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『ドン・キホーテ』を読んでみる

2週間くらい前から『ドン・キホーテ』を読んでいました。前編と後編があって、岩波文庫で全6巻です。スペイン文学といえば、まず名前の挙がる『ドン・キホーテ』ですが、実際に読んだことがない人も多分多いはず。翻訳も数種類出ています。スペイン語で書かれた本の中では最も多くの翻訳がある作品でしょう。

まあ、別にスペイン文学をやる人が全員『ドン・キホーテ』をやってるわけでもないので、気にもしていませんでしたが、今回必要に迫られて読みました。

前編は誰もが知っているエピソードが多く含まれていますが、そのお陰で「ああ、あれね」と読む前から話が分かっているような感じ。しかも長々と書いているので疲れてしまいます。面白い箇所もあるけれど、もっと短くて良いのに!と何度思ったことか。

何を隠そう、後編ははじめて読みました。前編が1605年に出版されて、その10年後1615年に後編が出ています。こっちの方が面白かったのは、単純に初めて読むから、ということもあるのだけれど・・・前編(セルバンテスは当初、続編を書くことを想定していなかったと思う)が人気を博したので、かなり大勢の読者を想定して(売れることを狙っていて、かなりいやらしいですが)書いているところでしょうか。文学的仕掛けが複雑化しつつも、前編でこれはいらなかったなあ、という部分がそぎ落とされていたり。あと、前編にあった不備を後編で弁解していたり(印刷工のせいにしちゃってる)。

今日で言えばメタ・フィクションと呼ばれるようなものがあったりして、(後編の中では前編の読者達が登場したり、別の作者が書いた『贋作 ドン・キホーテ』への批判がされていて、そのためにドン・キホーテ主従の旅の目的地が変えられていたり)なかなか。

とはいえ、こういう現代的な問題意識というのは、現代の人が昔のものを読んでそこにしばしば見出すものなので、あまりあてになりません(大抵の文学的実験は『聖書』に見出される。要するに読む人がそういうものだと思って読めばそこに現れてしまうのです)。

例えばいろんな人がミハイル・バフチンという人の理論を使って様々な作品解釈をしていますが、バフチンとしてはドストエフスキーの独自性を解体するためにあつらえた武器としての理論です。結果として、今日の駄目な方たち(沢山、沢山います)がバフチンを珍重することにより、バフチンが重視したドストエフスキーの独自性が地に落ちるというおかしなことになっています。どうしてそういうことがわからないのか、そのことのほうが謎かもしれない。人の手柄を横取りしようとしてはいけないし、換骨奪胎していいものが出来るとは限らないということです。

『ドン・キホーテ』を読むという行為から引き出す結果は人それぞれです。多くの人が魅了される一方で、「つまらないな」と思う人があってもいいと思います。世の中読むべき本はもっと沢山あるし。ただ、「これは凄い」と思った人は是非それを言葉にして発信してほしいと思う。なるべく自分の言葉でね。

僕はquixoticという英単語が好きです。「ドン・キホーテのように無謀な」という意味の形容詞なんだけれど、元々なんだったか類推できないような発音がかっこいい!


大江健三郎さんの『憂い顔の童子』について考えるために読んでいたものです。読んだ後はこんな感じ。Posted_too_much

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