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2007年2月

『攻殻機動隊』のこと

 第21回デジタルコンテンツグランプリが発表される。そんなものがあることさえ知らなかったのですが、もう21回目。ここのホームページが一番センスないなぁ。

『嫌われ松子の一生』『時をかける少女』という僕も好きな作品が受賞(ノミネートの時期が違うのでしょうか。『パプリカ』も来年必ずここに入るのでしょう)。

そして審査員賞を受賞したのが、『攻殻機動隊-Ghost in the Shell- Solid State Society』!!

『攻殻機動隊』は僕が新年に入ってからとてもはまったアニメです。いろいろな人に薦められていたのですが、なかなかめぐり合わなかった。とはいえ、僕が見たのは映画版、コミック版ではなく、テレビシリーズのStand Alone Complexです。

近未来という設定なのですが、本当にそういう方向に進化していくんじゃないかな、と思わせる。細かいところが非常に素晴らしい。天気予報の画面があるのですが、そこでFireFox的なタブブラウザになっていたり。外部に記憶を蓄積できたり、感覚器官を切断できたり。そうだよね。温暖化を止めるには発熱量を減らすべく人間をコンピュータに近づける必要があるよね。

キャラクターも魅力的で、毎回毎回30分できちっと話をまとめるところ、だらだら続けないところが素晴らしい。基本的に刑事モノなのだ、と僕は思いました。日本はテレビドラマとかでも刑事モノが非常に多い。その素地の上で、こんなにきれいにまとまってるんだ。

中心には複数のエピソードを貫く大きな事件が取り扱われており、それが現代の抱える問題と密接に関わっているところも興味深いです。薬害とか外国人移民(難民)といった問題。

音楽を担当しているのが菅野よう子さん。非常に美しいメロディやかっこいいオルタナティブなサウンドにあわせて、歌モノが非常に多いです。普通サウンドトラックというのは話の邪魔にならないように歌を避けるのですが、菅野さんはがっつり入れて来ます。素敵!S.A.C.1の方では、Aeria Gloris(Wind of Gloryという意味ですね)というラテン語で既に心を打ち抜かれていましたが、歌詞がロシア語プラス英語だったり。音楽がかっこいいアニメ、好き。

 

それから、タチコマというロボットが出るのですが、S. A. C.はすべてタチコマのためにあるのではないか、というくらい感動的な役回りを果たしていて、胸に響く。

Tachikomafrontview蜘蛛をモデルにデザインしていると思われ、節足動物的なカクカクした感じもいいです。留守番のときはお土産をねだったり。

 

Tachikomabackview_1

そんなわけで、少し気は早いですが、3月の月刊バースデープレゼントは3月発売のタチコマフィギュアに決定し、既に予約してしまったのでした。

狭い部屋がどんどん狭くなっていく。

それでも、タチコマが部屋にいると幸せになれるような気がする。

ね。

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2月最後の週末

Dg20谷崎の『痴人の愛』を読み、プルーストのスワンの恋も多少似たところがあって。いろいろ、気をつけて生きてゆかなければ、と。

2月は事件もなく、受験があっただけでしたね。

2月最後の週末、夕方になっても太陽は高いところに。


さて、手持ちのCDをiTunesで地道にmp3にしているのですが、20ギガを越えたあたりからホント終わるのかしら、と不安に。半分超えてないし。これなら誰かにバイトでお願いした方がよかったんでは。

そもそも、「もう音楽を聴くな」、というお告げかも。

「これ以上CDを買うな」という耳鳴りもする。

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知ってください

Brucella canisというイヌ・ヒトに感染する病気に感染した犬たちが処分されようとしています。

イヌの繁殖業者が適切な管理を行わず、劣悪な環境で飼育されていたために、この病気が犬たちの間に広がったもので、心無い繁殖業者に責任があります。一方で、この病気は治療をすれば治すことが出来るものです。

問題は、この犬たちを一旦引き取った動物愛護団体が自治体にその管理を委託(手を投げた)した後、自治体(大阪府和泉市)では殺処分の方針をもって対処してきたことです。

一方で治療すれば救うことができる。援助は惜しまないとして名乗りを上げた複数の団体の要求に対し市は頑なに協力を拒否し、行き届かない管理体制の下で病気そのものではない理由で衰弱した犬たちが命を落としています。

