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2007年7月

手術の日

14:00、電車に乗って移動中に電話が鳴ったので、普段降りない駅で飛び降りる。はっぴぃの入院している病院からで、午前にあらためて血液検査等を行い、昨日と変わりない数値を示しているそう。これより麻酔をかけて手術を行うとの連絡でした。くれぐれもよろしくお願いします。何度も、何度も。

子宮自体を摘出する場合2時間程度かかるそうです。今回は膿が溜まった子宮なのでもう少し時間がかかるかもしれません。それから、超音波診断(エコー)で分かったことなのですが、脾臓という臓器に腫瘍の影がありました。腫瘍というのは良性と悪性があります。どちらも細胞の数が増えてしまって塊が出来るのだけれど、ほったらかしておいて問題がないものと、取り除くべきものがある。まあ、ないに越したことはないですね。

脾臓の処置については、主眼である子宮摘出にかかる時間や麻酔の安定性、効果、実際の脾臓の状態を目で見て取るべきかどうかを判断していただくことになりました。度重なる開腹手術にはっぴぃさんが受けるストレスも計り知れないので、もし悪いものなら今回取ってしまった方がよい。こちらも摘出する場合4時間くらい手術にかかるとのことでした。手術が終わった時にまたご連絡いただけるとの事。

14:30から手術がスタート。僕は大学にいて、そわそわと電話がかかってくるのを待っていました。落ち着きがないというか、何にも集中できないのだけれど、かといって何もしないでいることも出来ない嫌な時間でした。

電話がかかってきたのは17:30でした。手術が終わり、はっぴぃが麻酔から少しずつさめてきているということでした。子宮と脾臓の摘出が済んだとのことでした。ありがとうございました、と何度も、何度も。馬鹿みたいに。

会いに行くのは明日。連れて帰ることは出来ないけれど、そして辛くなるだけなのだけれど、顔を見に行って、手術の様子などをうかがいます。摘出された子宮も見ることになります。僕は正直そういうのを見たくないのだけれど、それはちゃんとやはり見に行かなくてはいけないと思います。

これこれこういう理由で手術するということを、僕ははっぴぃに言葉で伝えてあげることは出来ません。はっぴぃにとって、手術そのものが麻酔で眠っている間にお腹が切られて、目が覚めると大怪我を負っているという事件でしかない。はっぴぃにとって手術は、理由も分からず加えられる圧倒的な暴力でしかない。だからこそ、僕はそれを見て、聞いて、理解する義務があると思っています。

昨日病院に行って、そのまま入院。翌日手術というあっというまの出来事でした。昨日検査の結果を知らせる電話を受けてから、ふわふわと病院まで歩いていきました。くねくねと道を歩き、階段を歩き、セミの声もしていたはずなのだけれど、とりあえず気付いたら病院についていました。こういうとき取り乱すとみっともないことだよなあ、と頭の中でリフレインしていて、大人なんだからしっかりしなきゃ、と。本当にあっという間にいろんなことが過ぎて生きました。そっか、発見から手術の完了までその間48時間もなかったんだ。

お世話になった病院では今日は休診であるにも関わらず、手術してくださいました。普段の仕事と並行するのではなく手術が行われたことにどれだけ安堵を憶えたことでしょう。本当にありがとうございました。

励ましの言葉をいただいた方や、はっぴぃのためにお祈りしてくれた方も本当にありがとうございました。

とりあえず明日顔を見てきます。おやすみなさい。

よかった。本当によかった。

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そんな緊張が解けたら、僕自身とても体調が悪いことに気がつきました。そんなわけで、明日は動物病院のあとに人間の病院をはしごすることになりそうです。

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入院したはっぴぃさん

週末よりはっぴぃの体調がよくないな、と思っていました。具体的には次のような感じ。

・食事を摂らない
・体温が高い
・ぐったりしている
・多飲多尿

夏は食欲が落ちるものなのであまり気にしていませんでした。時折ぶるぶると震えていることがあり(熱があるのかと思いました)、病院へ連れて行きました。

レントゲン、血液検査、尿検査を経て、可能性が疑われる病気として『子宮蓄膿症』というものが挙がりました。避妊していない中年のメスが罹り易い病気です。血液中の白血球の数が増大していると、これが疑われるみたいです。

