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2008年2月

尽きる如月

まもなく如月が終わります。そして花月。

 三月はふいに死にたくなる月だ。
 逍遥する街路の傍らの芽もふいて、本来ならばおおきにベルグソンの生命的飛躍を痩身にさえおぼえるところだが、花の咲くのサクは、もともと古代語サキを語源にもつわけで、それは「裂く」や「先」や「坂」を同根とする。
(松岡正剛『ルナティックス』中公文庫、2005、47)

そういう季節。以前は「美しい五月」を自死の季節と恐れもしたが、三月だって同じように、「もの狂おしけれ」という雰囲気がそこかしこにある。惜しげもなく地に降る花弁を、惧れを持たずに眺めた記憶がついぞ無い。

平穏な気持ちにさせる本を読みたい。安堵させてくれる音楽を聴きたい。まだ二月。おまけの一日を窓越しの陽光浴びて、謳歌。

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UA-4FXのこと。

散財というのは聞こえが悪い。浄財で物欲を成仏させているだけである。

さて、僕はギターとか歌とか録音したかったのですよ。

というのは、先日モヒとアフロでライブの前に練習したときに、もう10年近く同じ歌歌ってないか、という疑問を抱きまして、帰ってから久々に詩を書き始めました。

アフロは曲からできるそうなのですが、僕は8割がた詩が先なので、とにかくコリコリ書いていった。

そしたら、3日くらいで6曲出来て、録音してアフロに送ろうと思ったのですが、あんまりきれいに録音できる環境ではなかったのです。

そもそも、ガットギターと歌しか編成は無いのだけれど、きれいに取れたら楽しかろうということで、俗にオーディオ・キャプチャーとか、オーディオ・インターフェイスと呼ばれているものを検索。

オーディオ・キャプチャーというのは、音をパソコンに取り入れる機械です。僕みたいにギターや歌が取りたいという人以外に、

・アナログレコード(カセット、MDも)をMP3にして聴きたい。
・ポッドキャスティングでラジオごっこ(インターネットラジオ)したい。

という人が必要とするもの。値段はピンきりですが、見た目がかっこいいのと、場所を取らないのがいいな、と思っていました。見つけたのはコチラ。ローランドのUA-4FXという機械。

01 USBでオーディオを取り込めるという。よさそうじゃないか。FXはエフェクトのことで、なんか、いろいろ出来ると書いてある。多分色々出来なくてもいいことが出来る。しかもですよ、ギターエフェクトとして必須のディストーション、コーラスまでついている。

かなりお得っぽい。

また、オーディオが好きな人には「真空管アンプシミュレーター」というものがあって、なんとなくアナログ風な分厚い音が再現できるそうだ。

で、買っちゃいました。最初は歌と生のギターを取りたかっただけなのに、エレキギターまで持ち出してきて、一人ハードロックしてみる。

あ、すごい。

めちゃめちゃ歪む(ひずむ)。

なんか、ディストーションとしての性能が非常に良い。

で、小一時間一人ヘビーメタルをして、くたくたになる。あー、イコライザーもかけたい。

それで結局、マイクで歌を録音して、という作業にまで至らない。

大体、今結構忙しくてこんなことしてる暇ない!!今日も八時間くらい机に向って仕事していた。でも、息抜きは必要だと、思い直す。

真空管アンプ風も体験してみる。

僕はBOSEのスピーカーを設えているので、もはやこんなもの必要ないのだが、音がきれいな気もする。単にブーストされてるだけなのかもしれないけれど、なんとなくバランスが良い。普通のオーディオより全然良い。ピンクフロイドとか聴きたい。

まあ、僕にはあまり必要ないけれど、ヘッドフォンでしか音楽を聴けない環境の人で、お金を掛けられる人にはオススメできる。

あ、でもBOSEに繋ぐときだってパソコンのオーディオカード経由なので、それを考慮するとやはりこれを途中に挟んだ方がいいのかもしれない。ふむ。でも机の上で邪魔だなあ。

デスクトップ(リアル)が狭いのは嫌なのよね。

問題点といえば、パソコンで作業してると時に音が途切れる。作業しないで音楽だけ愉しんでいればよいのですが、パソコン開いたらいじってしまうでしょ、普通。

あと、電源がUSBからしか取れないのは残念。ギター弾くたびにパソコン開かなきゃいけないじゃないか。

本来の目的から外れて、歪み系エフェクターとして認知された本機を入手して僕は、次にエレキをもう一本欲しくなってみたのです。

マイクもきれいに録音できるようです。よかった。

で、録音してみる。ギターと歌を別々に取るほうが良いのだろうけれど、僕はなんせ弾き語ることしか出来ないので、そこは譲れない。で、ギターはコーラスを掛けたくなり、そうすると声もキラキラになってしまって、聞きづらいことこの上ない。加えて、歌が下手なのをエフェクトでごまかしているという至極全うな自己批判が噴出。

初音ミクに歌ってもらったほうがいいじゃん!?

と思いつつ、日々練習に励んでいるのである。

そんなわけで、僕の部屋にはマイクスタンドがセットされているのですよ。

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シベリウスのピアノ作品に寄せて

一日に4時間から5時間を、秘密の作業に費やしています。お伝えできる時期が来たら、お知らせいたします。

自分の勉強でさえ、ここまでの集中力と忍耐をもって取り組んでいない僕には驚くべきことで、これが終わったら早々に自分の本業に戻りたい所存。

かくして、物欲も昂進の一途、過日CDを8枚購入。もう場所ないんだってことを、忘れたフリをして。

Siberius 忙しい僕の生活に潤いを与えてくれるのはシベリウスのピアノ作品。音楽の教科書でも、圧倒的に不細工な写真で紹介されているため、おそらく皆さんにとってもブルドッグのような険しい顔をした禿頭のおじさんという認識しかないことだろう。

僕もそうでした。

それがね、全然違うのよ。

出会いは『ペール・ギュント』のポップ感覚に魅されてグリーグのピアノ作品を探しにいった折、近くで見つけたのですが、聴いてみると、こちらのほうが僕の好みでした。

シベリウスは生涯を通じてピアノ曲を書いているので、彼のライフワークでもあり、日記でもあり。短い作品が多い。日本人は短いピアノ作品を小品と呼んでいるが、ピアノ曲が長くなければいけないという法則はない。Pieceをそういう風に訳してソナタを珍重するのは止めた方がいい。作品と呼ぼうよ、作品と。

ささやくように始まり、感情の機微をひらひらさせて終わる。どれもドラマ。どの曲もドラマ。手のひらに落ちた途端、消えていく雪の結晶のよう。高い演奏技術を要する曲が多いくせに、それと感じさせない。それでこそ。

北欧音楽に造詣が深いと評価されている、舘野泉の録音を聴いています。なんと、僕が生まれた年に録音されている。

彼のことを左手のピアニストとして知る方も多いかもしれませんが、脳溢血で倒れる前のピアニストとしてのキャリアにも当然注目するべきです。日本人ピアニストとして稀有な存在であると僕は思うの。心のこもり方が違うの。