繰り返して書きますが、犬たちは病気そのものによって命を落としているわけではなく、「こうすれば助けられる」ということが分かっているのに、それに手をこまねいている行政に人為的に殺されているのです。どこかに隔離して、死ぬまでまとうという態度です。

事件に関心を持った方の声で事態を変えてゆくことはできます。次週には衆議院議員の方も視察に入られるようです。

どうぞ関心を持ってこの子達のことを知ってください。

Banarbrucellosis

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突然オリーヴ

Olivoすわ、春が訪れたか、という陽気でした。一人と一匹の散歩にはうってつけ。昼からそわそわ家を出て歩く、歩く。

街中でオリーヴの木を発見。こんな立派に育つのですね。

スペイン語には名詞に性があって、木は男性形で実は女性形で呼びます。オリーヴの木はオリーボ(el olivo)、実はオリーバ(la oliva)。面白いですね。でも、おつまみとかで出てくるオリーヴの実はアセイトゥナ(la aceituna)と呼ぶことが多いです。こちらはアラビア語起源なのです。これ、すごく好き。

木になってる実を採って食べると、大変なことになるから気をつけてね。

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スーパー計算機

Calculatorなかなか迫力のある計算機です。なんと、logやsin cos tanまで計算し、括弧のついた数式もお手の物、x!というボタンもあるつわものです。理系の人にはおなじみのスーパー計算機ですが、僕にとってはかなり無用の長物。

これを買ったのはオーストラリアで数学の授業に必要、といわれたから。実際に活躍することはなく、まったく普通の計算機として使用しています。あれから10年たちました。今も現役で動いています。偉いなあ。

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よっこいしょ

Yokkoishoあ、よっこいしょ。とはっぴぃさんが伸びをしていらっしゃいます。

今日も一日頑張るぞ、と。

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コード・スイッチング

人を待ちながらパラパラとめくっていた『本が好き』3月号で、関西弁訳聖書がすこし取り上げられているところがあってくすくす笑う。そうそう。方言って微妙なニュアンスを出したり、一方で変な先入観を植え付けたり。文字化されたものにしても、方言をそのまま再現することを試みたテクストは、なるほど、音を残す。

ちょうど谷崎潤一郎の『卍』を読んだところでもあったのですが、そこでも取り上げられていました。谷崎は元々関東の人間なのですが、関西に移ってからその方言で作品を書こうとしました。『卍』は不思議な心理小説です。人の心に潜む疑心暗鬼を紙の上で、インクのしみによって縦横無尽に繰り広げる。加えて、これがすべて関西のある夫人(未亡人)の口から語られる。書き手である私に長々と話す女性の物語を、作家であるところの彼(本当は語り手としての私)が採録しているというもの。

そうはいっても、すべてこのご夫人の会話によって構成されており、時々差し挟まれる文章を描いている人物による述懐だけが標準語です。あとは関西弁です。

僕は自分が関西に暮らしたことが長くあるとはいえ、自分のそれを生粋の関西弁というつもりはありません。まして、関西でも大阪のもの、神戸のもの、奈良のものというだけで随分と違うわけで、それらの中でも個々に差異は随分と多い。僕が子供時代に祖父母の宅を訪ねた折は大阪市内ではありませんでしたし、学生時代は北のはずれでした。大阪の南の方の人からしたらまだまだ生易しいでしょう。

そんな僕がいうのはなんですが、読みながら谷崎の文章が非常に気持ち悪かったのです。終始一貫して。『卍』は発表当時もその挑戦は高く評価されながら、失敗と見做されてきた作品でもあり、強いて言えば僕は何か活用規則というようなものをあまりにも正確に踏襲しすぎたところが逆におかしな響きとなっているわけです。谷崎がどのあたりの大阪を想定したかにもよるのですが、多分関西の人が読むと気持ち悪い。

でも、方言にオーソドックスを求めるのは野暮な話なので、個体差は大いに寛容に受け止めつつ、作品を愉しみました。

さて、話す相手によって敬語を使うか使わないか、というのと同じレベルで、相手が関西弁のときにこちらも関西弁を使うということが僕には多くあります。うちは両親とも関西の人ですし。で、一対一で話をしているときにはなんともないのですが、そこにもうひとり普段僕が標準語で話している人が入ってくると気まずい!のですよ。「あれ?」って。