子宮蓄膿症は子宮の中に雑菌、ばい菌が入って繁殖し膿として溜まります。それが血流にも混じって、最終的には死に至る病気です。生理の後などに陰部を舐めていたため雑菌が入ったのでしょう。膿が溜まって子宮が破裂することもあります。早い段階での子宮の摘出が効果的な治療方法です。

そのようなわけで、今朝連れて行ったまま即入院し、明日、明後日に手術をする予定です。なぜもっと早く病院に連れて行ってあげなかったのか、という後悔が強くあります。でも、過ぎたるは及ばざるが如しなので、今しっかりしていないといけないと思います。連絡を受けて病院へ行くまでの間は随分オロオロしたのですが。

早く元気になって帰ってきますように。本当に今はそれだけ。早く帰っておいで。

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夏らしい空を、しばらく見ない。

雨が降る。雨が降る。雨が降る。

夏は体調も悪くなりがちなので、涼しい毎日はありがたいのですが、雨の中に立つひまわりを見ると少し残念。夏らしい空を、しばらく見ていない。

『本が好き』8月号に掲載されているファミコンに関する文章が面白かったです。ゲームセンターでプレイしていたゲームが家で出来る、ゲーム専用機としての手軽さ(パソコンとの分離)、コントローラーという”発見”(これがゲームの臨場感を増していたという指摘にはっとしました)、自分で採点できるプレイ環境などなど、ファミコン世代の僕にはなるほどね、と思うことが多かったです。ファミリーという命名にお父さん達はグッと来たのですね。

ひこ・田中「子どもの物語はどこへ行くのか」『本が好き!』2007年8月号、48-56.

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長嶋有『パラレル』のこと

長嶋有さんの小説の脱力するような心地よさ。彼の書く文章をもっと読みたいと感じさせる。作者が書きたいと思っていることが、ことごとく批評家の勘所とずれているところも面白い。

彼にとって言葉を与えて書きたい、語りたいと思っていることが、案外物語の些細なディテールだったり、注意して読んでもらえない箇所であったりすることが、逆に彼の作品をもっと読みたいと思わせる原因なのかもしれない。少なくとも僕にとって。

Pararel『パラレル』(文春文庫)はそうしたことがおそらくとてもつよく感じられる作品である。

感情移入できなければ、どのような芸術も、単なるモノでしかない。幼少の頃にアニメに夢中になっていたはずなのに、大人になってそれを鼻先で笑うようになったということは、あなたがもはや、そんなものには感情移入できないということだ。

感情移入は自己を捨象した上での経験する主体性の投影に他ならない。想像力の問題なのである。サッカーボールが蹴られてかわいそう、と考える子供は、その五感をもってサッカーボールと自分の心性を重ね合わせる。心性を重ねあわせる、といったのは、この自分とサッカーボールの距離を小さくして、その体験を追体験することだ。想像力を欠いていては、どうしてもそういうことが理解できない。そして、長嶋有は感情移入の達人なのである。

作者のジェンダ的に曖昧な名前(本名)から「この作家は女性?」という誤解を多く受けるそう。繊細な心の機微をくどくどしく叙述しないことに魅力を感じる。男は書きすぎるからだ。僕としては今回語り手の主人公(男)が別れた元妻について「かわいそう」と感じるシーンに心を動かされた。

論理的に正義を説くものに色気が欠けていると考える主人公は、浮気をする妻(後に離婚)を難詰することも出来ないし、かといって許すことも出来ない。ただ、彼女がもはや妻ではない女性になってしまった後でも、つまり大きな距離が生じてしまった後でも、そこに「かわいそう」とその痛みを代替出来る感受性がある。

「言わないでおいたこと」が数多く語られる『パラレル』という作品の中で、主人公が手に入れるものはすべて偶然の産物に過ぎない。彼自身が何かを勝ち取るという物語ではない。それでも、目の前に起こる物事、通り過ぎる人々、そのすべてへの感情移入の眼差しが彼を主人公たらしめている。

これは誰の物語でもありうるけれど、まずはささやかな名前を持たないものへの暖かい眼差しにあふれる長嶋自身の物語でもある。そして、それを「なんだ、くだらない」と思うか、その言葉に耳を傾けることが出来るかどうかは、読者の想像力の有無にこそ依拠している。

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想像力の欠如こそ、絶望だ。

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お金の話

お金に汚い人とは付き合えない。そういう人を見ると、この人はささやかなことで、もっと大事なものを損なっているな、と感じる。

貧乏自慢みたいなものも嫌い。人のためにお金を使えないのも嫌い。自分のために使えないのは最も悪い。そういうのは醜い。お金のあるなしではなくお金の使い方のスタイルなんだと思う。

生まれてからその人がどういう態度で生きてきたかということが如実に現れる。「育ちの悪さ」の顕著なもの。一緒にいるだけで、こちらまで損なわれてしまうように思う。裕福さと貧しさの違いではなく(貧しさへの恐れは軽蔑とは異なる)、生き方の違いだと思う。

こういう矯正のしようのない欠点を負った人に同情はしない。軽蔑はしない。僕は相手にしない。

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アルゲリッチ:チャイコフスキー、ピアノ協奏曲1番

Argerich_1 僕が生涯で最も多くの回数耳にしているクラシックの曲はチャイコフスキーのピアノ・コンチェルト一番だと思う。有名な作品ではあるのだけれど、個人的にこの曲を聴くと勉強してしまうという恐ろしい効果があります。だから普段は聴かないようにしている!

どうしてこの曲を聴くと勉強してしまうのか、というといわゆるインプリンティングや習い性といったようなものです。高校三年生の受験シーズンまで僕はオーストラリアのタスマニアというところにいたのだけれど、日本に来る前にそこで買ったCDが50枚くらいあって、それを船便で送ったのですね。で、日本では手持ちのCDが殆どなかった。辛うじて持っていたのがこの曲。受験生は殆ど学校に行く必要もなかったので、ずっと家でエンドレスで聞いていました。僕の中にある「勉強しなきゃな」という気持ちとセットで頭の中に刷り込まれてしまった音楽がピアノ・コンチェルト1番。これしか聞いてなかったもの。

その時に聞いていたのは割合端正な演奏なのだけれど、グラモフォンから出ているアルゲリッチの演奏を聴いたときは正直びっくりしました。

Martha Argerichはアルゼンチン・ブエノスアイレス出身のピアニストです。彼女が1970年にロイヤル・フィル(デュトワ指揮)と録音したものです。アルゲリッチ29歳の音(グラモフォンには1994年にアバドと録音したものもありますが、こちらはまだ聴いていません)。

「マルタ、怒ってる?」というくらい感情の起伏が激しい演奏で、指揮者、オーケストラと足並みがそろっていないのでは、とさえ思わせるところも多分にあります。もっとも、有名ピアニストによるこの作品の録音は、すべて指揮者と彼、彼女の戦いを売りにしているのだけれど(たいていの場合、指揮者に分が悪い)。アルペジオできわめて饒舌に和音を弾いたりしていて、最初は嫌悪感も持ったものです。でも、録音が素晴らしくて音の粒がすごくきれいに残っているんですね。演奏のスピード感とアルゲリッチの魅力が全面に現れている名盤。第一楽章の冒頭の叩きつけるようなピアノで笑ってしまうんだけれど、それは聴き手の僕が狭量なせいで、とにかく若々しさが漲っている素晴らしい演奏。

耳にすると勉強してしまうから聴かないようにしたいのですが、つい再生してしまう一枚。

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ミステリが読みたい・・・

推理小説をミステリと呼ぶのは、きっと日本だけなのではないだろうか。英語のmysteryを辞書で調べても、謎とか神秘といった意味はあるけれど、それと推理小説が直接繋がるような語義はない。