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犬と私の10の約束

犬と私の10の約束』はまだ公開されていない映画ですが、ふとチラシを目に。もう読んだだけで・・・。

1.私と気長につきあってください。

2.私を信じてください。それだけで私は幸せです。

3.私にも心があることを忘れないでください。

4.言うことを聞かないときは、理由があります。

5.私にたくさん話しかけてください。
 人の言葉は話せないけど、わかっています。

6.私をたたかないで。本気になったら
 私のほうが強いことを忘れないでください。

7.私が年を取っても、仲良くしてください。

8.あなたには学校もあるし、友達もいます。
 でも、私にはあなたしかいません。

9.私は10年くらいしか生きられません。
 だから、できるだけ私と一緒にいてください。

10.私が死ぬとき、お願いです。そばにいてください。
 そして、どうか覚えていてください。
 私がずっとあなたを愛していたことを。

作者不詳のこの文章、もっと長いものもあるようだし、様々な言語でニュアンスは異なると思うのですが、ここに挙げたもの(映画で使用されているもの)はひらがなも多くて、大変読みやすい。きっと映画用にリライトされたのだと思います。言葉遣いなど、かなり巧み。ただごとではない。

動物を飼っても、育てられない、面倒くさくなった、といって捨ててしまう(保健所へ連れて行ってしまう人)がたくさんいます。

また、一方では、ペットの売買でお金を儲けようとする人たちがいて、劣悪な環境に動物を閉じ込めていたりします。

気軽に動物を家に迎えることは出来ません。自分より弱いものがやってきたら、自分がしっかりしないといけないからです。けれど、たくさんのことを教えてくれます。気がつかずにいたことに目を啓いてくれることもあるでしょう。本当にかけがえの無い存在になります。

人間もそうですね。

これから動物を飼いたいと思っている方に、先の10の約束を読んでもらえたらいいのにな、と思う。

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BISONについて

春は曙、パンツはBISONである。

Bison1213 BISONは泣く子も黙るベルボトムを作っている、僕が唯一愛する服飾メーカー。このメーカーが無ければ今の僕はない。ファッションなどどうでもいい僕にとって、BISONは唯一つの例外といえる。

そも一本目はなぜか北千里(大阪)のVIVRE(今はSATYだろうか)のある一角に、妙に猛々しいオーラを出しているラックがあり、そこでヘリンボーンのBISONと出会う。これはその後にもう一本購入することになる。

とにかく、あまりにも見かけることが無いので、見つけたらそれは神の采配なのだが、幸い東京にはBISON商品を圧倒的なバリエーションで扱っている素晴らしい店があり、満員電車、住宅事情の悪さ、環境汚染を差し引いてもあまりある。

一般論。

男女同権が叫ばれる今、それでもなお男性のパンツはブーツカットとかかなり控えめで、殆どストレートです(どのメーカーもそう)。まして、ベルボトムは数がなさ過ぎる(まず、作ってないメーカーの方が大半です)。その中で孤高の存在、BISONはシルエットも美しく、値段も手ごろ、生地もかっこいい、といいことずくめなわけで、高円寺のメッカへ足を運び、購入してまいりました。PALという商店街の中ほどにあります。

大好き、BISON。あー、もう時の経つのも忘れて試着。

ヘリンボーン売り切れに涙。もう会えないのだろうか。今あるものを大事に穿きますから。

BISONは岡山のメーカー。岡山はジーンズや学生服などのメーカーが沢山ある、本場なのです。きっと皆さんのデニムも(生地は)岡山出身。内田百閒と同じ岡山出身なり。

以前はネットでも殆ど情報がなかったのですが、待望のホームページが出来ました。

しかも、しかもですよ。

まったくといってベルボトムのことが紹介されていない。

意味ないじゃん!!!!!

(かなり手作り感ただようHPで、見れば見るほど、BISON商品の魅力は遠のいていくのだが、その無骨な感じが逆にそそるのも不思議な話である。)

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もう、クリシェで語るのをやめて欲しい。というか、やめろ!

誰にやめてほしいかと言うと、自分も含めて世界なのだが、

「デリダの言う散種ですよ」

「いわゆるフーコー的な権力像がね」

「構造的に生み出される他者性が」

まあ、最後の奴はいいとして、最初の方。大学生でも、大学院生でも大御所を傘に自分で意味分かってへんやろ、という話し方する人。

そういえば、阪急デパートの香水売り場には「ヤングなエグゼクティブのポテンシャルを感じさせるフレグランスです」とかいう、日本語オンリーで生活している僕には理解できないことを話す女がいたが、彼女は元気だろうか。元気だったら連絡ください。

難しい本を読んだりするのはいいけど、それを自分で言い換えられるようにしてほしいと言うことなのだ。難しいことを難しくいって、どうなのよ。

提唱者本人は新しい概念を発明なりして、今までなかったものを言おうとしているわけだ。それを、そのまま鸚鵡返しに言っても、キミが理解しているかどうか分からないじゃないですか。だから百倍くらいの言葉を賭しててでも、自分の言葉で言い換えるということがどうしても必要だと思うのです。胸にしっくり来たんでしょ。それなら、ぜひ。

それから、分からないところは何回も読むのが筋だと思うのです。そうすると、時々分かったようなひらめきが見えて、その航跡をたどっていくと、まあ間違いだったり、どうも正解だったりするのだから、何回も読む。

それと、翻訳はなるべく原著も見たほうがいいのよね。「フランス語よまれへんしー」とか思っても、とりあえずあると楽しいわ。

さて、今『アンチ・オイディプス』を読んでいます。もう、分かりません。分からないので何回も読んでいます。同じところを何回も読んでいます。展開も憶えているのに、分からないことありすぎ。

タイトル『アンチ・エディプス』にした方がいいような気がしていますが、それはさておき、この本はドゥルーズとガタリという二人の作者の名前を冠していて、どっちがどこを書いたか分かりません。実際に書いたのはドゥルーズみたいですが、実はこの本が出来るまでに二人は読書会というのをずっとやっていて、そこでずっと議論をして(会話を通じて)この本の元になる考えを培っていったわけです。それを後にドゥルーズが中心にまとめていったようです。

で、読みながら自分の中で「これって、例えばこういうことかなあ」とシミュレーションしてみる。あと、絵(イメージ)を持ってくる(描く)。近頃、僕の頭の中でCGが飛び交ってくる。そんなことをして、作者達の思ってるメッセージと違う可能性もモチロンあるのだけれど、それは仕方ない。とにかく、必死。

難解なものをさくっと分かろうとする態度は卑しい。二人が頑張って書いたんだから、読む人も頑張らなくては。二人で読むと良かったりしてね。

そう。この二人で、というところは『キン肉マン』にも通じるところがあるなあ、と思っていた(ゆでたまごはかなり役割が別れているけれど)。共同作業から生み出されたものを、その功罪を誰に帰すればよいのか?それは難しいけど、功罪を、とかいう前にテクストを愉しんで、それでいいんじゃないか。

うん。これからはもっと会話的な書き物が幅を利かせていいはずだ。これだけが正解、というロジックが多分行き詰っていて、僕たちも苦しい。本当に正解が一つだけあるならば、なぜまだ見つからないのか。結構頑張っているのに。そうじゃないな、たくさんあるのに、一つしかないころの思考方法を引きずっているから、戦争したり、セーターに味噌汁こぼしたり、図書館の本を返し忘れたりするんだろう。

そんなことを思いつつ、次の衝撃的なくだりに出会うのである。僕は息を呑んだ。

私は神になる。私は女になる。私はジャンヌ・ダルクであった、そして私はヘリオガバルスである。また<偉大なるモンゴル人>、ひとりの<中国人>、ひとりのアメリカ・インディアン、ひとりの<聖堂騎士>である。(『アンチ・オイディプス』宇野邦一訳、河出文庫、上163)

ヘリオガバルスまでは無視して、以降、これはまさしくキン肉マンではないか!