関西の友達と話をしていてこれをどうしたらいいのだろうということになりました。友達は「そういうのはいやだからすべて関西弁で貫くことにしている」と言いました。なるほどね。でも、これが英語とかドイツ語だったらどうだろう。

スペインで知り合ったドイツ人の友達のところに遊びに行ったことがありました。僕と彼女はスペイン語で話をするのですが、彼女の友人はスペイン語が分かりませんから、皆で話すときには全員が英語で話をしました。言語レベルの差異と方言レベルの差異を同じにするな、という声も聞こえてきそうですが、僕がずっとスペイン語で話をしていたら変だと思う。その場にいる人が分からない言葉で話をするのは、失礼だよな、と思う。ただ、それだけのことなんだけど、まあ、そんなことを思っていたわけです。

言語なり、方言なり、敬語なり、言語のコードを切り替えることをコード・スイッチングというのだそうです。これを切り替えることはすごくストレスになる。同時通訳や会議通訳の人たちの苦労たるや想像を超えますね。ただ、自分に余裕がある限りにおいては、その切り替えを怠らないようにしよう、と思いました。

そうしたら、同じく冊子の中で山崎ナオコーラさんが書いているエッセイが「八方美人」を取り上げていました。


そっか、そういうことを考えるから、変に疲れるんだな、と思った。でも、やっぱり切り替えるんだろうな。

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デスクトップ

今年は様々な場所で『温暖化』がキーワードになりそうな予感。アル・ゴアの『不都合な真実』をはじめ、様々な書籍が出版されそう。僕の知っているところではジェームス・ラブロックという人が『ガイアの復讐』という本を出していて、ガイア理論そのものについての予備知識のなかった僕は、色々と感心しながら読みました。ただ、ガイア理論はある種のスピリチュアリズムと誤解されやすいので、あくまで比喩としてのガイアという呼び方であるということを失念しないようにしなくては。
Desktop
私のデスクトップ。パソコンじゃなくて、リアル机の方です。はっぴぃが小さい頃の写真、ワーゲンバス、東京ディズニーランドのバス、そしてミニチュア・シュナウザーのペーパークラフト。

