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2008年1月

Lápizな日々

本を読みながら最近よく鉛筆を使います。

Etude 2Bと6Bの鉛筆で分からない単語の意味を書いたり、下線を引いたり。

一段落くらいのまとまりで、分からない単語に下線を引きながら読んでいきます。このときは6Bの鉛筆です。固い鉛筆だと紙が痛むような気がするので。

次に単語を調べながら、脇に書いていくのは2Bの鉛筆でします。両方2Bでやってもいいかもしれないのですが、下線を引いた箇所を見落としてしまう可能性があるので、やはり濃い色のものが良いです。

色鉛筆などを使っていた時期もあるのですが、最近はもっぱら鉛筆。三菱鉛筆Hi-uniは偉大なり。

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青い目の

青い眼がほしい』といえばToni Morrisonの小説ですが、うちのワンコは目が青い。


Blue_eyed_dog 写真を撮ったとき、人間は目が赤くなるけれど、うちの子は青くなる。


ふっしぎー!!


学校の授業、ひとまず終わり。くるくると忙しく過ごした今年度もそろそろおしまい。

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正確な情報求む(早急に!)

節分の日、二月三日にライブをすることになりそう。

なりそう、というのは詳細をいつも知らないから。

僕をバイパスする情報系統。

でも、結構時間ないんですけど。

モヒとアフロのアフロがスタジオで練習しようよ、というのでスタジオを予約して、曲を選んでいるのですが、肝心のスケジュールに僕らの出番が書いていないではないか!?あれー。

え、行っても無駄?

ギター持って行っても無駄?

マイクかついで行っても無駄?

どぎゃんこつ、ほんまに。

いや、そんなはずは・・・。そんなはずは・・・。ばってん、ちょっと不安が残る。

とりあえず、詳細はこちらをご参照ください。サルー2というイヴェントです。前も呼んで貰った事がありましたっけね。

ちゃんと決まり次第またご報告します。

まあ、仮に僕らが出ないにしても、当日会場にはいます。胸騒ぎ八朗の畑田さんは大学時代のお隣さんで、心に沁みる民謡フォークトラッドロックを開拓されていたアーティストです。とかくいい曲を書くので、それを聴きに行くつもりです。

今回モヒとアフロはそれぞれソロ演奏もする予定です。僕は「アストロローグ」という曲かRoland Dyensの"Tango en Skaï"を弾くつもりです。

とりあえず、練習します。

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蜜柑を食べてしまうのは

Orange 母が丹精こめて育てる、ヴェランダの蜜柑。毎年ちょこちょこと実がなって、それを楽しみにしている。

しかし、最近どうも食べられてしまうのですよ。

マンションは6階。

まさか蜜柑ほしさに登ってくる奴もあるまいな。

鳥さんが食べてしまう可能性もあるのだけれど、鳥は実を落とさずに食べるものです。

次は犯行現場を押さえた貴重なショット。Orange_eater02

舌なめずりしていらっしゃいます。

はっぴぃは手を使わずに、ガシガシと噛んで皮を剥きます。

そうよね、抱っこしながら時々はフルーティなはっぴぃさんだわ、と思うこと があったのよ。

Orange_eater03写真を撮られても悪びれる様子など露ほども見せず。

帰宅した母が蜜柑の残骸を発見してとほほとなる様子が目に浮かぶ。

でも「とほほ」とは言わないけどね。

さりながら、はっぴぃもそのことを知ってか知らずか、『一日一個まで』という自分ルールを設定しているらしい。

Orange_eater04 これは別の日。

さあ、今日も仕事に取り掛かるぞ、の図。

僕もはっぴぃを見習って勤勉になりたいものです。

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SP

過日最終回を迎えた『SP』、大変楽しく見ていました。最終話は僕としては消化不良なのですが、もうすこしじっくり考えて見ます。

劇中に使われるクラシックがマニアックだなあ、と思いつつ、グレツキの交響曲第三番第一楽章については、まさか、全部流すのか?」とドキドキ。

4月に特番があるようです。楽しみ。

真木よう子さんすばらしいなあ。


(これが言いたかった。)


野間口徹さんもすばらしいなあ。


(これも言いたかった。)


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今日の大相撲千秋楽、白鵬と朝青龍の相星決戦、素晴らしい大相撲になりました。ほんといい相撲でした。

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 僕はずっと、同じ場所にいる気分だ。簡素なスチールのデスクに、同じ部屋を共有する奥野の置いていったメモが貼り付けられている。くしゃくしゃと丸めて、くずかごに放り投げる。何も入っていないくずかごの底に、カコンと軽い響きが起こる。
 患者に話をさせる、それが一番の目的だと今でも思う。治る病気は大半で、治らない病気の方がずっと多い。だから、医師の気負いだけが勝ちすぎても、カウンセリングが上手くいくはずはない。まして、問題の所在が分かったところで、僕が直接何をできるだろう。世界は妥協で廻っている。
 二十分区切りのセッションを担当し、空き時間には学内のコーヒーショップで一息入れる。診察室でコーヒーを飲むのは、居心地がよくない。午前はキャンセルが出て、午後からは青白い顔をした大学院生のセッションが入っていた。名前は言えない。肌の白さと、指の細さが目に残る、少女のような印象の。そういうものなのだ。診療カードにも、診察券番号と予約欄しかない。カルテには名前が記されているが、過剰に保護されたプライバシーだけが記号として4桁の数字に表れている。
 心を病むということは、よくあることなのだが、それが公になってしまうと困る人が多くいる。そして、周囲の受け止め方も相応に変わってくるので、それを隠そうとする患者が多い。なべて、真面目な人こそここにやってくることが多くなる。けれど、真面目な人こそここへ足を運びづらいというディレンマもまた歴然とあって、「自分などがそのような病気を標榜するのは恐れ多い」というような、自己卑下がそのような形で現れる。それでも、「精神科医なんだろ、なんとかしてくれよ」というような態度で来られるよりはよほどましであるが。
 おととい、珍しく雪が降った。冷たく張り詰めた空気の中で、もはや嗅覚は麻痺して、ただ白い無垢な雪に覆われた地面と、葉を落とした木々の印象に、僕は足を止めた。世界は誰に住みよいか。
 自己憐憫も、自己卑下も、それを引き起こすものがこの世界にあった以上、それを僕たちはどのように償いうるか。こんなにも毎日出会う悲しみの澱を、風はどこへ運んでいくのか。はじめから損なわれて世界に訪れた一人の人間に、どのように救いがあたえられるだろうか。
 時に、自分の姿を鏡に映したような誰かをデスク越しに見て、驚くことがある。カルテに目を落とし、動揺を悟られないようにする。手が震えるのを、必死で押さえようとして、わけもなくボールペンを手に取る。
 こんなにも苦悩が、雪よりも頻りに降り積もるのであれば、生きる意味などどこにあるだろう。
 診察の五分前に待合室に顔を出して、患者が来ているか確認する。マガジンラック、とってつけたような絵画の複製、合成皮革の低いソファ。この無意味な空間で、診察を待っている間に窒息死してしまう患者がいつの日か現れる気がしてならない。
 伏目がちな彼女が、すでにやってきて、雑誌に目を落としている。きっと彼女は活字を追うことで、苦悩を軽減させているのであって、そこに何が書かれているかを気にしてはいない。その彼女が、平静な生活を希求する一方で、活動的な一面も持っていることを知るときに、僕はますます分からない気持ちになる。
「こんにちは。今日も寒いですね」
驚いたように彼女は顔を上げる。僕がドアを開けて診察室から出てきたことにも気がつかなかったのだろう。「こんにちは」
「もうすぐお呼びします。」
 彼女は軽い会釈を返す。
 診察室に戻って、僕は窓の外を眺める。遠くに青い空の断片が見えるが、灰色の雲が厚く広がっていて、今にも消えそうな弱々しさだ。今日もまた雪が降るといっていた気がする。「こんなにも苦悩が、雪よりも頻りに降り積もるのであれば、生きる意味などどこにあるだろう」僕は小さな声で言ってみる。
 鳥が飛び去った後の、枝のたわむ様子。鳥達は寒さを感じているだろうか。鳥達は苦悩を感じているだろうか。鳥達は死を恐れるだろうか。僕はなにも分かってない。
 引き出しから、錠剤を取り出し、水差しから、グラスに水を注いで、苦い錠剤を嚥下する。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。これが僕の仕事なのだ。飲み下した後で、植物のような青臭い匂いが口の中に残る。
 僕は診察室のドアを開けて、どうぞ、と言う。今日もまた雪が降るといっていた気がする。

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満月ならぬ月

stir, stir, stir, stir, stir.

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 有楽町から京浜東北線に乗って帰る。この時間に乗れば、自宅の最寄り駅からの最終バスにちょうど間に合う。金曜日の夜なので混んでいる。コートのポケットから文庫本を出して読み始める。ウォークマンは午前中電池が切れてしまったので、音楽を聴くことが出来ない。ソニーのものではないmp3プレーヤーを、僕はそれでもウォークマンと呼んでしまう。僕の両親もそうだ。いつも弟に叱られる。「違うよ、ギガビートだよ」
 文庫本は数年前に芥川賞をとった作家のものだ。僕と年はそう変わらない、若い作家だ。この作品を書いたときには、今の僕よりも若かった。読み始めるときには、どうせ大したことはない、これくらいなら自分にでも書けると思うのだけれど、先に進むにしたがって、なかなかいいなあと思わせる箇所が多い。傍で見ていると簡単そうに見えて、実際やってみるとなると難しいことは世の中に山ほどある。
 京浜東北線は普通の車両のほかに、真ん中に支柱が立っているものがある。その車両では、朝の通勤時間帯は両側の座席は跳ね上がっていて、ロックされているのか下ろすことができない。つまり立ち乗り専用の車両になってしまう。便利なのか不便なのかいつも分からない。
 京浜東北線の窓は開閉できない。このほうが冷暖房効率がよく、車内で聞く走行騒音も小さいので、優れものだと思っていた。けれど、停電などで電車が停車した場合、換気が出来ず、気分の悪くなる乗客も現れるため、近々廃止されるらしい。もったいない話だ。
 その大きな窓から、冬の東京の街の景色を眺めようとして、けれどガラスには車内の乗客たちの疲弊した顔ばかりが映っている。車両には乗降口が多いため、座席は三人掛けとなっている。僕の前には、口を開けて眠るサラリーマンと、携帯電話を操作する女と、乗降口の方を首を伸ばして見ている女が座っている。ドア上部に表示される次の停車駅を確認するためだろう。そんなことをしても込み合った車内では見えるはずが無い。京浜東北線の車内アナウンスは聞き取りやすいので、そんなことをする必要も無いのだ。浜松町で僕の前に座っていた女が降りて、僕が座った。
 入れ替わって僕の前に立った男の読む新聞には、月島駅から徒歩五分、家賃収入安定物件というマンションの広告があった。プレミアムレジデンス月島。自分ならもっといい名前をつけただろうと思い、幾つか候補を考えて、それから馬鹿馬鹿しくなってやめた。
 月島には二度行ったことがある。一度は職場の同僚に連れられて。二度目はちょうどその次の週に、大学時代の友達といった。どちらももんじゃ焼きを食べに行った。もんじゃ焼きを食べたことが無かった僕は、最初戸惑った。こんなものが料理だとか食事だとか思うことが出来なかった。遊び的要素が大半を占めている。「ねるねるねるね」みたいなものだ。あのテレビコマーシャルを最近ずっと目にしない気がする。「ねるねるねるね」そのものが、もうないのかもしれない。
 二回目に行ったときは、新しい靴を買ったばかりだった。家を出たときには天気が良かったのに、地下鉄の月島駅を出て目にしたのは、道に水が溢れるほど強く雨が降っている様子だった。靴を脱いで裸足で歩こうかとさえ一瞬思ったのを憶えている。月島の町にはアーケードがあるが、交差点ではそれが途切れる。どうしても靴を濡らすことなく歩くことは出来ない。そもそも、地下鉄の出口を出てアーケードのあるところまで行く間に、靴だけでなく全身びしょぬれになってしまう。
 僕の左隣には次の停車駅をずっと気にしている女が座っている。乗降口の方に首を伸ばしているのに、体は僕のほうに少し押し付けられている。女が着ているピンクのダウンジャケットを通して、温もりが伝わってくる。僕は自分より体温の低い人間はいないのではないかとふと思う。さっき立っていた時に見た横顔は、可愛らしい少女のようだった。もしかすると、僕を避けたくて首をあらぬ方向に向けているのかもしれないと思ったけれど、体はこちら側にくっついているのだから、それは当たらないと思う。そんなのどちらでも構わないのだけれど。
 新しい靴を履いて月島に行き雨に降られた日の帰り、僕は自宅近くの駅で地面に倒れている女を見つけた。女はみどりの窓口の近くに倒れていて、改札を出てくる乗客たちが少し距離を置いて避けて歩いていた。酔っ払って足が立たなくなっているようだ。指先に小さく折りたたんだ五千円札を握っている。物騒だな、と思って近づく。女は眠そうにふわりと体をねじって、みどりの窓口のガラスに頭をぶつけた。僕がハッとするくらい大きな音がした。大丈夫ですかと話しかけると、女は大丈夫よーといって目は閉じたまま顔を上げる。「大丈夫なんだからー」
 女は30代後半くらいで、上は灰色のパーカーを着て、下はテニスをする人が着ているような、歩くとカシャカシャ音のするウインドブレーカをはいている。
「こんなとこで寝ちゃだめですよ」と、なんだか当たり前なことを僕は言った。ガラスにぶつけた頭も痛くはないようだ。相当酔っ払っているのだろう。こんなとこで寝ちゃだめですよ。
 僕が女の横に座っていると、汚い格好をした50くらいのやせた男がやってきて、なんだー、こいつは、といった。お前こそなんだ、というような男だった。こちらも相当酔っ払っている。男は相手にせず、僕は女に「ちゃんと起きて帰りましょうねー」とまた当たり前なことを言った。
 男は女の顔を覗き込んで、首をかしげてどこかへ去っていった。馬鹿じゃねー、という声が少し離れた場所から聞こえた。
 僕は自動販売機で水を買ってきて女に飲ませてやる。酔っ払ったときは沢山水を飲むといいと、いろんな人が言っている。ペットボトルを半分ほど飲んだところで、女は立ち上がろうとして、よろめき、みどりの窓口のガラスに手を突いたまま、苦しそうにしている。僕が持っていたペットボトルをひったくるように飲んでまた、地面に横たわる。水が口からこぼれて、パーカーが濡れている。
「あたしねー、あんなにお肉食べたのー、初めてー」
「はあ?」思いのほか元気そうな声で女がいった言葉の意味が、外国語のように、まったく理解できなかった。
「あたしだって、一人でちゃーんとね」ちゃーんと、なんなのか分からない。ちゃーんと地面に寝っ転がっている、というわけではあるまい。
「チューハイもキューっと。そしたら、お姉さん可愛いねーって」
「そうですか」と僕は要領の得ない相槌を打つ。僕はいつだって要領を得ない。「水飲んで、少しラクになったら起きて帰りましょう。タクシーのとこまで連れてってあげますから」
 女は幼女のようにはあーい、と返事をして、また水をゴキュゴキュと喉を鳴らし、パーカーにボタボタこぼして飲んだ。僕がハンカチを渡してやるとそれで首やら顎やらの水を拭いて、また飲んだ。それからまた思い立ったように立ち上がって、ガラスに手を突きながら、帰りまーす、と大きな声を出して歩き出した。フラフラした足取りが心配なので、僕は肩を貸しながら、エレベーターの方に向う。階段などとても降りられる状態ではない。
 駅のエレベーターは無機的で清潔で、手すりが雄雄しく輝いている。ゆっくりとドアが閉まると、女は僕のズボンの上から僕の性器に触れる。「ちょっとやめてくださいよ」と僕が言うと、あんたって本当にちっちゃいのねー、と言う。そして僕の股間をぽんぽんとリズミカルに叩く。乗った時とは反対側のドアが開いて、エレベーターから降りるとすぐそばにタクシー乗り場がある。女をタクシーに押し込む。女はさっきと打って変わってしっかりした口調で行き先を伝え、こちらを振り返りもせずに走り去る。僕はハンカチを女に持たせたままであったことに気がつく。それから、ロータリーの反対側から出る、深夜料金のバスに乗って帰った。「情けは人のためならず」とも「いらぬ親切大きなお世話」とも違う、なんだか変な心持ちだった。こういう状況に相応しい諺はまだないらしい。
 電車は田町を出た。乗客の数は相変わらず多い。隣の女は相変わらず僕に体を寄せながら、首だけを乗降口に向けている。アナウンスが次の停車駅は品川と言っている。そうだ、品川だ。女には聞こえないのだろうか。
 それから細く高い声が何かをつぶやいていることに気が付く。次どこに止まるの、次どこに止まるのと歌うように繰り返している。もしかしてこの女は初めて京浜東北線に乗るのかもしれない。耳が不自由なのかもしれない。外国人なのかもしれない。色々な可能性を考えて、「次は品川ですよ」と教えてあげるのが親切だと思う。けれど、本当にそうしていいのか分からない。停車間際に再びアナウンスが「次の停車駅は品川」という。そう、品川。僕が確認しても女には関係のないことだ。
 品川でドアが開いて、乗客がかなり減った。再び電車が走り出すと女はバッグの中をまさぐり始める。それから先ほどの細く高い声で「サイアクだ、サイアクだ」と繰り返している。女の手が何かをつかみ出す。上野の国立西洋美術館の入場券だ。それを戻し、ポケットから携帯電話を取り出し、メールをチェックする。その間も「サイアクだ、サイアクだ」と歌うように細い声が続いている。時々は次どこに止まるのも差し挟まれている。品川の次は大井町です。どこへいくんですか、着いたら教えてあげますから、と喉元まで出掛かっている。でも、僕は文庫本に目を落として集中している振りをする。
 大井町を出て、次は大森。女は次々とメールを開いては削除していく。可愛らしい横顔を向けて、僕をけん制するようにして女は体をすこしずらす。今まで見えなかったが左のまぶたにほくろがある。それからバッグをまさぐり、あれ、ないな、あれ、ないなと繰り返す。小鳥がさえずるように、多分隣にいる僕以外の誰にも聞こえないほどの小さなささやき声で。電車は大森に止まり、大森を出る。また少し乗客が減っている。大森で僕の目の前にいた新聞の男が降りて行った。向かいの空席には、大森で乗ってきた老人が腰を下ろした。
 女は切符を無くしたのかもしれない。あるいは財布が見つからないのかもしれない。そんなことは、僕が考えてもどうにもならない。JRは優しいから事情を話せばどうにかしてくれる。お金を貸してさえくれるはずだ。僕は借りたことが無いけれど、そんな気がする。
 アナウンスが次は蒲田だと告げている。次は蒲田ですよ、と伝えるべきなのかもしれないけれど、女がそれを知らないと僕に断定できる理由がない。女は再び携帯電話を取り出して、開いてすぐに閉じる。僕が文庫本を閉じて顔を上げると、蒲田駅のホームに電車は滑り込んでいる。しばらくしてドアが開くと、女は何のためらいもなくすっと立ち上がり、ホームへ出て、階段を登っていく。なんだか拍子抜けしたような気持ちで、僕は女の横顔を目で追った。それから女の座っていた座席に目をやると、切符が落ちている。僕はそれを拾って閉まりかけのドアから飛び降りる。プシューという音が耳のそばで聞こえた。
 先ほどまで同じ電車に乗っていた人の群れを分けながら階段を登り、女の後姿を捜しながら、改札へ向う。ピンクのダウンジャケットの後姿を随分遠くに見つける。駅員のいる改札に向い、事情を説明しているところへなら、なんとか間に合って切符を渡すことが出来るだろう。けれども、女の後姿はするりと自動改札を通り抜けていった。僕は指先に切符を握り締めたまま、立ち尽くした。帰りを急ぐ人の流れの中で、僕は杭のように邪魔をしていた。
 僕は切符を確認する。切符は川崎駅発の初乗り料金だった。
 僕は先ほど後にしたホームへ降りる。冬の夜の風をさえぎるものがなく、肌寒い。ちょうど今列車が行ったところなので、しばらくの間ホームで待っているのは僕だけだった。次に到着する電車は蒲田止まりの回送だった。次の桜木町行きまで僕はコートの襟を立てて、足踏みをしながら待っていた。
 自宅の最寄り駅について、僕は駅の売店に入った。雑誌と新聞、飲み物、弁当などが売っているが、閉店間際で品数は少ない。暖かいコーヒーを買って、コートのポケットに入れて歩く。深夜バスも既に出てしまっている。タクシーに乗るほどの距離でもないので、歩いて帰る。25分ほどの真夜中の散歩。冬の夜の散歩。
 ポケットの中のコーヒーはカイロの代わりになっている。駅前のロータリーを抜けて、細い坂道を登りながら、僕は時々建物の間から見える月の明るさに気がつく。満月ではないが、くっきり冴え冴えと輝いている。
 月は地球の衛星なのだ。昼も夜も地球の周りを回る星なのだ。満月ならぬ月にもそれなりの敬意を払うべきだと思った。誰に対してそう思ったのかは分からなかった。ぬるくなってきたコーヒーを飲んで、空いた缶を手に提げてまた歩きだす。指先から体温が奪われていくのが分かる。
 交差点の手前にはローソンがあって、その入り口のゴミ箱にその缶を捨てる。カコンと軽い音がする。すこし体を温めるために店内に入って、雑誌を立ち読みした。それからもう一本コーヒーを買いにレジに向うとき、お菓子のコーナーに「ねるねるねるね」を発見する。僕が知っているのとは異なる、可愛らしいパッケージだった。イチゴ味とソーダ味とブドウ味があるのだが、イチゴ味の箱は空になっていた。人気があるのかもしれない。僕はブドウ味の「ねるねるねるね」を持ってレジに向った。