モンゴルマン、ラーメンマン、ジェロニモ、聖堂騎士はロビンマスクであろうか?ドゥルーズ=ガタリはゆでたまごに影響を受けていたんだな。

というか、

こんなこと考えてるから内容がよく分からないんだな。

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気になるもの

最近物欲がすごい。リビドーが金融の融という字から融けだし、経済のサンズイから流れ出てる。消費については言わずもがな。

でも、あんまり高いもの買ってはいけません。あとで泣きを見ることになります。

で、しょうもないものを探してネットの海をさまよっていると・・・!

なんだこれ。

Koss amazonで80件を越えるレビュー。しかも書き手がみんな熱い!ギャー。

超重低音イヤーフォーンKOSS THE PLUGです。

なんていうか、購入、装着、使用その一連の動作を考えても恐ろしい。どんな重低音が、ヘヴィ・サウンドが。これを装着してブラインド・ガーディアンとかグレツキのシンフォニー三番を再生した暁には、僕の足りない知性が吹き飛んでしまうのでは。多分ビル・エヴァンス・トリオもベースのスコット・ラファロだけ残してトリオ解散になっちゃうんだろう。

そしてKOSSをググってみる。あー、なんだこれ。すごいぞ。

さしあたり僕の心をくすぐったのは、コチラ。出てきたのは一番上なのにインパクト十分でした。

なぜここまでしなくてはいけない。というか、何故お金を払って我慢したり、苦しまなくてはいけない。KOSSは使用するものを選ぶ。

そんな選民思想、私は興味ありませんよ、と思いつつ、とっても気になるのでした。

多分買わずに、想像して愉しみます。もしキミが買ったらちょっとだけ貸してね。

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言葉、死なせない

言葉を守らないと。

言葉狩りは作家の創作意欲を殺ぐばかりか、安全圏から弱者を狙い撃ちする卑劣な暴力を助長するとして(それも被差別者、弱者のヴェールを被って、のことだ)、筒井さんの一件以来大いに反発している。

言葉は大切なものなのだ。以下、2008年から始まるアニメも楽しみな『図書館戦争』から引用する。メディアの検閲、言語統制、出版流通規制が横行する、メディア良化法という架空の法律が制定された恐るべき未来の話。

 

 家に帰って破れたカバーをセロテープで直して、十年ぶりのその本を読んだ。読むと、途中に「こじきのおじいさん」が出てきた。どうやらそれがNGワードだったらしい。
 何てバカバカしい。郁は眉をひそめた。
 そのシリーズは生き生きとした異世界を綴った温かなファンタジーで、作者がその登場人物を良化委員会の推奨する「住所不定無職のおじいさん」などと書きたくなかったということはよく分かった。読むほうだって興醒めだ。
 「こじきのおじいさん」は実は滅びたある国の王様で、主人公達を優しく見守り導く役だった。そこに使われたその単語には一切の偏見も差別もなく、物語は昔と変わらず優しかった。この本をきちんと読めば、その単語が何かを貶めるために使われた訳ではないことが分かるのに。
 これを狩るのが公序良俗か。そんなのヘンだ。(有川浩『図書館戦争』メディアワークス、2006、37)

狩ってる場合じゃない。

みんなで守っていかなければいけない。

とにかく、言語なしには愛の言葉もささやけず、
「この前貸した1000円返してくれ」、とも言えず、
「僕の歌を聴いてください!」とも言い出せない。

死活問題である。

言葉は当たり前のように消費されているが、商品であったり、武器であることもあり、外交における言語の重要性など、まったく等閑に出来ない。そういえば外国語大学がスパイ養成機関だったってこと、君は知ってた?なぜ国立だったか考えたことある?

国の命運に関わるからです。

通詞とか通訳とか、うっかりして誤訳すると国がなくなっちゃうかもしれない可能性があるので、国が育てましょう、という心意気です。

僕は私立の外国語大学を一切認めていない。そんなもんは大学でさえ、無いと思う。別に僕が認めなくても、何てことないけれど、そんな人に外大出身だなんていって欲しくない。外国語大学は国のものです(とはいえ、神戸市外大は素晴らしいと思う。神戸という土地柄と心意気ね)。

僕には結構大事なことに思えるこういった事情が、まあ、いろんな理由で覆り、昨秋僕は高卒になってしまった。

レベルが落ち、語学学校化していた側面も否定できない(案外出来ない子も入れるような大学になっていた)。僕もレベルを下げていた一人だ。されど誰しもが複数の辞書を抱えて、図書館で猛烈に勉強していたあの姿、もう東京でしか見ることが出来ないのですね。遊ばない大学生があんなにいる場所は異常。すごかった。とにかく、他の学問によそ見する暇もなく、詰め込みすぎた結果、殆ど役に立たない業界(専門性の必要ない世界)へ三流私大と等しい扱いをされながら卒業生が流れていってしまうという惨状があったことは事実。無残。

いや、それでいいのよ。普通の大学生は。大学出た後に学ぶことの方が多くって。社会は広いなって。

でも、外大生はそれではだめなのよ。

この異常に酷使された優秀な頭脳をきちんと受け入れる枠を用意できなかった外務省にも咎あり。(外交官の子供に代表される)ちょっとハイソで教養ある帰国子女ならまだしも、海外赴任組の、多分に日本語も外国語も妖しい困った子供の面倒までみる受け皿になったことが低レベル化を促進した。

北大阪の最低な立地、まるでサナトリウムのような立地も災いした。世界の言語を学べる大学は、大阪の片田舎に弧絶していた。泣く子も黙る「間谷住宅4」である。通学に最寄り駅から一時間弱。神をも恐れない所業。夜毎タイタンの咆哮が聞こえた。森に足を踏み入れたら、二度と帰って来れない場所だった。

それから、人員集めに「国際」を謳った学科を作った本人達の責任もある(国際文化学科)。じゃあ、今までは国際じゃなかったのか、と突っ込まれても仕方ない。

よそからレベルの低い研究者(中にはすごい人もいたのだろう)を集めて急ごしらえの学科を作ったが、統合で真っ先に保身に走ったのが彼ら、彼女ら。というか、あっという間に他所へ逃げ出していった。おそらく周到に準備していたのだろう。外様は外様の感に堪えない。大学の箔を良い様に利用されただけだ。もちろん、保身に走った生え抜きもいるだろう。五十歩百歩か。