このペーパークラフトはキャノンのサイトにあります。かんたんなのから、難しいものまで、結構楽しめます。

ちなみに、デスクマット(机の上に敷いているゴムみたいな透明のマット)を12年ぶりに替えました。そりゃ僕も年をとるはずだ。

オノ・ナツメさんの『リストランテ・パラディーゾ』という漫画を読みました。絵が好みでない方は受け付けないかもしれませんが、なかなか素敵な漫画でした。

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Blue in Green

Blue in Green

 信号を待っていると、道路の向こうにサトルさんが立っていた。信号が青に変ったのと、お互いに軽く会釈を交わしたのが同時だった。横断歩道の中ほどで二人とも立ち止まった。
 「お店、あいてますか?」
 「ええ、瀬戸君がいます。ちょっと、豆買ってくるんで。ゆっくりしててください」
 サトルさんはそう言って駅の方へ向かって行った。秋の初めの雲が、遠くの空にふたつみっつ浮かんでいた。
 ドアを開けて階段を下りると、瀬戸君が振り返ってこんにちはといった。
 彼は8月の終わりからサトルさんに絵を習いにここへやってきている。元は喫茶店と間違えて入ってきたのだが、通ううちに壁にかかっている絵を気に入って、誰の作品かをサトルさんに尋ねた。その絵がサトルさん自身によるものだとわかると(僕も知らなかったが)、彼は絵を教えてほしいと頼んだ。サトルさんは人に絵を教えたことなどないし、実際に大した絵を描いたこともないと断ったのだが(彼は似顔絵屋なのだが)、翌日から瀬戸君は道具を持って店にやってくるようになった。
 僕はカウンターに腰を下ろすと、広い空間に折りたたみ式の椅子を広げて、小ぶりなスケッチブックを片手に鉛筆で下絵を描いている瀬戸君を振り返った。ビル・エヴァンス・トリオのアルバムが抑えられたヴォリュームで流れている。瀬戸君はまだ夏休みなのだろうか。彼は有名な私立大学の英文科の学生ということだったが、最近の大学は10月にならないと授業を再開しないようだ。
 「師匠は豆を買いに行っちゃって」
 「うん。さっきそこですれちがったよ。」
 瀬戸君はサトルさんを師匠と呼んでいる。彼がこの店に通い始めた頃、僕はまだ『失われた時を求めて』の一巻も読み終えていなかったと思う。一巻は「スワンの家のほうへ」。慣れない文体に戸惑い、次から次へとどうでもいいと思われる話が続いて、小説の筋らしいものが何一つないことに苛立ちを覚えていたころだ。1000円払ってコーヒーを飲みに通う大学生というものが普通なのかどうか。僕が大学生だった頃はそんな贅沢をする金など持ち合わせていなかったし、喫茶店にもあまり行かなかった。大体、僕が大学生の頃に景気のいい話なんてあっただろうか。
 「絵はどうですか」ジャケットを脱いで、隣の椅子の背もたれにかけると、僕は瀬戸君に聞いてみる。人懐っこい笑顔で彼は答える。
 「僕は今まで絵なんて描いたことないんで、何もかも一からですよ」
 「どうして絵を描こうとおもったの?つまり、学校とか色々忙しくないのかな、と思って」
 スケッチブックを綴じて、隣にあるテーブルの上に載せると、瀬戸君は椅子をこちらに向けた。自然と僕も姿勢を正した
 「そうですね。忙しくないこともないのでしょうが、ちょうど夏休みだったんで、時間もあったし。絵は、普段からそんなに興味がなかったんです。でもね、この壁の絵、ちょっと面白いでしょう。」
 「面白い?」
 言葉を探すように瀬戸君は天井を見上げた。
 「なんていうのかな、メッセージ性もないし、印象に残らない。そこにあれば気にもならないし、明日なくなってても気がつかないかもしれない。そういう感じ。あってもなくてもあまり変わらないような、そういう絵だと思うんです。」
 「なんとなく分かるような気がする。」僕は壁の絵をゆっくりと視野の中で味わう。何の変哲もない絵、というのはおかしい。絵というのは、そこにあるだけでその存在をはっきりと誇示しているものであるべきだ。「でも、それは絵としていい作品ということなのかな?」
 「全然」瀬戸君は肩をすくめた。「師匠には悪いけど、全く大した絵じゃないと思います。でもね、邪魔にならないっていうか、本当に何も伝えることがない絵なんですよね。人物を描いた作品が何も伝えないなんてこと、あるんでしょうか?」
 瀬戸君も壁の絵に視線を向ける。僕はそんな風に考えたことがなかったけれど、人物を描いた作品というものは、必然的にそれが描かれた理由のようなものを内包してしまうのだろう。この絵にはそういう匂いのようなものが一切感じられない。確かに、不思議だ。
 「その、邪魔にならないというのが僕の好きなところというか、気になるところで。つまらない絵というんじゃないんですけど、空気みたいな絵でしょう。それでね、こんな絵を描く人はどんな人なのかな、と思ったんです。そしたら師匠だった」
 カランと乾いた響きで土鈴がなり、サトルさんが階段を下りてきた。
 「お待たせしました」スーパーのビニール袋には律儀にコーヒー豆が一袋入っている。他にはなにもない。
 カウンターの向こうへ廻り、手を洗うと、サトルさんは大きなポットを火にかけた。瀬戸君は、また今度といって、テーブルからスケッチブックを取り上げ、再び鉛筆を握った。仕方がないので僕もプルーストを開いた。紙をこする柔らかい鉛筆の音、お湯を沸かすポットの音、テンポの遅いピアノトリオ。

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大人になりましょう。

ボルヘスの短編に「記憶の人、フネス」というのがあって、すごく記憶力が良い、というよりも存在したすべて、起こったすべてを記憶しているという人が出てきます。これは悲惨ですね。すべてが共時的に存在してしまう世界。

僕はフネスとは全然違いますが、人と会ったり、言葉を交わしたときの記憶を強く保持しています。物語記憶として何度も反芻してしまう。だから、忘れられずに苦しいことというのがたくさんあります。

最近、いやなことを目の前から隠す努力の一環として、「携帯メール削除」を励行しています。それが残っていることと僕が記憶していることは別のことで、消してもいやな思いは消えないわけですが、「消去する」という行為に何か象徴的な意味がある。

「消去」が普段の僕にとってありえない行為だからこそ、意識的に忘れましょう、なかったことにしましょうと自分が努めていることが明らかになる。その声には、自分で耳を傾けてやるしかない。それから、いやな目に合わされても、仕返ししないという僕の中のルールに即してみてもこれは有効で、やり返す根拠みたいなものまで消去してしまうわけですから、なかったことにする効果は案外大きい!やり返すこと、ないんだけどね。

僕は捨てる努力やいらないものを切り捨てる努力を推奨しません。モノにしがみつくし、言葉にすがる。それでも、あくまで、僕の中で反芻して何度も自分を苛んでしまうもの、結果他の何も手につかなくなってしまうものへの対処として、そうすることを最近すすんでするようになりました。人を大切にするのも大人ですが、自分の了解できるルールで自分を大切にすることもまた。

「それが大人のすることか?」はたくさん世の中に転がっています。

それでも、それでも。

大人になりましょう。

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バウムクーヘンを食べつつ

Mastretta亀屋万年堂のバウムクーヘン「森のきりかぶ」が大変おいしい。スーパーなどで是非お買い求めください。ふわふわで、年輪の各層が口の中で柔らかにほどけるようです。

それを食べながらMastrettaというスペインのグループの音楽を聴いていました。非常にジャンクな音楽なのですが、何に分類されるのか、というと人力でクラフトワークをやって、ポップにした感じ。

Mastretta(マストレッタ)さんというのが中心になってやっている音楽なのですが、ちゃんと人間が演奏しているなあ。サックス2本、ギター、ドラムという意味の分からない編成でシンセも多用しつつ、漫画みたいな音楽をやっていて、曲自体にはすごさを感じないのですが、何故これをやろうと思ったかの方に関心がある。

実は数年前に日本にいらっしゃっていて、僕は見たことがあるのですが、生で見ると異常なかっこよさです。管楽器2本のインパクトと、この世の苦しみをすべて負ったかのようにカッティングで戦い続けるストラト男、あれ、ドラムってそういう楽器でしたっけ、というスーパーコンパクトなドラム(バスドラもスネアもすべてを一つのタムで!!!)。ライブのすごさはさすがにCDには入っていないのが残念ですが、あのライブの情景を思い出させてくれるので時折聴きたくなるのです。

タイトルは「Música de automóvil(自動車の音楽)」なのですが、実はアパートを出て、車に乗って長いドライブに出て、帰ってくるまで、という一つの旅の音楽なのですね。2001年の作品。

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バイオ燃料について、多少

Torreさわやかに空が晴れて、風は冷たくとも春のようでした。今年の冬は暖かいですね。二酸化炭素とメタンの排出量を削減しないとどんどん(とはいえ数年に一度は大雪か)進行してしまう地球温暖化。

便利な生活を捨てて今から原始的な生活をしろ、ということではありません。ただ、二酸化炭素排出を必死で抑制すればいいわけです。

最近注目を集めているバイオ燃料ですが、僕はかなりおかしな論理だと思っています。「燃焼して排出する二酸化炭素を、燃料の生産時に原料となる植物が吸収しているのでオーケー」というような話でしょうか。

一つは、原料となる植物の二酸化炭素吸収量が前倒しで計算に入れられていること。もう一つは、生産と消費の二酸化炭素吸収・排出の比(レイシオ)が明らかでないこと。

僕の想像では、仮に地球上で多くの燃料(自動車などに使用されるガソリン)を代替するには、地球何十個分、何百個分の農地(本当にトウモロコシでいいのか?)が必要になるはずです。加えて二酸化炭素循環サイクルが収支の合うものにはなりえないはずです。というのは、今考えられている生産量によって「事前に」吸収される二酸化炭素の量が排出されている二酸化炭素量を上回っているのなら、京都議定書,は要らないではないですか。どんなに草を植えても間に合わないから、排出を減らそうよ、ということなのだがな。