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Los detectives salvajes 読了

ひどく体調を崩し寝込んでいました。大人になると発熱するだけでたいそうな苦しみです。楽しみにしていた予定などを棒に振ってしまって残念な思いもしましたが、布団に挟まってぬくぬくと本を読むことが出来ました。大江健三郎さんの『静かな生活』がちょうど良いやわらかさで頭に入り、『性的人間』も心地よく。『PLUTO』を最初から読み返したり、Jack KetchumのPeaceable Kingdom(これはかなり具合がよくなってから読み始めました。あまり普通の趣味の方にはオススメできません。でも、そういわれると読んでみたくなるあなたは是非!暗黒小説なり)もすこし読み始める。アンチ・オイディプスも読まなくてはいけないのだけれど。

授業で読んでいたRoberto Bolaño, Los detectives salvajes, Barcelona: Anagrama, 1998.が遂に読み終わりました。ラテンアメリカの作家はまったく知らないので、ロベルト・ボラーニョの評判の高さも知らなかったのですが、英訳(Trans. Natasha Wimmer, The Savage Detectives, Farrar Straus & Giroux, 2007)もありいろんなところで評価されているようです。

どんな話かというと、まったく上手く説明できないのだけれど、とりあえず試みよう。

舞台は当初メキシコ。

第一部 日記。
・・・詩人を目指す「僕」が変な詩人のグループと係わり合いになり、その一派に飲み込まれていく。途中、友達の友達くらいの娼婦がヒモから逃れてきて、「僕」は彼女の逃避行に手を貸すことに。同じグループの中心的な二人の詩人、娼婦、そして「僕」はわけも分からない旅へ出てメキシコシティを去る。

ここまでは日記形式なので、「僕」の一人称でその日誰にあったか、どういう話をしたか、などが記されています。だんだんとグループのメンバーたちとも顔見知りになっていくのですが、それらの人物が次のパートに登場します。

第二部 証言集。
・・・セサレア・ティナヘロという女詩人の足跡を追って、二人の詩人が様ざまな人物にインタビュしている。この二人の詩人は第一部の逃避行のメンバ。セサレアは名前は聞いたことがあるけれど、誰もその作品を記憶していないという謎めいた詩人。二人の詩人は彼女の創始したグループの後継者であると名乗っている(第一部のグループがそれ)けれど、彼女の詩を見たことはない。彼女について証言を集める二人の道程が、次第に二人についての証言を採集する誰かのインタビュに混合していく。当初セサレアについての証言を集めたものだったのに、「証言を集めている二人の詩人」についての証言にすり替わっていく。ここで第一部の詩のグループのメンバが回想したり、二人がかつて旅した場所で出逢った人々の証言が続いている(よく考えてみよう、この証言を集めているのは誰だ?!)。二人の、あるいはそれぞれの恋愛遍歴や旅行先での出来事(舞台はメキシコ、アメリカ、ヨーロッパ、中近東を舞台に繰り広げられる)であって、そもこの二人の詩人についても何一つ確固としたことが分かっていないまま第一部の逃避行がスタートしたのだと改めて思い出させる。セサレアについての証言も(ある一人の人物によって)続けられているが、そこで明らかになったのはセサレアが冗談みたいな作品一つを残して隠遁した女詩人だったということ。

第三部 日記。
・・・第一部の逃避行の続きが記されている「僕」の日記。北へ、北へ、男達に追われているという強迫観念に後押しされて逃げる。もうここまで逃げれば奴らも追っては来れまいという地点まで逃げ延びたあと、セサレアについての追跡調査(つまり、第二部で明らかになっていた隠遁した詩人としてのセサレアという事実がこの手前に挿入されなければならない)が始まる(調査とは何の関係もない「僕」と娼婦も同行する)。いくつもの土地を巡りめぐって彼女を見たという人々、彼女と仕事をしたことがあるという人たちの証言を手がかりに様ざまな村や町を経巡り、ついに一向はセサレアを発見する。見つけてどうする、という方途も無いまま彼女と「僕」たちは車に乗って走り出す。すると娼婦を追ってきたヒモたちに見つかり最後の戦いが始まる。追跡者達はピストルを持っており、こちらは相当に分が悪い。戦いは僕たちの勝利に終わるが、ようやく見つけ出したセサレアは銃弾を胸に受けて死んでしまう。「僕」たちは追跡者とセサレアの死体を彼らが乗ってきた車のトランクに放り込み、旅路をともにしてきた4人は袂を分かつことに。「僕」と永い逃避行で恋仲になっていた娼婦はセサレアが住んでいた村へ、死体を積んだ車に乗った二人の詩人は西へ。セサレアが住んでいた村に、住んでいたその家に、何食わぬ様子で落ち着いた「僕」に今や恋人の娼婦は、ここにずっと住んでもいいわね、という。僕たちは再び車に乗り砂漠の中へ走り出す。娼婦は、またここに帰ってきましょうね、という。「僕」はセサレア一流の意味の分からない詩を日記に書き付ける。

以上。

僕の要約も相当にひどいのだが、とにかくこういうお話だと要約できない。じゃあ、読んでてつまらなかったかというと、全然そんなことは無くて、語りの妙(百人以上の登場人物の語り口を自由自在に使い分ける才能、普通はありません)、とりわけ日記にしろ、証言にしろオーラルな表現のうねり、ゆれから生じる微妙な面白さがありました。それから、適当に書き付けているエピソード群ではなくて、相当に取材、調査を重ねて書いているという下地も見え、世界を股に駆けて広がっていく物語世界も当然魅力十分。日記の部分は書簡体小説に親しい僕にとって大変楽しく、証言集の部分は、つまらない構造主義的な言い方で恐縮だけれど、中心が空洞なのだけれど、それについての言説が無限に増殖して、その中に一貫性やうねりが生じてくる様が素晴らしい。とにかく活字を目で追うこと自体を快楽に変えるテクスト。しかし、仮にこの彼方に深遠なものが含まれているとしたら、残念ながら僕には分かりません。