ちょっと恨み節が入った。言語の大事さをアピールするつもりが、逆にないがしろにされて名前が消失したつまらん大学の話をしてしまった(蔵書印は「阪外大図」)。言語の話をするつもりだったのに、大いに脱線。とかく、言語は守らんきゃならんちゅうことで、僕が取り組んでいること。それは死語の使用である。

そも言語の死とは何か、考えるとどこまでもよく分からなくなるけれど、Lengua muertaに対してPalabra muertaなんて言えるのかしら。辞書で言えば《まれ》とか書かれているやつか。スペイン語の死語なんて分からないけれど、例えば英語でwicked(「かっこいいー!」:原義は「悪い」)なんて、今日使わないということだ。

とにかく、日常皆々様があまり使わなくなったことばを、積極的に復活させるのである。とにかく隙あらば使用する。使用されることによって、新しい息吹が吹き込まれる。

しかし、問題はそもそもの出典を僕が分かっていなかったりすることで、案外物覚えの良い僕でさえそうだから、世の中の人はきっともっとほとほとお困りであろうと推察する。

ここ二年程、積極的に復活キャンペーンを行っているのは以下の二語。

「がびーん」

「ぎゃーす!」

しかし、出典が分からないんだよなあ。僕は孫引きしているだけなのです。

「がびーん」は僕が小学生のとき、周囲の愚かな小学生たちが使っていた気がする。僕はテレビ見ない子だったから出典が不明。「だっふんだぁ」にかなり近い路線だと思うのだが。『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』の第一巻の12ページ以降、かなり多用されている。そこからの孫引き。

顔文字は:

Σ( ̄ ̄ ̄ ̄ロ ̄ ̄ ̄ ̄lll) ガビーン

らしい。どうでもいいけどね。

「ぎゃーす!」についても同様で、「ぎゃー!」でないところに、この表現の奥の深さ、懐の深さ、味わいというものが滲んでいるのだけれど、こちらは前掲書七巻の42ページに、すごい表情のマサルの台詞として出てきている。まさに使用者を選ぶ表現である(あ、六巻の91ページに両方使用されてるコマがある。マチャヒコがフユミという女性にラブレター書く回だ。)。

ただ、この時点でマサルはセクシーメイト(セクシーコマンドーをする人)ではなかったので、単純にライオンを見た人が恐怖、驚愕の余り発した言葉として理解する方が妥当かもしれない。

(ひそかにウルトラ怪獣が初出ではないかと思っている。ああ、台本が見たい。あの擬音を日本語でどう表記していたのか!)

いずれにしても、濁点が入っていて、なんだか気分も上向きになるこれらの言葉が廃れないように、日々努力している次第です。

流行ってもやだな、と思いつつ・・・。

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書籍を購うに際し、

日産のPIVO2のホームページが物凄い。乗り物酔いしそう。目が疲れました。

大学の生協書籍部で本を買うのだが、本のバーコードを読んだ後、ビターン、ビターーンと叩きつけるように、カウンターに置くのは是非止して欲しい。えっと、それ僕が買う本ですよね。テリーマンのブレーンバスターを思い起こします。

でも、そんなことを言うと

「金銭で購い、所有することに執着する下賎な大学院生め!というか、資本の何たるかもどうせ理解していないんだろ!マルクスは読んだのか?」

と思われるかもしれない。

そも、僕以外の人はどう感じているのか。

そのカウンターの上に鉛筆の芯か何かでついた汚れがあって、その上を結構白さが際立つ新刊本がするりとスライドして、読む前から表紙が汚れてしまう。

「別にきれい好きでもないくせに、人のすることにけちばかりつける了見の狭い大学院生め!」

とか思われてしまうことを恐れて口を開けずにいる。

この大学に来て、三年になります。僕はその場所で、国立大学の一年間の授業料よりは遥かに多く書籍を購っているのです。それなのにこのような対応をされているのは、ちょっとおかしい。なぜいつも上から見下されているのか、とんと分からん次第です。

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1000万パワーは伊達じゃない

昨日がバレンタインデーだったことはちゃんと知っていました。

モチロン!

最近『キン肉マン』のことが脳裏を過ぎることが増えました。死が近づいているのかもしれません。漫画の最後のほうや、続編については全く知らないのだけれど、すごくバッファローマンが気になる。ほんと、四六時中考えていて、犬を散歩させながらバッファローマンと口に出してしまうこともしばしばである。

バッファローマンは悪魔超人だったけれど、後に心変わりして正義超人になる男。もじゃもじゃ頭に角が生えていて、なんだか重そうな輪っかを足に付けています。多分すごく重い。ロビンマスクの仮面の庇の比じゃない(対ジャンクマン戦を参照)。そういえば、あの髪はかつらだった。何故アフロ。ヘアピースと呼ぶのか。ハリケーンミキサーの時にショックを吸収する働きがあるのか。お洒落なのか。こいつう。

悪魔超人たちがやられて、最後はキン肉マンに敗北を喫し、彼はサタンの制裁を受けるのだけれど、その時に自分の超人パワーを死んでしまった正義超人に分け与える。その量がまたすごい。300万パワー。ウルフマン、ロビンマスク、ウォーズマンにそれぞれ一人100万パワーです。それまでの最強超人はウォーズマンで、彼の100万パワーは師匠のロビンマスクより多かった。ウルフマンとロビンは死ぬ前より強くなってしまったわけだ。登場したときに1000万パワー。破格の強さ。というか、ウォーズマン10個分。キン肉マンに敗れた時点で300万って、まだ最強。おかしい。ちょっとおかしい。

半年振りに会った大学時代の友人に、開口一番「バッファローマンってさあ」。

アメリカにいる淑女な友達に「バッファローマンってさあ」。

ひいては、いらない紙の裏に自作バッファローマンの似顔絵を書いたりしてしまう。あれ、こんなんだっけ?

もう、ほんと、ずっと、考えてる。これは恋?

今はインターネットというすこぶる便利なものがあるせいで、バッファローマンを詳しく知りたいと思ったら、ネットに膨大な情報がある。

そこでだ。

彼がスペイン出身だなんて、知らなかったよ。

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ジグザグのスキゾフレニア螺旋を登って前人未到の読書エリアを踏査する孤独な旅人を背後から見つめる亡霊の覚書

Scherzo

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 物語は例によって水曜日に始まる。高らかに苛烈なスケルツオを反響させながら、青空に突き刺さる不愉快な建築が、女の通う大学の図書館である。弘美は図書館の階段を上がったり、下ったりして、それから和彦の居場所へ足を向ける。エレベーターを使用せずに移動するため、2月なのに弘美はうっすらと上気した顔に汗を浮かべている。土曜日の午後、二時を少し回った頃で、今日は少し早い。
 そのまま和彦に会いに行くことはせずに、手洗いの鏡の前で汗を拭き、髪型を確認し、嗽をして和彦の座るデスクに向う。
 和彦はエブリマン・ライブラリの緑や赤のくすんだ装丁の本を10冊ほど机の上に積んで、大変なスピードでページを繰っている。時に足取り軽く、時に重く、本を運んでいく司書や図書館アルバイトの学生の足音を背後に聞いている。和彦は言っていた。あれは亡霊なのだ、と。
 図書館は春休みなのに人が多い。
 多くの人がこの不細工な建物に飲み込まれて、一日の大半を過ごし、帰っていく。それでも、この世界は読み終わらないので、困ったな、という気持ちで天井に開いたガラス越しの蒼穹を望んでいると、やはり同じように、読み終わらない焦燥感に駆られた人が、息を切らして足早にフロアを横切り、書物の背の請求記号を指先でなぞるように、しかし触れることはせずに精査しては、ゆっくりと確実な手つきで一冊を取り出して、階段の上へ、下へ、おそらく下へ降りてゆく。
 彼らは図書館を憎んでいる、と和彦は言う。
 ありきたりな方法論では、この膨大な量の書物の内奥に棲む文字の羅列を、たとえ一度きりでも、すべて網膜に映すことは出来ない。すべてのページを僕の指でめくることが出来ない。読み終わらなかった本へ、読むつもりだったけれどずっとほうってある本へ、手に取るつもりもないのに間違えて手に取った本へ、彼らは深い憎悪を憶えている。それは自己嫌悪の最も洗練された形式なのだ、と和彦は言う。
 和彦は閉架式の図書館では、図書の出納作業が出棺を思わせる、と言う。けれども、出棺は弔いの行為であり、実際のところ出納は葬られた屍を検索し取り出す行為なので、整然たる納骨堂(近代的な、清潔な)から死者を召還する行為なのだ。和彦は間違っている、と弘美は思った。
 ありきたりな方法では駄目なのだ。とにかく、ここにあるすべての本を読み終わることはない。それは、不可能なのだ。毎日新しい本が届いて、書棚を埋め尽くしていく。それなのに、一日にたとえ一冊読むことが出来たとしても、読者のこの遅々たる歩みでは、一つの書棚を退治する頃には既に新しい書棚に新しい本が並んでしまう。
 和彦は考えた、と言う。読むことは止めた。ただし、全ての本の全てのページに書かれた全ての文字に目を落とそう。全てのページを指でめくろう。本の触感、重さ、匂い、そういったものだけを経験しよう。忘れてしまうかもしれないので、記憶することは放棄しよう、と。
 平日、和彦は図書館が開く八時半には既に、その自動ドアの前に立っている。少し遅い昼食と夕刻に軽食を取りに階下のカフェへ出かけるほかは、常に図書館の中の定位置で本を開き、猛烈なスピードでページを繰っていく。内容など決して目に入らない。それは和彦の目的とすることではない。
 二十一時十分前から坂本龍一の「美貌の青空」が流れて、学生達はいそいそと図書館から引き上げていく。司書たちは既に帰宅していて、学生アルバイトのA子が無駄に大きな窓を閉めて回る。和彦はそれでも腰を上げず、閉館時間です、と毎日同じ調子でA子が告げにくる二十一時八分まで書物のページをめくり続ける。
 この図書館では、「時間がないとき」には資料を机の上に出して帰ってもいい、と言うルールがある。そんなルールはいかがなものか、と弘美が尋ねると、和彦は言うのである。
 外国の大学の図書館で、読み終わった本は必ず机の上に残していくようにと書かれた張り紙を目にした。それは最初「盗んではいけませんよ」という意味なのかと思ったら、そうではなくて(もちろんそういう意味でも結構だが)、資料をもとあった場所に戻そうとはしなくてよいということなのだった。なぜなら、本など読むことは愚か、字もろくに読めない愚かな学生が、元あった場所とはまったく違う場所に本を戻してしまった場合、その本は所在不明の資料となってしまうので、それくらいなら図書館のスタッフがそれを戻した方が確実(ではないかもしれない)だというのだ。
 合理的ではないが、悪くもない、と和彦は言った。
 和彦は本のページをめくるこの作業を仕事と呼んでいる。ワークよりもジョブだな、と言っている。仕事なんだ。僕以前の誰もこんな大それた計画を実行に移した馬鹿はいない。でも、僕は今かなりの手ごたえを覚えている。もしかすると、この図書館一つくらいは僕一人で何とかできるかもしれないという予感だ。だから仕事の邪魔をしないでほしい、と言うのである。
 弘美が和彦と会えるのは週末だけだ。土曜日は十五時まで図書館が開いている。閉館時間より少し前に図書館に赴き、借りていた本を返し、またいくつか貸し出しを受けて、和彦のデスクに向う。週末に地上でただ二人生き残ったように、和彦と弘美は気が狂ったように、世界最後の日が近づいているかのように、人類最後の男女のように交じり合う。性交と喉の渇き、食事。交わるごとに和彦は死に、弘美はみなぎる生命の泉を溢れさせて眠りに落ちる。
 和彦の辛い仕事と、その背中を見つめる弘美の眼差しの代償として、パンと野菜と牛乳と、穀物、豆類、わずかな肉類、が許されているように思うのである。

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ビヨウインへ参る

最近心が落ち込むことが多くあったので、ビヨウインへ行きました。

どうしましたか、といつもの彼女がカウンセリング。

元気が出るように色彩を。

ささやかなことで、随分印象が変わりまして、元気も出た気がする。

支払いを終えて、帰り際、処方されたものはこちら。Medicamiento







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帰途(病院からの)

On Saturday

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傍観する ストラクチャの向こうで
僕は目の見えない少女に恋をする
目の見えないフリをしているだけでもいい
僕は彼女の手をとって 色彩ゆたかな愛の言葉を語りたい
けれども世界は愛の言葉にうんざりしている
来る日も来る日も 飽和した恋愛のヘミスフィアが

 降る雪を 底冷えのする夜に
 眺めながら歩いた
 下から上へ 空気を運ぶ
 小さな白い花の死骸を

口にするどんな言葉も
自分とは不釣合いだと言って
君は話すことをやめる

沈黙しながら
口を開かないことで
世界から責められているように
君は心を病んでいく

 呼吸する君を目にする
 これが最後から何番目の機会だろうと
 考えた僕を嫌いにならないでほしい

Nacht 君の腕には
もう 僕の頬をうつ力さえ
残っていないのだけれど

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焦燥感を何で購うか

Estanteria することはたくさんあるのに、なかなか上手く時間を配分できないとあせりますなあ。

そういう時はどうやってストレスと焦燥感を解消すればよいのですか。この恐らく多くの人に共通する悩みに、これというソリューションが提示されていないのは何故だ。

僕はもっぱらモノを買います。お洋服などは買いません。あくまでモノを買います。

消費で焦燥を購います。

書籍を購います。CDを購います。その他、「それ必要ないやろ?」というモノも購います。この時期に「○○良かったよ」などという話を聞くともう大変です。Amazonでの注文が一日に別口で4件、毎日ポストに何か入っています。

僕の家には毎日サンタが来ているようです。

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言語と言語を

最近携わっているある仕事、僕の読書時間を大きく削減するのだが、しかし興味深い。

スペイン語のテクストがある。これの元になったのはフランス語のテクスト。そしてこれの元になったのが日本語のテクスト。つまり、日本語のオリジナルをフランス語経由でスペイン語にしたものを読んでいて、この三種類のテクストを比較参照しながら、より日本語のオリジナルに近くなるように、スペイン語版を変えていく。

スペイン語のテクストに誤りがあったときに、それがフランス語に紛れこんだ誤りなのか、スペイン語に訳すときに(フランス語の意味を間違えたために)入り込んだものなのか、逐一チェックしている。あとスペイン語のタイプミス(まあ、誰しも幾つかはありますわね)。

さて、使っている辞書だけれど:

スペイン語ー日本語辞典
スペイン語ースペイン語辞典
フランス語ー日本語辞典
日本語辞典(いわゆる国語辞典ね)
スペイン語ー英語辞典
ほかには地図帳など

を机の上に引き散らかして作業している。至福!僕は辞書を引くのが一切苦でないので、というかむしろ引きたいので。知ってる単語でも引いて、「やはりそうであったか」と語義との再会を祝ったりしている。時々挿絵を見たくて引いてるときもある。ああ、やっぱり初版のalcachofaの方が味わいがあったよな、とか(小学館の西和の話)。

というか、辞書は読め!(小栗虫太郎様)

まあ、それは良いの。スペイン語やフランス語はともかく、スペイン語ー英語辞典については一言。

僕は日本語ースペイン語辞典(和西辞典ですね)を殆ど使いません。大学生のときからスペイン語ー英語辞典(English-Spanish/Spanish-English)です。白水社から出ている日本語ースペイン語辞典ははっきりいって使い物にならないのよ。惨憺たり。だから、「英語だったらこういうのにな」というのが分かる人には、スペイン語ー英語の辞典があれば事足りる。一冊で両方使えるのも魅力。紙質が日本と外国では違うのだが、僕は外国の辞書の方が断然好きだ。

学部生のときからHarperCollinsのもの(大きい!素晴らしい充実度!救世主!)と、トラベル用ではシカゴ大学から出ている愛くるしいペーパーバック(意外なところにファンがいて嬉しいことが・・・)のものを使っている。かつて「和文西訳(日本語をスペイン語に直す)」という授業で、クラスで僕一人日本語ースペイン語辞典を持っていなかった。先生に訝られたものだが、使える言語の選択肢があるときに、あえて日本語を経由させる必要もないではないか、というのが僕の言い分(買えといわれて後に買ったが、本当に使い道がない)。

理想を言えば、外国語は相互にリファレンシャルにならなければならないと思う。そうはいっても、語彙のレベルで「スペイン語ではこういうけれど、英語でそもそもこんなこと言わないし」というものがある。表現に至っては際限がない。僕は長い間、英語が出来るほどにはスペイン語が出来なかったので、奇妙なコンプレックスを持っていたものだけれど、最近どっちも案外出来ないという地点に着地する模様だ。でも、言語と言語は地道に繋いでいくしかない。意外なところで差異があるから味があるし。

GREというアメリカの大学院を受験するために留学生が受けなければいけない試験があるのだけれど、とにかく単語が難しい。英検一級やTOEFLの比ではありません。で、その参考書に「あなたの知っている他の言語の知識を総動員せよ!」と書いてあったのが微笑ましい。そうだよな、そうでなければ。

僕がスペイン語を習ったときに違和感ならびに不満を覚えたこと。文法事項の説明でもなんでも、英語の知識を敷衍できる際には「英語と同じでこうなります」とか教えながら、違うときには何事もなかったように説明をしないで通り過ぎる授業だった。

今振り返っても、卑怯な教授法があったもの。

僕は英語を援用しながらスペイン語を勉強するのはとても有効だと思うし、積極的に相互の知識を動員するべきだと思う。でも、「同じ」と一緒に「違う」も力説してあげないと、結局日本語を経由して理解した言い訳みたいな知識しか身に付かないのでは。都合の良い時だけ、学生が知っているであろう知識(まあ、受験生の知ってる文法用語ね)を活用するのはいかがなものか。どう違うの、なぜ違うの?そこまで教えてくれたら、多分強烈な記憶が焼きつくのに。受験英語を知らない帰国子女は苦労するだろうな、と帰国子女でも何でもない僕が心配してみたり。

僕は未だに英語の干渉が見られるスペイン語を話して、スペイン人に笑われるけれど、そうやってゆっくり「同じ」と「違う」を習得していくと思う。

余談だけど、発音も相当ひどかった(英語だった)のであります。

これは開き直ったけど。

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学魔葬

高山宏の最終講義を聞きに、都立大学に足を運ぶ。首都大学東京とは口が裂けてもいえない。

OED遍歴のお決まりのパターン、名人芸の語り口だったが、この偉大な学魔が優美に遊べる空間がないことを悲しく思う。

高山本との出会いをたどれば、『奇想天外・英文学講義』なのだ。『アリス狩り』シリーズではなく、ここから出逢ったところが重要で、他の重厚な作品よりも、コモン扇子(センス)をかざすバサラぶりに脳髄を焼かれた。

以降スペイン文学を標榜しながら、「同時代イギリスでは・・・」というコメントが頻発する僕のスタイルの礎石。ニュートンもバークも『トリストラム・シャンディ』も、全部彼に教わった。大澁澤の18世紀フランス、大高山の18世紀イギリス、この二つの頂点に、彼方霞むゲーテの『ウェルテル』が、僕の歩みを導く星となる。面白くないはずがないじゃないか。

ありていに言えば、啓蒙なんて言葉でわかりっこない異様な文学が、文化がそこにはあるのだけれど、僕たちは200年前のことをほとんど知らない。誰に聞いたらいいのかな?と思ったら、誰にも聞けなかったから自分でやることにした。

この最終講義は全く持って最終講義ではない。定年で職を引くわけではないからだ(おそらく、諦念)。春から活躍の舞台をよそに移して、気焔を揚ぐメフィスト・フェレスの門出を祝す。