こうした燃料を作るためのプラントが開設され、しかし燃料を作るための原料を外国からの輸入に頼るとなると、その移動コストまで考慮に入れなければいけません(燃料を作る前に使うことを忘れてはいけません)。フードマイレージ同様、近くにあるものを使うようにしなければ、本末転倒になってしまう。

バイオ燃料を作り出すための技術は素晴らしいと思います。そして、燃料生産と消費とのバランスが途方もなくずれている世界でなければ、きわめて実用性も高い。ただ、メインのエネルギーとして使用することはありえないでしょう。

だから、バイオ燃料をすべての解決材料のように取り扱うのは止したほうがよいでしょう。すべてをきれいに解決してくれる方法はない。だから、地に足の着いたことをする必要がある。

自動車はガソリンを燃やして走っているわけですが、そのガソリン消費をまかなう事よりも、異なる動力を導入することを検討した方が良いと思います。そして、どの選択肢をとっても電力を使用して走行する車にしなくてはいけない(既に走っていますね)。

1.充電電池を積載する
2.内部発電装置を積載する

まず電力源は上のいずれかになるわけです。ガソリンスタンド同様電気を充電するスタンドが出来るのか、家のガレージや駐車場で車をコンセントにつなぐのかは分かりませんが、大量に、そして長期に電力を備蓄することの出来る電池が必要です。あるいは、内部発電装置を積むことになりますが、ミニ原子力発電装置を搭載して事故が起こると目も当てられないので、こちらの選択肢はなしでしょうか。

ハイブリッド車が既に世に現れていますが、いきなりすべてが電気で動く車を作るのは大変ですし、ガソリン走行中に充電できるというアイディアも素晴らしいので、こういう移行期の意欲的な製品がたくさん出て来てほしいです。

そして私達も長距離を移動するということがどんどん少なくなるようにしなくてはいけません。長距離異同(旅行、輸送)は今後ぜいたく品になるでしょう。燃料をより少なく使うようにしなくてはいけません。気負わずにちゃんとできることをしたいです。

 

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口述試験のこと。

Paloma先日の口述試験のことをまだ書いていませんでした。結果が出るのがまだ先なので、色々と書いても落ちていたら恥ずかしいな、と。でも、覚書程度に書いておきましょう。何かの参考になるかもしれません。

大学院の修士修了を判定する論文の審査は博士入学の試験を兼ねています。もし他に学位をとることがないならば、最後の学術試験?(英検の1級をとったときに、もうこの試験を受けることはないのか、と変な感傷を憶えましたが、)いえいえ、人間生きていればいっぱい試験を受けさせられてしまうので、心配には及びません。

2月5日に口述試験がありました。僕の順番は午後1時40分からだったので、午前中は家でのんびりとしてから出ました。食事がのどを通らない、というわけではないですが本当に緊張して気分が悪かった。事前に連絡した友達もそういうことを言っていました。

少し早めに着いて、同じく試験を受ける友達に会ったり、提出する資料をコピーしたりしてそわそわしていました。時間が来て、部屋に呼ばれ、おずおずと。

僕の所属している専攻では3人の先生が審査にあたられます(学部のときは2名の先生でした)。お二人は比較的近い分野の先生、もうお一方は別の分野の先生ということで、最後の先生が誰になるのかは事前には分かりません。部屋に入って初めて分かるという。僕の場合は18世紀という同じ時代をご専門にされている先生だったので、面識もありちょっと安心しました。

さて、質問の内容ですが、論文の主題、研究方法、内容、叙述に関すること。それから僕の場合スペイン語のテクストを問題としているので、それを取り上げる際に翻訳して引用するのですが、その問題点を指摘されました。要するに、論文の中で訳し間違いがあって、「そういう意味ではないですよね?」と聞かれます。それをおっかなびっくりその場で考えて正しい訳を答えるのですが、スペイン語数箇所、ラテン語1箇所でした。実は大学院の入学試験のときもこれがあって、その時はさんざんでした。今回は、まあまあ。

論文の主題等については余り詳しく書いても楽しくないので割愛しますが、論文中で「○○という特徴がある」と述べているものの具体例を挙げてください、ということや、○○についてはどう思いますか、という質問があり、付け焼刃でなければ(あるいは付け焼刃でも)考えて答えられる質問がなされました。これは人によって全然違うと思います。

