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2008年5月

タバタバイ

ドイツ映画に『バンディッツ』(カーチャ・フォン・ガルニエ監督)という作品があって、アメリカの同名作品やリメイク(予定?リメイク権をあの方が買ったという話でしたが・・・)は関係なく、かっこいい音楽映画。

刑務所の中で結成されたガールズバンド、バンディッツがCDを出して、大人気に。それに乗じてメンバー四人が脱獄を試みる、という・・・。映画の中でも出てきたサントラ(バンディッツのアルバムという位置付け)は余りに素晴らしく、僕など二枚持っている(僕は好きな作品を何枚も買ってしまう)。

そのバンドのリーダー的存在の女性を演じていたのがヤスミン・タバタバイ(Jasmin Tabatabai)。ヤスミンは実際にシンガーでもある女優。タバタバイという苗字は彼女のルーツが中東の方であることを想起させる(テヘラン)。

以前フランクフルトの町を歩いている時に、彼女のコンサートのポスターを目にして、ああ、本当にミュージシャンなんだなあ、と思いました。

そしたら、先日また別の場所で彼女を発見。

四分間のピアニスト(Vier Minuten)』という作品。同じくドイツ映画。音楽映画。そして刑務所映画。この中に出てくる、意地悪な女囚役がヤスミン!ピアノの上で卓球したり、就寝中の主人公の手にシーツを巻きつけて火をつけたり、もうやりたい放題!

受刑者にピアノを教えることになった老女(クリューガーさん)は、特異な音楽の才能を持つ女囚(ジェニー)を是非コンテストに出したいと思うがレッスンは手錠付き、脱走未遂で外出も許可されない。定年を迎えるクリューガーさんは奥の手に・・・。

才能があればOK、とにかくハッピィエンドという感じで見るとつまらないのだけれど、何故この映画が作られなければいけないのか、ということを考えると面白いかも。主人公が実は無罪、ということとクリューガーさんの過去との結びつきも特にないのだが、個別に考えると面白いテーマかも。作品の献呈が実際のクリューガーさんに宛てられていること考えると、何かあるのかも。音楽もそこそこかっこいい。

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ぴこぴこ

先日、ガスもれ探知機の交換がありました。

ガスが漏れていると、音声で知らせてくれます、とのこと。

ピー、ピー、ピーという音だけでは不安をかきたてられるかもしれませんが、突然

「ねえ、ねえねえ、ちょっと、なんかガス臭くない?」

とか話しかけられたら、それもやだなあ。

Pikopiko 名前がかわいい!


この名前から察するに・・・

「ガス漏れてるぴこ。危ないぴこ」

と話しかけてくるに違いない・・・ぴこ。

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classical suicide

classical suicide

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プールの底のように青く透明な空が
坂の途切れる場所から始まる
悪意はどこにも見えないが
悲しいほど彼は自分のことを弱く頼りなく思う

今よりずっと遠い昔や あるいはずっと遠い未来に
出逢って別れたひとの名を忘れられぬせいで

グラスの中の氷が小さくなって音を立てる
テーブルの上のアイスコーヒーの奥の闇夜
それをストローでかき混ぜる彼女はきっと
人が思うよりも重い罪を背負って生きてる

青い静脈の浮き上がったフラジャイルな手首は
繊細であるがゆえ無性に傷つきやすい

気が遠のくくらいに好きな人がいるだけで
簡単に幸せになれるなんて嘘 信じられる?
この体をどんなに深く傷つけても
言葉に心はいつしかさらわれて

今はもう目の前にいるあなたに伝えるすべもなく
恋は花びらを散らす 八月の風の中に
言葉で越えられぬものが信じるに足るとしても
遠く波の彼方に置き忘れてきた二人の影


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最近新しい音源ばかりを載せてきたので、ちょっと古いものも載せてみたい。

曲自体が2001年の春、録音したのが2004年で、録音の機材はスペイン・グラナダで出逢ったギタリストの友人に貸していただきました(大変いい演奏をされる方です。オリジナル曲もとても魅力的。とにかく、ギターへの愛が深い!)。

『d'emo』というミニアルバム(4曲いり)に入っています(2004年)。

ところで、世の歌曲その大半がラブソングだということはみなさんもお気づきのはず。人間意味のない歌詞を歌うのはなかなか難しい。政治的な歌、社会的な歌、宗教的な歌(神を称える目的などから)などいろいろあるけれど、どうも人間、愛だの恋だの歌ってしまうのは平安の御世よりもっと昔から。

かくいう僕もラブソングしか書いていないのですが、その中でいろんな類型が出来てきます(タイポロジィ)。

自分の歌を、自分の思いを、というのは押し付けがましくていけません。そうじゃなくて、「彼と彼女のこと」を歌うようにすると、なんだか物語風になって良いなあ、というのが僕の経験則。これはその一例。

今よりもずっと声が若い。ギター一本で走っていくスタイルは今もあまり変わってないですね。自分でコーラスを重ね始めたのがこの頃から。でも、本当はハモリじゃなくて口でベースラインを歌いたかった(ホワイト・アルバムの「I will」でポール・マッカートニー様も)。拙いのに、演奏としてこっちの方が元気があるようにおもう。なんだか深刻で、生き物として切羽詰っている感じ、出ていますね。

冒頭の「プールの底のように・・・」という部分がメロディ付きで降って来た時に、この曲はもう殆ど出来上がっていました。

青空に延びていくこの坂道のイメージは、僕の通っていた大学がとても高い山の上にあったことから。この坂道を僕は『ネコの愉しみ』というアルバム(1998年)の「Echo」という歌の中でも歌っているので、やはり思い入れがあるのでしょうね。

この曲も、「Echo」も、いつか、遠い未来に録音しなおしたいと思っています。

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内用薬

Medicamientoここ数週間はっぴぃさんのおなかの調子悪いので、病院にクスリを貰いに行ったりしています。
病院の待合室でよその飼い主さんたちと話をしたりするのですが、下痢している仔が多いなあ。

いったいどうしちゃったのかしら。

ワンはこれからフィラリアの季節。

飼い主さんが気をつけてあげないとね。


うわの空で 五月 とおりすぎてゆくよ。

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marie

marie(音が出ます。注意!)

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息がつまりそう

もう僕ら二人 地下鉄に乗って
堕ちるところまで 堕ちるしかないかな
あれから夜は 二人きりで
ガードレールの白く浮き上がった道を
ずっと歌を口ずさんでね
廻るピアノ いたいけな幸福
時のレモン 左手に持つナイフ

いったいどこまでゆけるか
通りを行く人に目を奪われて
花と花の間に夢のような裸体 素敵な裸体

からだ繋ぎ 注ぎこんでフィーネ
雨のにおい 不愉快な液体
そして僕のすべてをオモチャにする
君を抱いているメロディ
壊れやすいもの包むように
大事に 大事にするから
迷わずに 僕と一緒においでよ


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 低くこもってきこえるのは、そういう声ということもあるけれど、そういう風に聴こえるようにしてあるからです。タイトルは「マリエ」じゃなくて「マリ」。

 伴奏は当初Prudencio Sáezのアコースティックギターで録音しようと思ったのですが、トーン、ボリュームを抑え目にしたエレキギターで弾くことにしました。こういう音を最近好きになりつつあります。人の音の好みはだんだん変遷していく。

 使っているのはハリケーン(くすっ)のストラト。それから、モリダイラはエレアコをトルネードというブランドで売っているんだよね。どういう嗜好なのか、(とーてーもー)気になる。

 僕の作る曲はとにかく短いものが多いのだけれど、その中でも随分と。詩が先に出来るので、無理やり二番をつくるということがなく、結果シングルコーラスのものが多くなります。

 とはいえ、冒頭の「息がつまりそう」から「廻るピアノ」まで息継ぎなしでいくので、僕にとっては歌うのがとても大変な歌です。

フィーネはイタリア語のFine。アルファベットで書くとファインと間違えられてしまうので、カタカナです。

 「ガードレールの白く浮き上がった道」、というのは僕の中で困っている時に浮かぶ心象風景で、夜の中をただただ白い線が続いている。ひどく寂寥とした場面、どこへいくか分からないけれど、どこかに続いているという予感もあるのだろう。

 ここに出てくる地下鉄は大阪市営地下鉄御堂筋線のこと。南は「なかもず」から、北は北大阪急行に乗り入れて、「千里中央」まで。そこからまた、霧雨のなか、一時間ほど歩いて部屋まで帰ったこともしばしば。そのころは(全然タクシー乗らなかった。

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水曜日の足取り

本郷には普段あまり縁がなく、どことなくよそ者という感がある。ゴシック様式を意識した建物を、茂る並木の緑を、仰ぎ見る噴水の高さを、自分の身近なものとは思えない。美しい場所だと思う。

大学のそばには、喫茶店などがあるべきなのだ。大学の中ではなく、その入れ物の外側に。学問が無菌室で作られるはずはない。象牙の塔の外側、とめどない会話の中で、それは飛び去る影のようにヒントをつかませるもののはず。

本郷には、僕が入ってみたいと思う喫茶店がたくさんある。残念ながら、まだその機会がない。本郷の授業が終わると、僕は飯田橋まで半時間ほどかけて歩いていく。ギンレイで映画を見て、二本目が終わるのが、そう八時ごろ。

神楽坂は東京で僕の好きな場所のひとつだけれど、映画の後のどこか地に足の付かない気持ちでよっていくことはしない。何かのついで、では愉しめないと思うから。

夜の中にわざとらしくまばゆい、飯田橋の駅のホームに、随分と細長い電車が滑り込んでくる。

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伝言板

Dengon 携帯電話が普及して、廃れていったものはたくさんあるだろうけれど、それほどに多くの人のノスタルジィをそそらないものに、伝言板があるのだろう。携帯電話があろうと、なかろうと、使ったことが無い人も多いはず。

伝言板に書かれたメッセージは、コンテクストを欠いた他人にとって不明瞭であればあるほど、興味深いと僕は思う。逆に、そっけないメッセージでも、その筆跡や字の大きさなどから色々な想像を掻き立てる。

誰が書き、誰が消すのか。そして、誰かが伝言を書き付けている場面に出くわせば、何か人の秘密を覗き込んだような、後ろめたい気持ちにさせられるのだろう。

書簡体小説は、手紙で構成されている。もしも、伝言板のメッセージに曖昧で意味深いものが多ければ、そこから発展して小説が生まれる可能性だってあるだろう。その可能性は、今インターネット掲示板に留保されている、だろうか。

けれど、リアルタイムな情報伝達では味わいが無い。レスポンスの速さが絶対的な価値ではない。緩慢な時間の中で、そこに書き「残された」文字の、心許なさ。多くの人の目に触れながら、発信先である「肝心な誰か」の目に触れない限り、それは意味なく空中をさまよう言葉。

白墨で書き付けられたハイネの詩句の一節を、かつてJRの駅に発見して、僕は足を止め、息を止めた。誰なのか。誰がそれを書いたのか。誰にそれを書いたのか。

「らくがきをしないで」と書かれた黒板は、メッセージが書かれることを拒絶しているように見えた。ここに伝言が残されることはないかもしれない。懐かしさと寂しさを憶えて、駅を出ると雨が降り始めた。

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華がない

「華がある」というのは、大層な誉め言葉で、僕はこれまでこんなことを言われたことはありませんが、「鼻がない」などとのたまって、とある授業で恥をかく。

どういうことか。

えっと、ケプラーという天文学者がいて、彼の話が授業で扱われたとき、その有名な出来事を問われて「鼻がない」といったのですが、それはデンマーク(当時)の天文学者、ティコ・プラーエの間違いでした!

ティコは決闘で相手に鼻をそがれて、のち金属の付け鼻をしたとか。

さて、何故こんなことを、思い違いをしていたのか、というと・・・

かつて訪れた北ドイツの町で、鼻の部分が金ピカの銅像がありまして、それを僕の友人が「あれはケプラーだよ」と説明した気がするのです。ケプラーのほうがドイツっぽい名前だしね。

ケプラーはティコの助手として働き、以後ティコを越える発見もしました。まあ、それはいいんですけれど、僕が見たその銅像は結局誰のものだったのかしらね。

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