還暦を過ぎた学魔の追っかけになってみるというのも一興。

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Four Seasons

Four Seasons

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 絶望にくちづけをあたえるように彼女はシャンパンを絨毯にこぼす。ゆっくりと確実に。彼は動揺を見せないが、それでもフォーシーズンズの絨毯を弁償するということがどれほどの出費を彼に強いるのかと、ふと思う。
 東京は記録的な大雪。交通機関はストップし、地下鉄のもうっとした熱気だけが、東京の内臓を鮮やかに食い散らすばかりで、世界は静かに寝静まったような昼を過ごした。チェーンを巻いたジャガーは、滑稽な乗り物でしかない。
 そして夜。彼はピアノの上にシャンパンを置かないでくれ、と彼女に注意した。ピン一つ床に落としても、響き渡るような夜。毛足の長い絨毯はそれさえも奪ってしまう。彼の腰を下ろしたソファから4メートルほど先、ブラジャーだけを身につけた髪の長い女が立っている。あなたって不寛容なのね、と彼女は外国語を発するように呟いて、その手元から今、黄金の液体が音もなくこぼれ、沁みこんでいった。
 グラスのどこからか、微細な気泡が生まれるのだ。それを眺めているだけで彼は何時間でも過ごすことができると思った。彼は女を愛してはいなかった。ただ、アスリート的な記録への切望だけで、数多くの女を抱いてきた。惰性は、世界を動かす最も重要なファクターの一つだ。彼の精液を尊いもののように女達は口にする。こいつらは魚の精子だって喜んで口にするくらいだ。
 アポリネールの詩が頭を過ぎって、けれど彼はそれを既視感を持って迎えることしか出来ない。当然だ。世界は引用の体系であり、そこから自由になるためには、偉大な建築から身を投げるか、拘束衣を着せられて、白痴の笑みを浮かべるほかない。
 このホテルならそれに足りるだろうか。あるいは、今発狂して後に残されたものは、健やかに過ごせるだろうか。
 それぞれ違う女に孕ませた(これほど直接な表現があるだろうか)三人の娘、一人の息子、生活をしていけるだけの資産はあるだろう。それぞれに醜い争いを繰り広げなければ、各々幸福な家庭を築く事ができる。現にこれまでも、四つの家庭に父親である彼だけが不在だったではないか。
 彼はピアノの側に立ち尽くし、淫靡な笑みを浮かべ、唇を濡らす女を、繊細ながら重さのある水差しでしたたか殴りつけた。それから大きな窓ガラスに向って、ラリックの作品を連想させる、その凶器を投げつける。大きなガラスは頑丈で、びくともしない。粉々になったそれ、かつて水差しであったものが、ゆっくりと静かに散ってゆく。
 女の血が絨毯を赤く染めていくが、明日の朝になれば同じこと。彼はそれを弁償するだろう。
 ソファまでゆっくりと歩き、ピアノの側で陳列される花束のような陰毛を見せて横たわる女の裸体を眺めながら、彼はシャンパンのグラスを口に運ぶ。シャンパンは吐瀉物の匂いがする。彼は気泡を上げ続けるグラスを目の高さに運び、黄金の世界に横たわる、青ざめた女の肉体を見据える。

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さわやかなること

東京はまれに見る大雪だった節分。マンションの窓から見る雪は、下に舞い落ちるのではなく、上へ上へ吹き上げられていくかのよう。

新宿某所、サルー2というイベントに我らモヒとアフロが飛び入り参加。

モヒとアフロは、もはやモヒでもなければアフロでもない三十路直前の二人弾き語りロック&ポップス。元々お隣同士だったAsovskiとhirokiss69がずっとやっているダサくない惰性音楽。

とはいえ、サルーは激マニアック音楽祭典であり、そも出番表に僕らの名前なし。あれ?聞いたことない音源、誰も歌詞を理解できない音源、というか、色々脱線してる選曲。Ojos de Brujoしかわからなかった。

この日組まれていたのはex.胸騒ぎ八朗の畑田大育の地獄ブルースライブ。なんと当日の朝に書いた曲も含まれる最強セットリスト、しかも演奏は割愛。果てしなく陰鬱なフォーク、トラッド、民謡、生活苦、なんというか、引き込まれるけれど、引き込まれたら最後だなあ。

Mohiafro

で、僕らは7分の短めセットリストで参加。曲目は:

海底
明け方のつぶやき
ひかりのはな

いつもの曲ね。

さわやかなることWaTの如し。

とにかく、それまでのディープ&マニアックに冷たい一撃を加える。畑田の後という最高のコンディション。

天と地とが割ける咆哮を聴いた気がする。

爽やかな音楽をやってこんなに浮いてる二人もまあ、いない。例によってマイク一本。





もう、マイクいらない。

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雨のはじまる場所

Where it starts to rain

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 ワイパーの動きを目で追っていると、卓郎が「どうかした?」といった。別に、と答えて私はじっとワイパーの動きを見つめていた。雨が強く降っている。信号のライトがぼやけて、交差点を渡る人の影は、カラフルな傘の下で、曖昧な輪郭しか残さずにゆるゆると動いている。天気予報ってすごいね、と卓郎が言い、うん、と私も首を振る。
 卓郎はいつも車で私を迎えに来て、帰りは家まで送ってくれる。卓郎の車は流線型で、にゅるっとしていて、かっこいいけど、少しキザだ。シートが二つしかないのも不便だ。買い物をして買えるときは、助手席の私がそれを膝のうえに抱えている。なんで二つしかシートがないの、と聞くと卓郎はびっくりしたような顔をして、そういう車なんだよ、といった。
 私の家には車がない。だから、車の仕組みも車の決まりごともよく分からない。学生時代に免許を取りに行けばと母が言ったけれど、結局取らずじまいだった。だから、車の運転方法も分からない。
 卓郎と遊びに行く先はたいてい海で、それもあまり遠くへ行くことはない。それから、温泉に行って、別々にお風呂に入って来て出てきたりもする。そういえば、卓郎の裸を明るいところで見たことはないな、と気付く。
 母の実家へ行ったときに、まだ小学生だった弟が、仏壇においてある長い蝋燭を手にとって、ワイパーごっこをしよう、といったことがある。ワイパーごっこはただ二本の蝋燭を手にとって、手首のスナップで縦横に振る遊びなのだけれど、弟は自分で発明したこの遊びがたいそう気に入ったらしく、祖母にねだって蝋燭を二本貰って帰った。
 卓郎と付き合い始めたのは半年ほど前で、それから何度も彼の車に乗せてもらっているけれど、そういえばいつも晴れていた。だから、私は初めて間近に見る、勤勉に雨の雫を払いのけるワイパーの洗練された動きに目を奪われている。弟があの遊びに熱中した理由も、ようやく分かる気がした。ワイパーは力強く、規則正しく、不思議な音を立てる。それを蝋燭で再現した弟の想像力に、頭が下がる。
「雨、初めてだね」信号が変わって、車がゆっくりと走り出したのと同時くらいに私がいった。
「え?」卓郎は、狭い視界にしっかりと視線を集中させて、一息置いて聞き返す。私はこういう卓郎の堅実なところが、すごくいいと思っている。卓郎が運転している時の横顔はなかなか魅力的だと思う。
「あ、雨降りな。そういえばそうだ。僕も君も雨男、雨女じゃないみたいだから」
 対向車のライトも、道の両脇の商店の照明も、雨の中で広がって見える。
「僕は雨に降られて歩くのも好きだよ」
「私も」
「今日の雨はちょっと嫌だけどね」
 路面に跳ね返る水音さえ聞こえるような強い降りが、長くは続かないことを私たちは知っている。昼ごろラジオで「夕方にかけて、一時的に強い雨が降る地域もあります。これからお出かけをされる方は、折り畳み傘をお持ちください」と言っていた。天気予報はすごい。まだ降っていない雨が降ることを予想して、的中させてしまう。
「子供のときにね、晴れと雨の境目ってどこなのかな、と思っていたんだ。その境目に入ると体の半分だけ雨に濡れて、半分は晴れてるの。でも、雨なんて突然降り出すし、いつもそんなことを意識しているわけでもない。だからずっと見つからなかった」天気予報のことを考えていたので、卓郎も同じようなことを考えていたのだろうか、と私は驚く。少し嬉しかった。
「でも、この前分かったんだよ、境目」
「見つけたの」
「うん」
 卓郎の車は住宅街をするりと滑っていく。私の家までもう少しだ。
「天気がいい日に、図書館のね、屋上でパンを食べてたら、雲が流れていくんだよ。そしたら、街には大きな影が落ちて、でもゆっくりと移動している。その中にいる人には分からないんだけど、僕は高いところから見ているから、あ、あの人は今影に入った、なんてことが分かるんだ」
「そっか」
「あ、分かった?」
「うん」
「じゃあ、良かった。結構、気がついた時嬉しかったからさ」
 レインコートを着た、犬を散歩させているおじさんの側をゆっくりと通り過ぎて、卓郎は私の家の前に車をつける。
「じゃあ、また電話するね」私がそういうと、卓郎はいつも寂しそうな顔をする。五歳も年下の私に、こんな切ない顔をされても、どうしてあげることも出来ない。年齢は関係ないのだけれど。
「卓郎」
「ん?」何かを期待するような、それでいて裏切られることを予感している卓郎の表情がもうほとんど見えない。
「さっき通り過ぎたの、お父さんかも」
「えー」卓郎が驚いた顔をする。
「嘘」
「えー」さっきと全く同じ音程で卓郎が繰り返す。
「今日はありがとう。雨のドライブも楽しかった」
「うん」
 じゃあ、行くね。うん。また電話するね。うん。気をつけて帰ってね。うん。「うん」しか言わないね。ううん。
 私たちは思い出したように、ゆっくりと顔を近づけて長いキスをし、そのままの形で抱き合っている。
「お父さんに見られる前に、バイバイ」卓郎が、大人の声で言う。
「嘘のお父さんだけどね」
「本物が家の中から見てるかもしれないだろ」
「ありえるね」
 私はドアをさっと開けて、軒先に入る。振り返っても、濡れた窓ガラスの向こうの卓郎の表情は見えない。私はもう一度卓郎の車に駆け寄って、ドアを開ける。
「何か忘れた?」卓郎の驚いた声が暗い車内に心細い印象を与えた。
「今度は傘をさして出かけましょう」
「車の中に濡れた傘を入れるのは嫌なんだよな」
「だから、傘をさして迎えに来て」
「はいはい」
「ちゃんとスーツを着ていらっしゃいね」
「ん?」
「じゃあね。おやすみ」私はまた軒先まで行って振り返る。相変わらずガラス越しの卓郎の表情は見えない。笑っているといいな、と私は思う。