多分に宗教的(神父が探偵役であることも多い。このことを正面から論じた人はいない、と高山宏さんが指摘している)な言葉であるミステリが、日本では推理小説の代名詞として通用し、かつ推理小説の専門雑誌も多く刊行されているという状況は素敵だと思う。

文学は最高度の発展を遂げるとすべてミステリ的な様相を呈してくる。解釈を拒む言語の結晶体として現前する。それは、「ここで作者は何を言いたいのか」という問題ではなくて、「このテクストを読むこと」が何であるか、という問いに変身する。君が読まなければ謎は存在さえしない、という。

けれど、広義の文学ではなくて、いわゆるミステリに視線を戻し、僕が優れた作品だな、と思うものは、再読に耐えうる性格を有している。謎が解かれてそれでおしまいにならない。何度でもそのテクストを味わいたいと思わせるもの。端的に次の要素があるような気がする。

(1)登場人物、世界観の魅力
具体的なディテールの積み重ねとしての、作品世界の魅力のことです。何度でもその主人公に出会いたいと思わせるもの。多くはシリーズ化されている。例えば、森博嗣『すべてがFになる』(シリーズは僕の中でイマイチなのだけど)や畠中恵『しゃばけ』シリーズ(こちらは文句なしにそのすべてが愛しい)。

(2)文章の魅力
これは描写や造詣といったことではなく、目でその文章を追う事自体が快楽になってしまうようなテクストのことで、多くは抽象的な概念の流れを開示するリズムとボキャブラリに魅了される。佐々木丸美『崖の館』はその最たる例かもしれない。これはミステリに限らないのだけれど、すべての文学がミステリ的であるというのは、こういうたゆたいを武器にしているからだと思う。プルーストほどミステリアスな作家はいるだろうか?

(3)物語を構成する楽しみ
再読(リ・リーディング)による再構成ではなくて、単純にあるシークエンスに則って部品を当てはめていくことの魅力。文学作品は確かに再読によって解釈されるのを待っているとも考えられるけれど、僕が魅力的だと思うのは「この順番でこうしたことが書かれていること」が素晴らしいというテクスト。小栗虫太郎のバロック的な作品には、羅列開陳そのこと自体に独特の力がある。

書かれたものはすべて、読む行為はすべて、ミステリに繋がっている。人の形の記憶も、連綿と流麗に連なる思惟も、置き場所の決められた小道具的知識も。本を読みながら、それはミステリではなかったけれど、僕はそんなことを思っていた。

Jeanjaqcues 今読みたいな、と思っているミステリは『ジャン=ジャックの自意識の場合』という小説。もう買って用意してあるのだけれど、別の本が読み終わらなくて、そこまでたどり着けずにいる。タイトルからして僕がページを開くのを待ってる気がするもの。

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雨の文月

Tree_of_greenお天気優れない日々が続いていますね。こんなときは部屋の中で過ごすのもいいものです。

昨日くしゃみをしたと思ったら、さくっと風邪を。病院にいって薬を貰って帰る。たくさん寝て治します。

大学もおよその行事や予定が終わり、もう少しで夏休みを実感できるようになる。毎年夏休みに目標を立てては達成できずに落ち込むので、今年は目標を立てない!

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同じグラスの中で

Chateau_de_lamarque人間の脳の中で随分な領域を占めている言語に関する部位が、僕達の幻想を生み出している。文学などもそう。文学についての言説もそう。というか、なんでもそう。言葉を使わずに今のままのあなたでいられないように。

ああ、だから嬉しいことも悲しいことも、同じグラスの中に浮かんでいるのですね。

近しい人が結婚することになりました。おめでとう!

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7月の大事なこと!!

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7月21日(土)に『時をかける少女』が地上波放送されますね。詳細は・・・

ぜひぜひ皆さんご覧ください。

とても切ない気持ちにさせられてしまう作品です。

 

夏がやってくるんだな、と思う。よい文月をお過ごしください。

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