベランダに出た。歩くと軽く鈴のような音が立つタイルの上に素足で立つと、冷たさが心地よかった。六月なのに・・・。
 先ほど躓いた階段の踊り場で見た月が、今ではマンションの真上に来ていた。その光はベランダのタイルの上に落ちる、植物の影を生み出している。このマンションに引っ越した日にプランターに植えたローズマリーは低く地を這うように叢生して、爬虫類のような曲線を描いていた。その影は、先ほど見た月の光による。
 ゆかりの影も、白いタイルの上に心もとなく短く、水溜りのように広がっている。ゆかりは前の濡れたシャツを脱いで、先ほど着替えたスウェットのパンツも脱いで下着だけになってみる。肌寒さが全身に行き渡る。月光の注ぐベランダは、夜に浮かぶ白い舞台だった。やがて彼女はブラジャーを外し、ショーツを脱ぎ、それらを低く生い茂るローズマリーの上に脱ぎ捨てる。
 今一個の肉体として月の光を浴びるゆかりは、タイルの上に身を横たえる。冷たい、固い感触が肩に、背中に、腰に、ふくらはぎの後に、後頭部に、二の腕の裏側にしっかりと生まれる。
 このままこうしていることは出来ないだろう。このまま死んでしまうということは苦しいだろうし、抵抗はそれもまた運動である。だから、彼女は程よい時点で身を起こし、下着を拾い上げて、熱いシャワーを浴びに行くだろう。慣性の法則で、彼女は起き上がり、呼吸し、睡眠し、食し、排泄し、一秒ごとに死んでいくだろう。それでも無為は、これまでのゆかりの人生においては、ささやかな反逆となるのだった。
 月光に照り映える陰毛と、自分の下腹部に落ちるその影を、少し頸をもたげて眺めてみる。抽象絵画のようなとらえどころのない形象が、真っ白な肉体と月夜に浮遊している。ローズマリーの枝を手折る。一瞬にして香りがベランダに溢れかえる。そしてまた一本、枝を手折る。アラベスクを描くその枝えだをゆかりは自分の裸体に載せていく。
 噎せ返りそうな強い匂いの中で、彼女は少しだけ泣いた。涙は目尻から真横にこぼれて、耳の上部へ垂直に伝い、髪を濡らした。

|

« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »