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2008年4月

学魔休息

本郷へ学魔の講義へ出向くと休講。そうだよね、ゴールデンウィークだものね。

「GWに講義するような奴は呪われよ!」と言ったとか言わないとか。

飯田橋ギンレイで『ヘアスプレー』と『ベティ・ペイジ』を見て帰る。前者は音楽ムービーなので、何があっても感動させられてしまう。人種差別の問題が大きく取り上げられている。ダンスがいっぱい、歌もいっぱい。トラボルタの女装する太っちょ母さんもなかなか。振り付けも素晴らしい。ダンスにとって、60年代はこういうハッピィエイジだったのかしら。その時代へのオマージュになっている。見たことある人はいないと思うけど『ダンスパーティ’68』という映画も大好き。『ベティ・ペイジ』は別にどうでもいい内容だった。僕はたいていの作品を誉めてしまうのだけれど、その僕にしてこの程度、つまりそれくらいどうでもよかった。見なければ良かったと思う作品は数少ないが、フランス映画「Le secret」に続いて不名誉殿堂入り・・・。

帰り道MilkyWayのシングル発売のポスターを目にする。テレビ東京系アニメ「きらりん☆レボリューション」と平行して活動するハロープロジェクトのユニット。どうでもいい?いやいや、黄色い衣装の子がとても可愛い気がする。吉川友さんですね。

それから、それから、なんといっても目を引くのはkaneboのALLIEのポスター。明らかに資生堂ANESSAに対抗する気十分で、コピーは「最強は、次へ」。なんといってもANESSAは登場した時「太陽系最強」というコピーでしたからね。加藤あいさんとエビちゃんの一騎打ち。凛とした美しさは加藤さん、でもANESSAの方が夏らしい印象。どちらも店頭ではそれぞれのイメージキャラクターの写真が添えられて販売されているので、どちらに手が伸びるか気になる。基本的に資生堂はライオンのシェアを獲るものなので(take the lion's shareで「大半のシェア、あるいは一番いいところを獲る」という意味の成句。LIONじゃないよ)、そこにどれだけkaneboが食い込めるか。がんばれー。

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Here he comes dancing...

Tunebass 僕の使用しているベースはTUNEという日本のメーカーの五弦ベースで、今でこそ多弦ベースの使用者は多いけれど、かなり早い時期に弾き始めました。

メープルを多分5枚くらいラミネートして、ネックも妙にきれいなメープル三枚あわせという贅沢なつくりでしたが、さらに恐るべきはゼブラウッドという意味不明な木目を焦がした材を表面に貼り付けてある。人間工学に基づいたデザインのはずが、座ると腿の部分に刺さってしまうくらい変なデザイン。TBというモデルで、かなりポピュラーだが、僕と同じモデル(ゼブラウッド)を持ってる人は見たことないな。

TUNEはテクニカル志向のベースプレイヤーに人気があって、ジャンル的にはジャズ、フュージョン、プログレ系のモデルといえる。別に僕はそんなのどうでもいいけどね。シマウマ柄が可愛くて買ってしまった。アクティブピックアップ、ゴトーのペグ、25フレット仕様。すべて僕には無用の長物。このメーカーは36フレットのものも作っています。きゃあ。

5本弦がなければ弾けない曲というのは、まだそんなになかったので(僕の演奏した中ではDream TheatreとTOKIOの「LOVE YOU ONLY」が5本ないと弾けない曲です)、もてあます事も多かったのだけれど、なんとなく心の余裕が出来るベースです。まあ、頑張ればどんな曲でも弾けるだろう、と。

本当はもっとたくさん弾いてあげたいのだけれど、なかなか。最近Surf's Upで弾いたのが久々。

さて、何故ベースの話をしているかというと、最近Jeff Beck(ジェフ・ベック)を聴いているからです。

Wired このベースを買って、最初の頃に演奏した曲にジェフ・ベックのCOME DANCING(アルバム『WIRED』収録)という曲があって、久々に聴くとすごい曲だな、と改めて思う。まあ、ベースはそんなに難しくないのだけれど、大層マニアックな曲をコピーしたものだと今更ながらに。このアルバム全体の雰囲気もものすごく良い。昔はよく分かってなかったよ。

それと併せてジェフの最近の作品も聴いていて、とにかく彼のファンの中では物議をかもしそうなサウンド。こんなジェフ聴きたくないと思っている人もいるだろうけれど、僕はかなり嬉しいのよね、彼が元気で。

Whoelse 『Who else!』は長い沈黙を破って作られたアルバムでしたが、これを聴いた往年のファンは腰を抜かしたのでは。なんせNine Inch Nailsみたいになってる。インダストリアルっぽい音です。その合間をがっつりとブルースも入っていて、なんというか、この人はどれくらい自分の作品への愛着があるんだろう。演奏する端から忘れて、新しい曲をプレイしてしまうような気がしてならない。

まあ、アルバム自体のサウンドはプロデューサーに誰を据えているかでもかなり変わってくるので、この人に任せたらこういう雰囲気になるな、ということも納得した上でジェフは弾いているんだろう。でも、本人が自分の作品を家で聴くことがあるかどうか。僕は無いような気がするんだけれど。それでも、ちょっと周囲の音からジェフが浮いている感もある。

Jeff 『JEFF』という自身の名を冠したアルバムも聴いています。こちらはさらにドラムン・ベース色が強くなった気がして、往年のファンはさらに苦虫を噛み潰したような顔をしているのでしょうね。実は、僕としてはジェフが周りの音に押されずに(『Who else!』からもさらに進化しているわけだ)、あるいはそこから浮かずに同じスピードで走っていくような雰囲気がすごくいいと思うのよね。

まあ、作品を出すたびにこの人はあらゆる意味で期待を裏切っていく人なので、批判しても仕方ない。だから、その音の洪水の中で耳を澄ますしかない。古いアルバムも新しいアルバムも、ジェフは一人でそこに立っている気がする。

ジェフを聴くとギターを弾きたくなる!

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Javier MaríasがReal Academiaメンバーになる。

2008年4月27日、ハビエル・マリアスがスペイン王立アカデミアのメンバーとして迎えられました(選出は2006年)。アカデミアは席数が限られているので、メンバーが亡くなればその補填がされます。彼の占める席はR。前任はフェルナンド・ラサロ・カレテール。

2005年に物故した父フリアン・マリアスに続いて親子二代でのアカデミア入りは大変珍しい。入会に際しての彼の演説は「語ることの困難さ」と題されており、まさに昨年完結した三部作冒頭で扱われ、その作品の中で徹底的に問題化されていた「語ること、物語ること」の不可能性を、現代的な問いとして彼が見据えていることを明らかにしています。

「我々の仕事は子供じみているばかりでなく、愚の骨頂である。それはごまかし、詐欺、錯覚、妄想、シャボン玉に過ぎない。結局のところ、失敗するように運命づけられているばかりでなく、不可能なのだ。」

その、あらかじめ負けることが分かっている戦いに、人生の半分以上を優に賭して、マリアスが語ろう(書こう)とすることは何か。それは語ることが現実を正しく伝えないことばかりではなく、想像、創作として語られたことに眠る真実の力を大いに評価しているということだ。それは次のような言葉に、僕の目には随分力強い光として、見える。

「現実の出来事を語ることは不可能だ。語ることが出来るのは決して起こらなかったこと、発明され、想像されたことのみなのだ」

個人的に思うところでは、今文学が元気だ。いろんな国の作家が力強く次のステージを目指している。批評は追いついていないが、読者は肌の感覚でそれをより如実に感じている。その正直な感想だけが正しい。

これ以上ない権威によって、マリアスの「現在」スペイン最高の作家としての認知がなされた。

日本の出版界はどうする?

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今、葉桜

(he) Leaves

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 御茶ノ水によく行く画材屋さんがあって、その帰りに少し駅を離れたところにあるスターバックスに入る。二階にソファ席があって、そこですこし本を読んで、時折道行く人を眺めている。
 JR御茶ノ水の、聖橋口じゃない方を出て、線路と平行にまっすぐ。ディスクユニオンとかを通り過ぎて、もう少し。細長い包みを持っているのは、デザイン専門学校の学生たち。
 僕にとってお茶の水は唯一よく知っている東京であった。楽器街として有名で、近所にいくつも大学があって学生街でもある。ここから少し足を伸ばせば神田の古書街があり、小荷物で出かけて、帰りには両手に紙袋という大惨事にもなりかねない。
 千代田線という地下鉄に乗ると、各駅の間で車内の雰囲気が全然違うな、と思っていた。お役所づとめの人、大使館づとめの人、学生、それからもっとよく分からない人々。僕が高校生の時、お茶の水へは学校から電車で一本でした。地下鉄に乗ったことがない人は、地下鉄は地下鉄の匂いがするという。僕も、ずっと昔、そう感じたことがある。
 そういえば、このスターバックスではいつも二階に席を取る。この場所で待ち合わせをして、でも中々相手が来なくて、一階と二階をきょろきょろと幾たびも移動したことがあった。その時は四角いテーブルの席に座った。
 人間は場所をよく記憶している。場所は記憶に残っていて、記憶は場所を喚起するし、場所は記憶を喚起する。だから、まるで何もないはずのところで躓くように、僕は息を止めてしまうことがある。そういう時は、体の反応にいつも遅れて、ああそういえばと得心のいく自分自身がある。
 けれど、場所が変化してしまうのであれば(そこになかったものが新たに、あるいはそこにあったものが今では)、記憶も本当にあったことなのか、それともそのように思い出したいものとして捏造(なんと強い言葉)されたものなのか、どちらか分からなくなってしまう。
 今、葉桜の季節。日が落ちてしまえば新緑も、暗色に落ち込んで、僕はもう息を殺すように、階段を降りて駅へ向って歩いていくしかない。

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Javier Marías, Tu rostro mañana

翻訳の可能性は、翻訳の不可能性の中に自生している。言語の密林で、あきらめかけた時に光が指すことを信じて、ぬかるんだ道を地図もなく歩く。かつてプルーストは翻訳できないと考えた人もあったにちがいない。そして、プルースト翻訳の文体に違和感を覚えた人もあったにちがいない。それでも、換骨奪胎を経て確実に日本語は進化する。すでに進化してきた。だから、翻訳不可能性の中に可能性がある。

スペインでは昨年ハビエル・マリアス(Javier Marías)という作家が『明日のお前の顔』という三部作を完結して、読書界の話題になった(ああ、実際のところはこのタイトルさえ・・・)。

この作家、文章の腰が強く、延々と彼方まで思索を広げてしまって、日本語のプツリプツリ切れる文章とは程遠い。スペイン語としても、とはスペイン語話者にとっても、かなり手強い文章を書く人で、冒頭にプルーストを持ってきたのは、僕がマリアスの文体で苦悩させられる時にいつも遠く、マルセルのことを考えてしまうからだ。

世には翻訳権というものがあり、こういうことしてもいいのか、分からないが、ちょっと冒頭を僕なりの方法で、力ずくで日本語にしてみると次のようになる(明らかな誤り、問題点があるのは承知の上で、その上であえて)。無粋とは知りながら、多少恣意的に句読点は付け加えている。

ハビエル・マリアス『熱と槍』(三部作の第一部)の冒頭の断章
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 誰も決して何かを語るべきではない。情報をあたえ、物語を供するべきではない、存在もしなければ、この大地を踏むことさえなく、この世界に現れることもなかったものを喚起させるべきではないし、かつて存在したにせよ、いまや片目のあやふやな忘却にあるものについて思い出させるべきではないのだ。語ることは、その話が毒を内に秘めている時でさえ、贈り物であり、つながりであり、信頼を与えることであり、信頼が遅かれ早かれ裏切られないことは少なく、つながりがもつれ紛糾し、からまって終いにはナイフや剃刀を以ってそれを切り解かなければならないことも少なくない。本能に従い、時にそれに耳をふさぎ、余りにも長きにわたって無邪気であった僕のあたえた信頼のうちで、どれほどのものが手つかずで残されているだろう(次第次第に無邪気ではなくなっているとはいえ、その変化は大変緩やかなのだ)?二人の友人に寄せた信頼は、別の十人もの友人にあたえ、失われ傷つけられた信頼とは異なって、今も保たれている。父に寄せたわずかな信頼、母に寄せた慎ましやかな信頼、似通ってはいるが、同じものではなく、母へのそれは、余り長く続きはせずに、裏切られることがないか、そうなるとしても彼女の死後に、僕が不幸な発見をするか、隠されていたものが明るみに出てくるのでなければ裏切られることはないだろう。僕の姉、いかなる恋人、愛人、前妻、今の妻、あるいは想像の中の妻(しばしば姉妹は最初の、少年時代の妻となるものだ)へ寄せた信頼は、そうした関係の中で見聞きしたものが恋人、夫(あるいは一時の肉体の温もり)にとって不利に用いられざるを得ないかのようで(用いられるのは大抵議論において、深刻になりすぎることもなく、長い口論のさなか、弁証法の苦境で、理性を取り戻すために、家庭内で、追い詰められて、身を守るために)、秘密を打ち明け、自分の弱さや苦悩の証人を受け入れ、こっそりと、あるいはうっかりと、リスクを無視して、いつも僕たちを見つめる恣意的な目、僕たちの声を聴く選別的な、バイアスのかかった耳のことを忘れて、寝物語に声高に思い出を語ってしまう。

 信頼を傷つけることもまたこれに等しい。配慮なく傷つけ、破滅をもたらすばかりでなく、風向きが変わったときに、物語り、秘密を打ち明けたものに(今では後悔し、否定し、困惑して、過去を消したいと願い沈黙しているものに)照準を定めて、禁じられた武器に手を伸ばすというばかりでなく、相手の弱さ、短慮、または寛容さから得た知識を、そこから上手い汁を吸い、今振りかざし、または歪曲している(ただ風に向ってそれを口にするだけで、話が歪曲されるには十分だ)情報を、どのように知りえたかということを尊ぶこともなければ、気にもしない。愛を交わした夜の告白か、罪悪感にさいなまれた日暮れ、荒涼たる目覚め、不眠症の酔いに任せた長広舌だったか。夜であれ、昼であれ、話をした人間は、その昼や夜より先には未来がなく、言葉もまたもろともに死んでしまうかのように思って話をしたのだが、どんな時でもまだ未来は、もうほんの少し、一分、それは槍、一秒、それは熱、そしてまた一秒、それは夢(槍、熱、苦しみ、言葉、夢)はいつでもあり、終わることのない時間は次の一歩を踏み出す躊躇も手加減もなく、我々の死の後も付け加え、話し、囁き、調査し、もはや我々が耳を貸さず黙ってしまっても語り続けるのだ。黙ること、沈黙すること、それは誰一人死の後にさえ果たしえぬ大きな切望であり、まして僕などはしばしば語り、報告書をしたためさえして、質問を問うことこそ今ではないが、これまで以上に見聞きしている。何も、そう、僕は何も語るべきではなく、聴くべきではない。手の中にとどまり、繰り返されることなく、僕に仇なさぬものは何一つとしてないばかりでなく、さらにひどいことには、僕の愛する人々にくり返し仇をなしては、彼らの罪を宣告せぬものは何もないのだから。

 

 

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Nose

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―また、この鼻というたった一つの道具立てが欠けていた、あるいはむしろ押しひしがれていたばっかりに、私の生涯のいろいろな段階で、どれほどの腹立たしい失望がつぎつぎと私を追い掛け回すことになったか―

ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』(朱牟田夏雄)第十五章


 理由あって鼻を整形した。あるいは形成した。
 イギリスへ留学する友人の歓送会に出向いて、帰りが遅くなりタクシーに乗った。駅前の、ロータリーでもなんでもないところでつかまえたタクシーが、乗って五分ほどのところで急ブレーキを踏んで、僕は前の座席に激突して鼻の骨が折れてしまった。
 随分痛いし、血も出ているのだが、酔っ払っていて、まあぶつけたに過ぎないと思っていた。深夜だったこともあって、タクシー会社の連絡先を聞き、後日病院に行くことになった。翌朝目覚めると、鼻が人間のそれとは思えないほどに腫れ上がっていて、痛みも顔全体に広がっていて、水さえ満足に飲めない。
 タクシー会社に連絡して、こもった声で成り行きを話し、病院へ行くことを告げると、車を回してくれることになった。程なくして、病院の形成外科のベッドに横たわっていた。
 とにかく痛みがひどく、出血量も多かったようなので、輸血と鎮痛剤投与を経て、僕はベッドの上で問診を受けた。結果、鼻を再形成することになり、現在の軟骨組織を除去して、シリコンのパーツを入れることになった。
 体力の消耗が激しいので、その日は傷口の消毒と検査に当てて、翌日鼻を切開して、砕けた組織を除去し、プラモデルのように鼻を置き換える。麻酔をかけての手術だが、場所が顔なので、あまり効き過ぎると脳に障害を残す可能性もあると説明を受け、そうなっても文句は言いませんという誓約書に署名をさせられた。書かなければ手術をしてもらえないのだから、仕方がない。一番最後の記憶は、柔らかいボールペンのようなもので、顔の部分に線が引かれていたことで、目を覚ますと、顔を包帯でぐるぐると巻かれていた。
 もともとの鼻の高さがどれくらいであったのかは分からないが、出来上がった鼻は以前のものより随分高く、美しい気がする。通常は、元々あった顔立ちに似せて形成されるところなのだが、僕は昔の写真なども持ち合わせておらず、事態は急を要したので、まずは見てくれの良い鼻を作ってくれたのだろう。美容整形ではないのだが、結果美容整形になってしまったのだ。
 怪我をしたことは残念だが、結果としての新しい鼻には大変満足している。酒を飲めるようになったのは随分後のことだが、見知らぬ異性が僕に優しくなったと感じることが多くなった。さらに事件の顛末と鼻を「作った」話は、世の女性諸氏の関心を大いにひきつけるに足るものだった。
 粘膜組織も大いに損傷したので、嗅覚が鈍くなったが、そのほか不便なことはあまりない。人生が幾分生きやすくなった気さえしている。世の中は見た目なのだな、と今さらながらに思う次第である。

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kiss a wing

喫茶ウィング(音が出ます。注意!)

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朝からずっと 今日は雨
窓辺に光が明滅している
君のこと 思い出した
理由もないのに

哀しい歌を歌う予感がする
別にいわれはないけど

冷めたコーヒーはもういいよ
もういいよ

せいいっぱいの強がりで
涙を見せないようにした 君と
もう二度と会えなくなるって
今はまだ信じられなくて
時がすべて変えてゆくなら
言葉さえも奪ってほしいだけなんだ

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喫茶ウィングは大阪にかつてあった喫茶店。今もあるかどうか、寡聞にして知らないけれど、僕が一年余りウェイターをしていた。ミスドの上の、服屋の上。三階。

僕は今でも三本指でトレー を運ぶことが出来るけれど、ウェイターの哲学みたいなものをここで学んだ。僕に会いにくる常連さんが何人かいたことが、僕としてはささやかに誇らし い。

ところで、今の自分にとって別に重要でもないにせよ、それなりに印象的な出会いがいくつもあった。僕の手を見て、モノを作る人の手だね、といってくれたWさん。僕がスペインに行く前に、いつまでも話しかけてくれたYさん。その後彼女は大病を患って、二度と会うことはできなかった。逢えて本当に愉しかったです。本当に、本当に愉しかったです。

ギタリストの友人に「ピッキングが独特だね」と言われたことがある。この曲もそういう感じ、よく出ているのかもしれない。

エレキも弾いていて、エレピっぽく聴こえるのがそう。案外頑張り屋さん。実際エレピもあるから気をつけて。まあ、どっちがどっちか分からなくても良いんだけど。

Rain falls through my heart。英語として正しいかどうかではなく、この歌にこの言葉が降ってきたのだから、僕としてはどうしようもない。

プリンをオーダーされて、伝票にプディングと書いたら笑われた記憶がある。

シュガーポットを心を込めて磨いていた。その銀色を心から好きだった。

まかないご飯にパフェを頼んだことがある。

冬など特に、雨が降ると、一面ガラス張りの喫茶ウィングは結露がひどくて、僕は窓枠にタオルを置いていた。整然と清潔な駅ビルを通り過ぎる人々の影を見ながら、僕はいろいろなものを失っていったのだ。例えば時間。

そんなものは、いくらでも失っていい。

もう会えないのに、それでも会えて良かったと思える人が、人生に何人もいる。

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おいしい水

本を読みつつ、寝酒を嗜んでは、逆に夜更かししてしまうこと、しばしば。

Kiriko 最近江戸切子のグラスを買いまして、これでビールを飲んだら美味しいかな、と思ったけれど、どちらも色のあるものなので、いまひとつ。このグラス、水を飲んだ時が一番美味しい。

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ちらほら(この日記のことなど)

・超高速回線
 家の前の交通事故があった。血など見るのが嫌なので、恐くて外に出られない。物凄い音がした後(二回した)、野次馬の走る足音、遅れてパトカー。野次馬は超高速だ。

・詐欺対策をどうしたものか
 日中自宅にいることが多くあって、たくさん詐欺まがいの電話がかかってくる。「○○銀行の株式が上場するのでそのご案内を・・・」。世の中上手い話に飛びついてはいけないのだが、こういう電話を切った後で、どうやったらこういうの取り締まれるのか、考えてみる。一人暮らしの老人など、孤独な人は偶然かかってきた電話でも嬉しくなって、のせられてしまうのではないか。
 そこでだ、警察の中に振り込み詐欺、ネット詐欺委員会みたいのがあると思うのだけれど、そこに専用回線を作って、詐欺の電話を受けた人が、話をしながらこの専用回線をダイヤルすると、三者対話できるようにするといい。そうして、警察の人は逆探知などをいたす。そういうことが従来の電話で可能なのか、知らないが技術的には十分可能なはずである。

・この日記には
 この日記は日記だけれど、そのほかに歌を歌ったり、ささやかに小説を書いたりしている。それなので、フィクションの内容を現実と思って連絡してくれる方もあるのだが、日記部分も含めて、大体全部フィクションである。強いて言えば、あえて嘘ですよ、という意図の下に書かれているものの見分け方。各記事の末尾に「手帳小説」と書かれているもの、これは真っ赤な嘘です。この文字をクリックすると過去に書かれた「手帳小説」が一挙に読めます。「歌うたう」も同様に、こちらは最近のことだが、別の場所においてある音源へのリンクが含まれている。標題の後に、

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を使って区切ってあるものも、「こういう作品ですよ」として書いている場合が多い。
 詐欺ではないが、気をつけて欲しい。まあ、騙されてみるのも一興だが。

 なお、この日記の中では日付が前後して掲載されたり、修正を加えられたりする記事が多くあるので(僕は細かいことをクヨクヨ悩むように出来ているのだ)、時間がたって見直すと、ささやかな発見があるかもしれない。わざと見つからない場所に隠してある記事もある。一体何のためのweb日記か、分からない。

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クワイエットルームでめがね

 本郷の授業に出た帰り、飯田橋ギンレイへ、久しぶりに。

めがね
クワイエットルームにようこそ

の二本立て(4月18日まで)。

『めがね』はまったりムービー。特に事件も起こらぬ、柔らかい時間の流れを淡々とスクリーンに映す。「黄昏る」のが得意な人が集まってくるこの島で、今日も朝はメルシー体操で始まります。市川実日子さんにうっとり。あれ、見てる場所が違うぞ。音楽も素晴らしかった。

『クワイエットルームにようこそ』は美女ばかりの映画。松尾スズキ、偉い。話も非常に面白いです。ドタバタと不条理と、精神病と宮藤官九郎。嫌われ松子、自虐の詩系統でこういうジャンルが確立されつつあるのではないか、日本映画。平岩紙さんがとても気になる!

二本立てだと4時間近く同じ座席にいるので、僕のように姿勢の悪い人間には苦しい。それでも、ギンレイにはたまにふらりと来てしまうのである。

今年は本郷でひとコマ授業をとっているので、ギンレイに行く機会もふえる気がしています。

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四月も半ば

月、冴え冴えと葉桜の陰に麗し。真夜中の散歩。

もう四月も半ばなのだと、月の影を見て思う。

最近ホベリャーノスと地道に戦っている僕。

新学期が始まってしまって、怠惰に過ごしているとすぐに授業がやってきてしまうので、ディシプリン(規律)ある生活を送りたいのに。

自分に関係ない本でも、読んでよかったと思える本があるので、幅広く読みたいが、なかなか。世の皆様はいかがしておられるのか。

最近では志賀直哉『クローディアスの日記』が読みたい。

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紙、手繰る

 雨が降っている。先月の終わりごろから読み始めた本のページを捲る手、終わりに向って急ぐ手。掌のどの部分に本の重みを受けて、紙の束を手繰るかということを、案外真剣に考えることがある。
 外国のペーパーバックは、背表紙が緩やかなカーブを描いて崩れていく。好き嫌いはあるが、僕は好きだ。日本の本はそんなことがない。それも好きだ。初めて読んだ本は思い出せない。初めて読んだペーパーバックなら思い出せる。17歳の頃、英語で書かれたルポルタージュ。オーストラリアで青少年の間に広がる薬物禍を取り上げ、話題になった作品、

 それから、どれほどたくさんの本を読んだか、というよりは、どれほどわずかな本しか読んでいないか、ということだけが僕の書棚をみると明らかだ。
 アルミニウムで出来たマンションの廊下の手すりに雨が跳ね返る音がしていた。まもなく朝が訪れる。鳥の声を二度三度聴いた気がする。雨に濡れた翼は、きっと重い。
 人生の残り時間を数えるようになって、人生で読める本の数を意識するようになって、僕は前よりも孤独が恐ろしくなくなった気がする。

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Surf's Up!

Surf's Up! (注意!音が出ます)
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自分のルーツミュージックが何であるか、よく分かっていません。好きな音楽、とか影響を受けた音楽というのとも違う。いろんな楽器を演奏するに当たって、それぞれに影響を受けて、そういうのを真似して、というのは比較的分かりやすいのだけれど、自分が生まれて死ぬまでに書いたり歌ったりする音楽の根底のところは、もっと違うもののような気がする。

例えばギターもクラシック、フォーク、エレキ、フラメンコなどなど、色々と変遷を遂げてきました。エレキは誰かギターヒーローがいて、という人が多いでしょうね。ジミヘンが好きな人、ジミー・ペイジが好きな人、様々。

僕は案外The Venturesの影響が大きいんじゃないかと思っています。周りがハードロック、ヘヴィ・メタルばっかりやってる高校生時代も、ほんわかしたサーフサウンドが気になって仕方ない。

昔はまだ理解していなかったのだけれど、大人になって聞くとますます彼らの演奏のすごさが分かるようになります。上手いけれど、ヘタウマ的なところも時々あって、代表曲「ダイアモンド・ヘッド」一つとっても、理解不可能な間の取り方があるのね。

だから、こういう感じのオマージュを作りたいなと、前から思っていました。

今回珍しくベースも自分で弾いています。聴く時はルートだけのシンプルなベースが好きなんだけど(マイケル・アンソニーとかさ)、自分で弾くと案外そうはならないの、不思議ね。ちなみに僕の好きなソングライターであるAsovskiさんはベースも妙に上手い。シンガーとして、ソングライターとして、結局歌心を持っている人はどんな楽器でも歌わせることが出来るんだなあ、と思う。

また、最初の話に戻ると、好きなギターと自分の弾くギターは違うわけです。「こういうギターが好き」と思いつつ、それとはまた違うものを志向していくのもその人らしさであって、まあ何事もそうか。

好きだなあ、と思うギタリストのタイプ(エレキの場合):

ポール・スタンレイ(キッス)・・・
Paulstanley  この人はハードロックよりも古いタイプのギターを弾きますね。ドーン、デデデデ、というような。
 80年代とかは結構色々ありましたが(こざかしいプレイがはやっていたのです)、基本は泥臭い感じがする骨太ロックです。KISSにはエース・フレーリーがいて、現在アメリカン・ハードロックの高名なギタリストでエースの影響を受けていない人は殆どいないはず。故人のダイムバッグ・ダレルもファンだった。
 でも、僕はポールの垢抜けないギターが好きです。上手すぎず、カッコつけすぎず。同じバンドのジーン・シモンズさんが「エースのほうがギターは上手いが、ポールには何かネアンデルタール的なところがあって、それがいくつかの曲にマッチしていることもある」と言っていましたっけ。ネアンデルタール的といわれてもなんのこっちゃ、と思われますが、僕もそこらへんが好きなんだと思う。まあ、僕はKISSのすべてを愛しているけれどね(オリジナル・メンバー以外だって大好き)。
 シンガーとしてのポールも大好き!いつまでも長生きして欲しいものです。

エリック・ジョンソン・・・
 性格よさそうな人柄の滲んだ美しい音が好き。テクニックもすごいが、テクニックのための音楽ではなく、音楽のためのテクニックだと納得させられる。高校生時代に出逢って、速弾きが、歪が、という低次元の話題から卒業させられてしまったギタリストです。

デイヴィッド・ギルモア(ピンク・フロイド)・・・
 ストラトキャスターという楽器のいいところを余すところなく披瀝してくれる。もっとギタリストとしての評価も高まっていいと思う。Shine on you crazy diamondを聴いただけで、もう何も出来なくなるもの。

エドワード・ヴァン・ヘイレン(ヴァン・ヘイレン)・・・
 言わずと知れたスーパー・ギタリストですが、テクニックじゃなくて音楽としてすぐれているということに目を向けるべきだと思う。速いから偉いんじゃないのよ。その証拠にピアノも上手い。でも最近殆ど聴かない。ヴァン・ヘイレンを最初に発掘したのはKISSだって、知ってた?


こうやって並べた誰とも自分の演奏スタイルが似ていないのが可笑しい。好きな音楽とやってる音楽は違うんだってよく分かるね!

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作業タイプB

作業と言っても、勉強するだけなのですが、その中でも幾つかのタイプがあります。

(A)ひとつのテクストを必死に読む
日本語ならまだしも、外国語だと複数の辞書をひっくり返して読みます。これが結構デフォルト。多分人生の大半がこれ。

Atwork (B)なにやら書く
考えがまとまらぬうちから始めるなら、断然パソコンが便利。カードやメモを取る際は手で書きますが(そのほうが記憶に残るので)、それ以外ならとりあえずパソで。これが苦手。

(C)遊ぶ
これも結構デフォルト。何事も息抜きは大事です。最近部屋にはマイクスタンドが屹立し、ギターとベースが合わせて5本、部屋にあります。どうするというのでしょうか?

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L'île

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 廊下の先で藍がコホンと咳をする。ぞんざいな言葉で、そして長い腕を伸ばして、君が背中をさする。君は僕とよく似ている。優しくされすぎたから疲れた。そんな顔をしている。優しさを知っている人は強い。そう思う。
 校舎は横に長く、平べったい。田舎の学校はどこもそんなもので、修学旅行で東京へ行った時、モノレールの窓から見る景色と相まって、校舎の屋上でフットサルをする中学生の背中をまぶしく見つめた。彼らは広すぎるグラウンドを知らない。知らないことが羨ましい。知ってしまったものは、知らないを購えない。
 すごいね、都立って。窓に顔を押付けるようにして、藍がそういった。僕達は誰も相槌を打たなかったけれど、本当は知っていたんだ。全員がそう思っていた。僕達全員が、東京の中学生でないことを悔やんだ。
 日差しが翳る頃、手を洗って、カバンを抱えて帰った。西日の中を埃が舞う長い廊下が続いている。あと十年もしたら、この学校は廃校になってしまうだろう。
Lile 帰り道は海沿いの道を行く。海は凪いでいる。君の腕時計に夕日が反射している。
 動かないで、といって君が藍の頬に落ちた睫を払ってあげる。君は優しい。優しさを知っている人は優しい。そう思う。君のお母さんの柔らかな口調を思い出す。君のお母さんは東京で仕事をしていて、それから君のお父さんと知り合って、この島にやってきた。だから、僕は君のお母さんの前でどぎまぎしてしまう。
 春になれば、藍は本土の高校に通い始める。それからもっと先、高校を卒業したら島を出て、美容師になるといっている。僕たちは美容師と理容師の違いもわからない。藍は美容師という言葉を誇らしげに口にする。僕は船着場が嫌いだ。いろんなものを遠くへ運んでいってしまう。
 
 藍と別れて、僕は君と二人で石垣の上を歩いていく。夏が来るたびに、島は大雨に襲われる。長く伸びた君の影を、僕は追いかけるように歩いていく。海からの風は、塩分を吹きつけるので、金属の看板や標識、車やガードレールは次第に朽ちていく。いつも確かなものだけがここに残っている。たとえばこの石垣がそうだ。石垣の隙間に生えた、細かな苔が緑ではなく黒に見え始める。
 真空恐怖。自然は真空を嫌悪する。そんな風に、僕は沈黙を保つことが出来ず、なにかとりとめもなく言葉をつむぐ。だから、すぐに楽しくなったり、悲しくなったりしてしまう。
 それでも君は僕の言葉に耳を傾けてくれているから、やっぱり言葉を途切れさせるのは恐い気持ちでいっぱいだ。 
 石垣の間を細い階段が上っていく。僕は小さい頃、この細い階段が恐かった。道の置くには、何か見てはいけないものが僕を待っている気がした。引き返すときには、足がもつれるような気がした。だから、僕は君との距離をつめて歩く。君がいなくなってしまっては困るのだ。
 僕も君も、それぞれの家の仕事の手伝いをして、やがて大人になる。そういうことになっている。でも、僕は君が藍と同じように、いつか島を離れてしまうような気がしてならない。君のお母さんも東京の人だったから。
 僕の家の前で君と別れる。じゃあな、と君が片手を上げる。じゃあね、と僕も片手を上げる。
 路地はだんだん暗さを増す夕闇の中でひっそりと長く伸びている。緩やかな勾配をゆっくりと歩いていく君の背中は、なぜか少し浮き上がって見える。

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