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両国国技館で学ぶ

Kyousyu先 の大相撲初場所は大変盛り上がりました。僕は二日目に見に行ったのですが、その時こんなものを目撃。

(←さあ、ひと思いにクリック)

いったい何を教えてくれるのかな?

人間いつまでも学ぶ姿勢を忘れるな、ということかしら。

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On a Composition for one Guitar and the Flute Playing Machine

On a Composition for one Guitar and the Flute Playing Machine

                                                                Hiroki TOMITA
                                                                University of Tokyo
1. Introduction
   I participated in the Workshop held by Mr. Martin Riches who visited the University of Tokyo (Japan) for the exhibition of his works at the Komaba museum of the university, during 20th Oct. to 2nd Dec. 2007 (http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/Musica.html).  The workshop participants were required to compose a piece to be played on his work.  Here I present a concise report on the process of my composition.

2. Subject
   Participants were required to compose a piece to be played on the Serinette or on the Flute playing machine brought to Japan for the exhibition, and make the score on the material used for these machines (plastic boards or plastic films) for the presentation on the last day of the workshop.
   I chose to work on the Flute playing machine.  This machine is monophonic.  The sound range is an octave from G.  Thus, for the full range usage of its ability, both ascent and decline, the key of the piece shall be set in note which is  rooted almost on the medium of the octave from G, and I chose D major.
   I was very impressed for the "humanness" of it when I listened to the Flute playing machine play the music, very different from the prejudice that evokes the name "Machine."  It was far different from an inorganic electric instrument.  And I thought that it would be better to compose a piece not conceptual or experimental but simply entertaining with a respect for the machine as "one musician".
   The sound volume of the Flute playing machine is not variable during the music is played, and it lacks the dynamism.  I decided to accompany the machine with the guitar to compensate this lack.
   An ensemble of a machine with a man shall be, aurally and visually, humorous combination.
   The flute playing machine reads the plastic film 64 mm per second decoding the information (articulation and breathing) of the piece with the photo cell.  It is not convenient to have a too quick passage as the machine needs a certain time for the fingering. 
Score1   My piece is 96 BPM, 3/4, so a bar is 120 mm (1.875 second) and the machine can play 32 bars per minute.  The correspondence of notes and the length of the marking on the film is shown on the table.  Score2 The piece has almost 41 bars and the playing duration is 1 min. 17 seconds.  It requires a film of 5 and a half meters long including the margin.






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Notes    Length(mm)
Dotted half note minim    120
Half note minim        80
Crotchet            40
Quaver            20
Demiquaver        10
Demiquaver tercet    6
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3. Work process
(1) Composition
   As written above, the piece is 3/4 on D major.  For the accompaniment, indicated the harmonics and the strokes on the guitar.  Once finished the score, I simulated it on the computer.

(2) Transcription
   To mark the film, I prepared a transcription of the score on the graph paper.

(3) Marking
   Marking was done with the graph paper prepared laid down beneath the transparent plastic film using a black ink.  Though, on the first trial, it did not come up with a melody that I have expected.  Mr. Riches gave me a hint to darken the markings and helped me a lot remarking.  On the second trial, the music was fully played as I have intended. 

4. Consideration
   In the ensemble with machine, the eye-contact or other signals between the players are impossible.  The melody goes automatically and the human accompaniment shall follow it.  In this piece, the most bars have a note to start with to make it easy to count the music.  In the solo part of the guitar (bars 17, 19, 21, 22, 23, 24), it was very important the accurate strokes a tempo.  Machines do play on demand, though was I working on demand of the Machine, ironically.
   Nowadays, the Computer Assisted Music is very common.  But playing music on the Machine requires a lot of effort and approach from the human side.  Just a process of marking the music on the plastic film took hours and a great patience.  Here we can understand that the automatic music instruments are not only invented for the convenience but also as the demonstration of the power of the wealth of the person who owned it. 
   Mr. Riches' machines are not the musical instruments that amplify the possibility in music itself since they are firmly based on the rules in existence (scales, pitches etc.).  Though, what working on his machines can tell us is very rich.  One can understand through his/her experience that the music is a product of great effort of human beings; what we are usually doing in playing the music is not that simple as we may consider but it requires so many techniques and information.  Finally, the machines of Mr. Riches have a sense of mechanophilia, and let us reconsider the relation between machines (including computers) and us.

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