「40分間はあっという間」と友達が言っていましたが、40分より少し前に終わった気がします。ふらふらとキャンパスを歩いて、友達とお茶を飲んで家に帰って、着替えて、犬の散歩をしてという一日でした。

Ukaru 合格だといいな・・・。

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ボンタンアメ

ボンタンアメをごぞんじでしょうか。

ボソタソアメではありません。ボンタンアメです。

僕は生涯でほとんど口にしたことがなかったのですが、先日いただきました。大きいの。

Bontaname_1 最初はこの大きなパッケージの中に、オブラートで包まれた巨大なボンタンアメが入っているのかしらと胸をときめかせたのですが、左にある普通サイズのものが横に4つならんで入っていました。

そうよね。

そうだよね。

とにかくロゴのカタカナのセンスがいい。この写真ではいまひとつですが、背景の群青は素人では出せない色だと思う。セイカ食品株式会社さんには超人デザイナーがいるとみた。

知らなかったのですが、お餅(もち米)が入っているんですね。ただの飴じゃない。この他にお茶風味の製品(兵六餅。パッケージが渋い。秀逸!)もあったりして、なかなかどうして、顧客のハートをがっちりつかんで離しません。

僕の中では昔からあるおやつという印象。懐かしい味でした。あまり食べたことはないのですが。


これからも頑張って子供の好きなおやつをつくり続けてください!!

ごちそうさまでした!

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the first cut is the deepest

the first cut is the deepest

 珍しく先客があった。20代と思われる男と30代と思われる女が店に一つしかないテーブルで言葉も交わさずにじっとそこにいた。平日の午前中は決まって僕ぐらいしか客がいないのだけれど、その二人にしても初めての客というわけではないようだった。
 昨日しおりを挟んだページを開いて僕はプルーストに沈潜する。『失われた時を求めて』は一文が非常に長く、普通なら文が途切れるはずのところでもまだ続いていることがある。加えて、作家自身が随分以前に出てきた事柄や、随分先に進まなければ名前さえも分からないものを無造作に陳列する。けれども、意味のないことは書かれていない。必然性があってそこにそのように並べられていることなのだ、と思わせるようなところがある。最初は戸惑うけれど、慣れてくると案外心地よい。
 2杯目のコーヒーを飲み終える頃、僕は壁にかかっている例の絵に目を向けた。テーブルの女性が口を開いたのはそれと同時だった。
 「あなたは忘れてしまうかもしれないわ」
 低く、耳に心地よい声だった。男は女の右手に自分の左手を重ねている。今言われた言葉が、まるで知らない国の言葉であるかのように、いかなる意味も理解できなかったかのように女を見つめている。
 「あなたが忘れてしまうかもしれないわ」しばらくして、女が再び言った。
 僕が視界の片隅で捕らえている二人の姿は彫刻のように、じっとしている。そしてこの店にあるものもすべて動きを止めているように静謐を浮かべている。先ほどまで流れていたリヒャルト・シュトラウスもいつしか鳴り止んでいる。『四つの最後の歌』。サトルさんは別の曲をかけようともしない。僕はプルーストに視線を戻したが、すべての神経は次の言葉を待つように耳に集まっている。
 「あなたを忘れてしまうかもしれないわ」
 女はゆっくりと、書かれてある言葉を読み上げるようにそう言った。あなたは忘れてしまうかもしれないわ。あなたが忘れてしまうかもしれないわ。あなたを忘れてしまうかもしれないわ。あなたは。あなたが。あなたを。
 「だからなの?」ようやく男が口を開いた。初めて聴く彼の声は、少しうわずっている。涙を浮かべているのかもしれない。「だから僕達はもう会えないの?」
 「そうよ」
 「そうか」
 「そうね」
 「そうさ」
 「このままいつか消えてしまうものなら、深く深いところに私の記憶をとどめてほしいの」
 「そうしてあなたも深く深いところで、僕を苦しめたことを記憶しながら、あなた自身を苛んで生きてゆくの?」
 「そうよ」
 「そうか」
 サトルさんがようやく音楽を替える。キャット・スティーヴンス。ザ・ファースト・カット・イズ・ザ・ディーペスト。最初の傷が一番深い。分かってる。最初の傷が一番苦しい。それが最低のものであったとしても忘れられないから。忘れてしまっても、それが最初であったことを変えられないから。
 「それでも」背後から聞こえる声だけで、何故か僕は男が女の手を放したような気がした。ザ・ファースト・カット・イズ・ザ・ディーペスト。「そうすることで、僕達は」ザ・ファースト・カット・イズ・ザ・ディーペスト。その声は先ほどよりも明るい気がした。
 「そうね」
 「そうさ」
 僕は本を閉じて席を立った。カウンターでサトルさんに1000円払って店を出る。土鈴が乾いた響きで僕を見送った。ポツリポツリと細かな雨が降り始めていた。僕は本が濡れないように小走りで帰った。