単純な図式化をすると、謎の詩人セサレアと、彼女の足跡を追う二人の詩人の謎めいた属性が相似形になっており、証言集の途中から語られる二人についてのその後というものが、「僕」達と別れて(なんせ人殺しを犯してしまっているわけですから)姿を消したその後の二人の詩人の成れ果てとも考えられる。そして最後におかしな詩を日記に書き付ける「僕」については、そうした証言の中で誰も記憶していないということから、セサレア・二人の詩人・「僕」が全員消えた詩人という同心円状の存在になってしまう。当初「僕」は詩人になりたくて、あるグループとかかわりを持ち、けれどそのグループ(なり流派)がどういうものかは分からなかった。そしてこのグループの創始者であるセサレアについては誰も知るところではなかった。つまり最初から主義やテーゼの無いところから出発したあるグループが、その名を標榜した二人の詩人を経由して、もともとそれを理解していなかった(というのは、実体など無かったので)「僕」に継承されている。

じゃあ、どうなのよ、といわれてしまうと困ってしまうのだけれど、僕は別にここから意味を引き出したり、教訓が含まれているとは思えなくて、強いてあげれば「こんな圧倒的な語りの力を君達は読んだことありますか」という作者の強烈な創作魂が感じられるということでしょうか。うん、意味や感動がなくていいんだ。「読んでみろよ、すごいぜ」という意気込みがこれだけ伝われば、読んだ甲斐もあるというもの。

結構ぎっしり活字が入って609ページの長編。スペイン語自体は難しくないはずだけれど、僕などメキシコの表現(方言と言ってもいいけれど、表現でしょうな)に一切知識が無いので苦労した。

アナグラマというバルセロナの出版社から出ていて、白い版と廉価な赤い版(アマゾンなどで手に入るのはこちら)があるのだけれど、赤い方はページがぷつぷつ外れるようですね(製本方法の違いによる)。どんなにスペイン語が出来る人でも長丁場になると想うので、白で読んだほうが本も長持ちして良いかも知れない。ページ数は両方同一。

そう。最後にこのページ数が同一ということについて一言申し上げたい。トマス・ピンチョンという変な作家がいらっしゃいますが、彼の作品も意味不明のオンパレードなので、一つ一つの用語について、結局これはどういう意味で、どこで使われる表現でというように、彼の作品を読むためのガイドブックが作られたりしている。そこで大事なのはページ数で、難解なピンチョン作品にせっかく注釈を付してもページ数が版によって移動してしまうのであれば、意味がない。だからピンチョンの本はどこから出てもページ数はかならず厳守されている(してないのもあったんだけど、大迷惑!)。今回アナグラマの赤白が同一ページであることから、そのことを思い出していたんだよね。もちろん、アナグラマという同じ会社が同じデータを使って印刷したという考え方も出来るんだけれど、とにかくこの小説は些少な知識(トリビアリティ)が縦横に繰り広げられており、メキシコの詩についてはかなり深刻な議論を行っている箇所もあるので(専門の方が見たら些細なことかもしれないけれど、僕には筋を追うのが精一杯でした)、今後ともページ数は守られていくといいなあ、と思いました。誤植とかあったらどうするのさ、とも思いますが、僕が読んだ限り無かった。まあ、僕が読んだ限りね。

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La rose de Versailles

『ベルサイユのばら』を読了。優れた作品に触れると、こんなにも感動させられるのだなあ、と思う。すぐに読みきってしまうのがもったいなくて、ゆっくりと、ゆっくりと読もうと心がけているのだけれど、それでも時間を一瞬にしてしまう。

絵の美しさ、絢爛豪華に圧倒され、最近のパソコンで書かれた漫画じゃなくて、ペンと墨で描かれた筆の味わいに身を任せているうちに、物語のうねりは確実なステップでフランス革命へ。そも出発点を1755年におき、架空の人物オスカル・フランソワ、スウェーデンの貴族フェルゼン(実在します)、ルイ16世后マリー・アントワネットという登場人物を通じて世紀末へ向うヨーロッパを見事に描き出している。崩壊したのはアンシアン・レジームではなかったのだけれど(ついには皇帝まで戴いてしまう歴史の皮肉を思えば)、複雑な連鎖反応が遂には断頭台に王、貴族を引き出すという幕引きをもたらす。

勧善懲悪の物語にならずに、しかし美しい人物は最後まで毅然としているのが魅力だが(ミラボーのかわいそうな描かれ方をご覧)、週刊連載されていただけあって物語の進展のテンポの良さと、処々に挟まれるギャグも素晴らしい。美麗なオスカルも好きだが、ふにゃっとした殴り描きのオスカルも大好きだ。コマ割りは線的ながら、画面構成に一切の妥協なし。最近少女マンガを読みながら「この日本語、おかしいだろ」というのが多かったが、池田理代子女史に関してその危惧一切なし。この美しい日本語に沈潜する快楽、ページをめくるのがもったいない。

あえて問おうではないか。フランス革命をきちんと理解している人がどれだけあるだろう?貴族対平民の争いだという理解では、事の重大性はまったくわからない。例えばRevolutionという単語一つ取ったとして、これを定式的に革命と訳している限り何も分からない。「しっちゃかめっちゃか」が原義だ。

その「しっちゃかめっちゃか」、ヨーロッパという陸続きでそれが生起したこと、全くフシギなのである。というのは、ヨーロッパは王家の間の政略結婚を繰り返し、完全な安全ネットを志向した、いわば人為的に相当ステイブルな社会だったのである。それを断絶に導いたものが、発禁に処された複数の書物だけであったというのはあまりにも腑抜けた説明。とりわけ、強固なネットワークの生成について男系継承ばかりに目を注いでいると、あまりよく理解できてこない。

人が言う贅沢三昧のマリー・アントワネットってイメージに毒されすぎてはいないか。なぜ放蕩にふける女が問題になるのか、気にしたことはあるだろうか。財務の破綻?否。その範囲内で贅沢をすれば問題に成らなかったかというとそうでもない。実は歴史において英国のエリザベスとマリー・アントワネットを双方女だと思うのは大きな間違いだ。前者は歴史的男性なのだといって、わかってもらえるだろうか。現イギリス女王も歴史的・政治的男性なのだよ。マリー・アントワネットはそうじゃない。女であることを公然と断罪された、巨大なジェンダーシステムの一撃だと言えば、カルスタ三昧の愚昧な大学生もふとたちどまるところがあるのでは。

アメリカがイギリスというくびきから解放された後、自由思想がより巨大なカウンターパートとして封建主義に立ち向かったというのなら、同時に流布した人権思想がなぜギロチンという帰結をもたらすのか、説明できないではないか(さらには、なぜ王と王妃が同日に処刑されないか、説明できる?)。それを感傷論といわば言え。君がわかった振りになっている歴史のフィクションに隷属してさっさと19世紀へ足を向けるがいい。

すくなくとも僕がここで挙げる疑問を解決する糸口は、すべて『ベルサイユのばら』に含まれている(是非お読みあそばせ)。それもささやかなヒントとしてではなく、きわめて明示的に。一面的な理解を促進する作品ではなく、綿密な背景知識の再構成に基づいている一巻の歴史書であるゆえん。

こういうときに大事なのは、まず「わからない」気持ちを忘れないでとっておくことだと思う。誰かの説明を聞いて、分かった気になってしまうと「1789年フランス革命」という一行で、壮大なドラマを見逃すことになる。「わからない」から分かりたいのだ。ここから出発し、かつそれからの脱却はその価値を貶めるものではないから、そこをスタート地点に優れた書き手が現れ、次々とテクストが紡がれていったのだろう。モノグラフと文学作品の醜悪な垣根を優美に乗り越えて。

日本のフランス革命の理解に大きな貢献を果たした傑作といって間違いない。

18世紀研究者、必須参考文献。名著。礼賛、池田理代子。

ところで、お部屋に加湿器がやってきました。いつまでも体調が優れないのは湿度不足のせいなのかしら。本には悪いが、ギターと僕にはありがたい(ギターは乾燥しすぎると表面が割れたりします。もちろん湿気が多いのもNG)。

時折ポコポコと水を吸い込む音に、孤独ではないのだと安心する。

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田園

Pastorale

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 窓の外に緑の田園が広がっている。朝の空、薄いインディゴを溶かし、晴れ。遠くに白樺の幹。霧は少しずつ晴れていく。肌寒さの中を二人の人影が歩いていく。足元に小枝を踏み、どこまでも平坦な静寂に波紋を広げて行く。
 羽織ったパーカーのジッパーを上げて、君について歩く。傍らの水田に細かな花びらが微かに揺れ動いている。それならば季節は春。気がつけば僕は、窓の外の人物に同化している。
 足音も、小道を歩く感触も、静かな風も。乾いた髪の先まで、冷たさに張り詰めた空気に共鳴して、木々に、草に目と耳があり、すべての集中が僕の唇に向けられている。
 君に何かを伝えようとして、言葉を発するそのしぐさに、合図を見出したすべての奏者が呼応して、田園の交響曲が始まる。

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二人で、暮らす

luv inundation

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 蛇口をひねると愛があふれて、流れ出す。あ、いけないと思ってキュッと小気味良い音を立てる栓を時計回りにきつく締める。来月から一緒に暮らそうとタツオが言ったので、私は今から少しずつ自分の荷物を移動させたり、物を片付けてスペースを空けたり、掃除をしたりしている。
 この部屋は元々、タツオが作業場として使っていた賃貸マンションで、タツオは実家から毎日ここに通って仕事をしていた。家では集中できないのだ。
 タツオはコピーライターをしている。一度小さな事務所に入って、ヨーロッパの電動歯ブラシの広告でちょっとした賞を受けて、独立してフリーランスになった。独立後も着実に仕事の量は増えていって、時間が足りなくて、人を雇わなくてはいけないかもしれない程になった。個人事務所を立ち上げられる貯金もあったのだけれど、最近大学の同窓生のいる事務所から誘われて、フリーランスをやめて、再び勤め人になった。そうするとこの作業場は必要なくなるので、私たちが付き合って4年にもなるし、一緒に暮らそうということになった。
 フリーランスになった才能ある(運にも恵まれた)コピーライターが再び勤め人になるということは(あまり)無いのだけれど、タツオは別段独立していることに意味を見出すタイプでもなく、経理の細々したことを将来私に任せるのも不安だということで、組織の中で(充実した設備、環境の整ったオフィス)仕事をすることがきらいな素振りは見えない。
 私はタツオが仕事に行っている間にこの事務所にやってきて、キッチン周りを掃除したり、寝室にする予定の部屋を片付けたりしていた。タツオはここで生活していたわけではないので、特に散らかってもいないのだけれど、折角二人で新しい生活を始めるのだから、私の掃除意欲も高まるというもの。
 殺風景な部屋にはタツオの使っていた小さなノートパソコンがちょこんとのったデスク。このデスクは二人で買いに行ったのを覚えている。タツオがまだ実家から小さな会社に通っていた頃のこと。小学校の頃から使っていた物書き机があまりにくたびれてきたので、買い換えたのだ。タツオの実家の部屋で二人でメジャーを使って寸法を測ったことが懐かしい。測った大きさを幅1100、奥行き750とミリで表したのは、タツオが工学部出身だからで、普通の人なら110センチ、75センチというところなのになあ、とぼんやり思っていた。
 絵美にも何か買ってやろうとタツオがいうので、私はユーモラスな顔をした、素焼きのカエルの置物を買ってもらった。中は空洞になっていて、その中に細かく砕いた活性炭が入っている。臭い消しに靴箱にでも入れようかな、と思った。タツオはクレジットカードでそれを支払った。
 「なんで、そんなの欲しかったの?」
 「うーん、自分一人では買おうと思わないから。なんとなく可愛らしい」
 「まあね」タツオは私に物を買ってくれることが殆ど無いので、どんな顔をしていいのか分からないようだった。
 デスクの前には黒いアクリルのフレームにフランシス・ベイコンの描いた気持ち悪い絵がかかっている。フランシス・ベイコンはシェイクスピアの同時代の政治家、哲学者の他にもう一人いる。同性愛者で、酔っ払いの現代の画家で、見るに耐えない絵を描く。タツオはどうしてこの絵を自分の仕事場に飾っているのか知らないけれど、これなら飾らない方がいいとおもうくらい気持ちが悪い。でも、そういうことをタツオに言わない方がいいことは経験から知っている。
 黒いフレームの上に薄く積もった埃を雑巾でふき取る時に、額がゆがんでしまったので、あちらへすこし、こちらへすこし、左右に動かしながら調整していると、パサリと音がし、床には萌黄色の封筒が落ちていた。私はそれを拾おうとし、手が湿っているのでためらう。
 雑巾をシンクに放り込んで、手を洗い、丁寧にタオルで拭いて、グーとパーを繰り返して、しっかりと手が乾いたあとで、その封筒を拾い上げる。切手もなく、封もされていない。中からはきれいに折りたたまれたベージュ色の便箋が現れ、濃い鉛筆(タツオも仕事に6Bの鉛筆を使っていた)で書かれている文字が裏写りしている。
 思わず開きかけた紙を閉じて、私は読んではいけないのだと思う。そして、タツオがこの殺風景な部屋で唯一物を隠すことの出来る絵の裏にそれを隠したのである以上、タツオはそれを私には見られたくないのだということが当然理解される。タツオが私に隠し事をしていることに腹を立てるよりも、隠したのだから見つけてはいけなかったのだし、隠したタツオの意図を尊重したいと初めに思ったことがなんとなくおかしかった。
 けれど、そこに手紙があることに気がついてしまったことは取り消せない事実で、遅まきながら私は傷つく。
 二人の間に秘密があるのは当然の事で、本当にお互いのことを知っているのはただ一部分なのだ。隠していたのでなく、話していないことがあるのは構わない。私が傷つくのは、タツオが隠そうと思ったものを見つけてしまった自分の間の悪い巡りあわせなのだった。
 私の知らないタツオが沢山いる。タツオの知らない私だって沢山いる。そのことを意識しないうちは、どんな嘘だって存在しない。どんな隠し事だって存在しない。けれども、それがあると分かってしまったあとで、私はそれを無かったことにできないことが、困ったなあと思っている。
 タツオが帰ってくるまでの時間、私はそれを意識から消し去ることが出来ないだろう。けれど、その中身を確かめることも、元の場所に戻しておくことも潔くない気がして、仕方なく私はまるで郵便物のように、それをテーブルの上におく。タツオの目に留まり、私たちがそれについて話し合うだろうと願って。
 今、出来ることはなにもない。
 今、出来ることは掃除くらいしかない。
 シンクの雑巾を取り上げて、蛇口をひねると、勢いよく水が流れる。私は不可解な気持ちで水音を聴く。冬眠前に隠した木の実の場所を忘れてしまうリスたちのように、私たちもまたお互いの秘めた過去にそれぞれ出会うことだろう。そんなときに一抹の寂しさを憶えるのは、どんなに私がタツオを愛しても、その思い出を記憶しても、その体中すべての部分に触れても、タツオ一人分の人生をすべて受け止めるには時間が足りないということだ。それはタツオも同じこと。
 水が流れ続けている。今、傷口から愛がこぼれてゆくのだ。タツオが深いところに隠した萌黄色の封筒のせいで、私は自分の毛穴という毛穴から水音を立てて、愛がこぼれていくように思う。けれどもそれは尽きることなく溢れていく。シンクからあふれ、カーペットの上を流れ、いつか部屋いっぱいにそれは溢れ、私はその中で息も出来ない生き物になるしかない。
 きゅっと小気味良い音をたてて蛇口を締めると、ゆっくりとタツオのパソコンデスクに向かい、腰を下ろす。光沢のあるレザーの椅子は商売道具だから、とタツオが奮発して買った品だった。背もたれにタツオの形が残っている。目を閉じて、私はその時のことを思い出そうとする。
 「コピーを考えてるときにね、煮詰まったりして外へ出ることもあるんだけど、それでいいアイディアが浮かぶことはあんまり無いんだよね。もちろん人によるよ。僕は、いいのが出てこないことをずっと考え込んでしまうから、散歩に行ったりしてもそのことから逃れられないんだ。景色も殆ど目に入らない。だから、部屋で本を読むんだよ」
 「なんの本を読むの?」
 「知ってる本じゃだめ。好きな作家の小説なんかだと、筋が分かってしまっているね。そうすると、目は活字を追っているんだけど、別に意味を拾い上げる必要や想像する必要がないから、気持ちはどうしても仕事のことに帰って行ってしまう。でも、僕に必要なのは仕事のことを忘れてしまうこと、そして一旦頭の中をリセットして、一から違う情報をインプットすることなんだ。だから、僕は百科事典のね、どこでも適当に開いたところをじっくりと読む。僕は調べ物の道具として百科事典を引くことは殆ど無いけれど、読み物として読むんだ。でも百科事典というのは文庫本や何かと違って重いからね、お陰で僕には、仕事が上手くいかないときに机に向って百科事典を読むという習慣が出来上がってしまった。だから、仕事をしているときも、仕事が上手くいっていないときも、僕にとって椅子は大事なものなんだよ」
 普段仕事の話をしないタツオが、高額な椅子を買うに際して興奮を隠し切れず多弁になっていたのがおかしくて、私は背中を押すように言ったのだ。
 「タツオの仕事に大事なものなら一番良いのを買ってね。車を買うのに比べたら全然安い買い物なんだから」
 「車に比べたら、そうだね。車一台分くらいの椅子を買ったら、もうそれは仕事をするしかないんだろうなあ」
 黒光りするレザーを撫でながら、タツオは嬉しそうに笑った。私もくるくると笑った。車の無い私たちは電車に乗ってその椅子を買いに行ったのだ。パソコンデスクを買ったときにセットで買った椅子は、今ベランダで鉢植えを載せる台になっている。冬なので花をつけているものは一つとしてない。
 先立つ何週間かは、穴が開くほどインテリアの雑誌を眺めて過ごしていたタツオの姿も懐かしい。その椅子を買った日もタツオはクレジットカードで支払いをした。配送料金が別でそれもカードで支払った。

 お湯が沸く音がして、ぼんやりと目を開ける。私は眠ってしまっていて、タツオの後姿が電気のともったキッチンにぽわんと浮かんでいる。外はもう暗くて、テーブルには萌黄色の便箋の脇に夕刊と郵便物が置かれている。
 「おかえり・・・・・・。寝ちゃってた・・・・・・」
 「お、起きたか。びっくりしたよ。昼寝してるんだもん。今お茶入れるね」と上機嫌のタツオが振り返る。モスグリーンと灰色のボーダーのセーターを着ている。
 妹の結婚式の引き出物で貰ったノリタケのペアマグにコーヒーを入れて、それを両手に持ってタツオがテーブルに振り返る。椅子から立ち上がった私もカーテンを引いて、テーブルに向う。
 「絵美に手紙来てたよ」と椅子を引いて腰を下ろしたタツオの視線が、テーブルの上で固定される。
 私たちの目の前に萌黄色の封筒がある。
 「これ、見つけたんだ」タツオが同じ場所に視線を定めてそう言った。
 私は自分がそれをもとあった場所に戻さなかったことを後悔する。四年もの月日をともに過ごしたのであれば、些細なことで喧嘩をすることも、お互いに距離を置くことも、小さな浮気のようなことをすることもあっただろう。そうしたことを、こんな封筒を壁に掛けられた額の後に見出したというそれだけのことで失ってしまうことが、あまりにもあっけなくばかばかしい気がする。タツオが差し出したマグカップは、まだタツオの手にあって、私はそれを受け取ることが出来ずにいる。
 深い裂け目に足を取られて滑落し、暗く湿っぽい岩肌にもたれながら、昼なのに夜の底の方にいて、早くタツオが探しに来てくれないかなあ、と天を見上げると、細く遠い割れ目に心細い青空。綿菓子のような雲がするりするりと流れているけれど、雨が降り出したら困る。
 視線をようやく上げて、私の目を見たタツオが口にしたのは、懐かしいね、という一言だった。
 それから、にゅっと口角を持ち上げてタツオは中に折りたたまれた便箋を取り出す。それは便箋ではなくてタツオがコピーのアイディアを書きつけるレポート用紙だった。そこにはタツオの読みづらい字と、私の丸々した筆跡が並んでいる。

二人で暮らす家には:
 ・B&Oのオーディオ
 ・赤いソファ(赤でなければならない!)
 ・真っ白な書棚(壁一面に)
 ・機能的なキッチンと可愛らしい家具
 ・生活空間に花を絶やさないこと
 ・円いテーブル

 最初のほうはタツオの字、最後の三行が私の字。
 「こんなことを考えたんだね、昔は」そういってタツオはコーヒーを飲む。「でもこの部屋にはソファは置けそうにないなあ」タツオのメガネが湯気で曇った。
 随分前に、そして他でもなくあの椅子を買った日に、二人が一緒に暮らすとしたらどんな家に住みたいかを話したことを思い出す。最初にオーディオを挙げているのはタツオらしい。私は欲しいものがあまり思い浮かばなくて、なんとなくあったらいいな、というものを書いただけのような気がする。買い物のあとで私たちは再び電車に乗って手ぶらで帰っていった。駅前でチーズケーキを買ってこの作業場に帰ってきて、それを食べながらこのリストを作ったのだ。いそいそと紙と鉛筆をタツオが持ってきたその姿さえ今は思い浮かべることが出来る。大きな買い物のあとで私たちはささやかに理想の未来を描いたのだ。
 「随分経つのに、何一つ達成できていないね」曇ったレンズを指の腹でこすりながらタツオが言ったけれど、その口調には不満めいたものは感じられない。まさかここに一緒に住むとも考えていなかったし。
 この封筒には何も重大な秘密は隠されていなかったけれど、私はタツオがこのメモをさも大事そうに封筒にしまって、額の裏に隠しておいてくれたことがとても嬉しかった。
 「ベイコンの後から出てきたの。なんでそんなところに入れておいたの」私はようやく飲み物を手にとって、あらぬ被害妄想を抱いていたことをひた隠しにそう言ってみる。
 「これを書いたのは、あの椅子を買ったときだよ。絵美は覚えていないかもしれないけれど、随分高かった。今だってそんなお金、ポンとは出せないくらい。清水の舞台から飛び降りるような覚悟だったんだね。で、その晩二人でこれを書いたんだ。まだその頃はフリーになったばっかりで、これからやっていけるのかなと不安だったんだ。で、結構な散財もしてこんなものを書いたんだけれど、そうするとこの紙も捨てがたくてね。だから、仕事をする目標みたいなものにして頑張ろうと思ったんだ。ひとつも叶っていないことに驚くけれど。それで、二人で住むくらい仕事が軌道に乗っていれば、引越しもするだろう。だから額の後に入れておけばその時にこれを目の当たりにするだろうな、と思って。よく見つけたね」
 ひとつも叶っていないわけではない。私たちは近く二人で暮らし始める。リストは一番上から実現していることになる。
 萌黄色の封筒を前にして、私がどんなに不安な気持ちになったか、悲しい気持ちになったか、それをタツオには伝えない。そして私がどれほど今嬉しい気持ちでいるかもやっぱり伝えない。言わなければ、言葉にしなければ伝わらないのだと知っているけれど、やっぱりそれは伝えないのだ。タイムカプセルのように今日届いた、いつかの私たちの理想は少しずつ叶えられていくといいな、と思う。
 タツオは細い指でその紙を折りたたんで元の封筒に戻す。それから私たちは今日の話をする。

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w. d. r.

本を読むスピードが早いか遅いか、というのは本を愉しむこと自体にはあまり関係が無い。ケーキを早く食べられるといって、自慢する人はあまりいないし、それはケーキの美味しさと別問題だ。

ただ、文章にはそれを読むのに相応しいスピードがある気がする。難解な本をすっと飛ばし読みしても、汲み尽くせないことが沢山あって、小説をあまりにゆっくり読んでいると、文体のリズムや構成の妙を見失ってしまう事だってある。

幾つかの本を平行して読む僕にとって、個々の本がそれぞれに持っている雰囲気を味わうのに重要なのは、まとまった時間をその読書に充てられるか、ということと、それを読むのに相応しいスピードで活字を追っているか、ということだ。だから、そのシフトをいつも模索しながら複数の本を読む。縦だったり、横だったりする文字列を網膜に映す。

外国語で本を読むときに、僕にとってそれは外国語だから、さらさらと読むことは出来ないけれど、あまりに立ち止まって読んでもだめなのだと思う。自分の読むスピードと作品の持っているうねりのようなものが一致すると、気が付かないうちに何ページもすすんでいることがある。なべて世の物体には固有の振動があり、それが一致すると大きな運動が生まれるように。

そういう読書が僕の理想だ。

そうした速度を探しながら、一つ一つの本に出会うことで、僕は一回性のある経験の中に放り出されている。急いで読む必要はない。今出会う景色に、今同じ気持ちで二度出会えないのだから。

ちょうどいい歩幅で歩けばいい。

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おもちゃは片付かない。

1おもちゃが増えて困っています。

2 いらないものは捨てなさい、という声が遠く聞こえる。いらないものなど、決してない。空耳だったのだろう。

3

本も増えて困っています。カテドラ本が棚を一段いっぱいにしている。カスタリア本もそう。

増えるところまで増えたら、自浄作用が働くだろうと期待して、今はこのままで。いつまでもこのままで。

本棚を見たら人となりが分かると思う。おもちゃの棚も同断。

こんなひとです。僕は。

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ECHOLOGY

La_torre 寒い日が続きます。世界。

正月から体調が悪いのでなかなか外へ出かけたり出来ないのですが、今日はこれより代官山へ遊びに行ってきます。

東京で好きな場所と言っても、あまり人の多いところは疲れてしまうので、こじんまりと美しい場所が良い(銀座は別として、ね)。昨年は何かと自由が丘に用事があったのだけれど、今年は代官山でも、ゆるゆる時間を過ごしたい。

環境は周りを取り囲むもの、という意味。魚だって水はきれいな方がいいし、人間だって景色が美しい方がいい。面白いと思うのはEcology(環境学)という言葉に眠るEcho。SurroundingsもCircumstanceも空間的な広がり。それを音で表したら、やはりエコーだろう(ギリシア語のekho)。

今お風呂で読んでいる本:Javier Marías, Mala índole, Barcelona: Plaza & Janés, 1998.

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今年はJovellanos

そろそろお正月気分も抜けてきました。世界。

僕はそんなにお正月が好きではなくて、この平常で無い感じが非常に不快。だからいつもと同じように過ごすように心がけているのに、周囲は浮き足立っている。

でも明日から仕事始めという方もあるのでしょう。頑張ってください。

僕は年末からJovellanosの伝記を読んでいます。文章が平易で、Jovellanosのことをはじめて知る意味ではいいかな、と思っています。

これまで僕はCadalsoという軍人/作家を中心に読んできていました。彼は1782年に戦死するので、その後に控えているカルロス3世の崩御も、フランス革命も知ることがありませんでした。愛国心やネイションというテーマで考えればこれほど重要な事件もまたとなく、近代史における巨大な転換点である封建主義の打破に彼が立ち会っていたならば、どんなことを思ったか知れません。それは残念です。

一方でこちらのJovellanosはそれにも立ち会っているし、その後半生の悲劇はこれら二つの事件と、大いにヨーロッパ世界を塗り替えた思想の変遷に翻弄されて訪れたといえるほど、それはそれは素敵な人物です。僕は18世紀を考えるときに明治維新のことをよく引き合いに出すのだけれど、18世紀ヨーロッパ研究をやっている人にとっては、これほど魅力的な材料は無い(いない)のかもしれません。これから僕の研究関心はCadalso死後のスペインに軸足を移していきます。もちろん、18世紀前半にも目を向けていきます。とにかく、スペイン語がここ最近で一番読める時期を迎えています。2002年の夏もそうだったなあ。あれから随分怠惰な時間を過ごしてしまったことを、いまさらながら後悔しています。

そんなわけで今年はJovellanosで読書がスタートです。読んでる本は:

Manuel Fernández Álvarez, Jovellanos, el Patriota, Madird: Espasa Calpe, 2001.

ところで、この本を買ったのは2002年の3月。バリャドリードにて。

「いい本買うなあ、自分」、と思ったのでありました。

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あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

皆さんに幸多からんことを心よりお祈り申し上げます。

今年もよろしくお願い申し上げます。

                                                    2008年元旦

                                           富田 広樹

Happy_new_year
All the best wishes for the year 2008.

Toda la buena suerte para el año 2008.

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