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Food for thought

Food for thought

 3席しかないカウンターのくすんだマホガニーを、丁寧に乾拭きしているサトルさんの背中が見えた。からりとドアにつけられた土鈴が低い音を立て、僕の靴音がそれに続く。サトルさんは振り向かずにいらっしゃいと言った。店にはジーノ・フランチェスカッティの奏でるベートーヴェンのヴァイオリンソナタが流れている。『春』だ。カウンターを避けて一つしかないテーブルの方に腰を下ろす。この店は客席が5しかない、商売っ気のない喫茶店だ。
 いや、喫茶店ではない。そして、この店は決して狭いわけではない。当初は14の席があり、今でもこのテーブルと壁際のアップライトピアノの間には随分とスペースがある。その空間は何のためにあるのか、というと似顔絵を描くためにあるという。ここは、似顔絵を描く店なのだ。
 似顔絵屋という看板がどれほどの集客力を持つものなのかは分からないが、実際のところこの店には看板もなく、常連客の中で似顔絵を描いてもらおうとここに足を踏み入れた人間はいない。当初14あった席はサトルさんが店を始めてすぐの頃に以前の店主が―こちらは全うな喫茶店を営んでいた―そのままにしていたいくつかのテーブルがあったころの名残りで、内装を整えながらサトルさんはそれらをリサイクルショップに売ってしまった。
 客席の少ないこの店にやって来る人は、いかにも喫茶店というこの店の風情に騙されて入って来て、ここが似顔絵屋であることに気もつかずコーヒーや紅茶を飲んでお金を払っていった人たちであり、払っていく人たちである。大勢が訪れる場所でもなく、一人でひっそりと本を読んだり、原稿を書いたりしたいという、ある意味ではありふれた孤独な人たちが集まってくるようだ。
 サトルさんの店(喫茶店ではなく似顔絵屋)ではコーヒーが供される。つまり、コーヒーしか供されない。メニューもない。喫茶店ではないからだ。値段は決まって1000円で、はじめて来た人は驚き、二度と来なくなる。けれど、サトルさんの入れるコーヒーは何故だか美味いので、やって来る人は何度でもやって来る。道具が特別というのでも、豆が特別というのでもない。強いて言えばコーヒーカップが古めかしくもかわいらしい装飾的な品だということだが、茶器の魅力を差し引いてもサトルさんの淹れるコーヒーは美味い。
 サトルさんが店を始めて八ヶ月になる。時々どこからか大きな荷物が届いては、空間的にはゆとりのあるこの店の片隅に置かれ、いつしか消える。そういえば、アップライトピアノも壁の絵も最初はなかった。その絵は似顔絵ではない。幻想的な風景のなかで女性が一人立ち尽くしているという絵だ。写実的でもなく、下手糞なシャガールのような絵だが、見慣れてしまうと気にかからなくなる。ようするに、大したことのない絵が一枚かかっている。
 汚れてもいない店内の掃除を終えると、小さなプレーヤーの前でサトルさんはヴァイリンソナタのヴォリュームをゆっくりと絞り、やがてCDを停止させる。そう多くないCDの棚から一枚とって入れ替えると、スピーカーからジャマイカのものではない、硬質な響きのレゲエが流れてきた。多分イギリスのミュージシャンなのだろう。
 カウンターの後ろに回ったサトルさんはフィルターに豆を入れ、ゆっくりと湯を注ぎながらコーヒーを淹れる。特別なことは何もしていない。挽き立ての豆を使っているというわけではない。なぜなら時々サトルさんは「ちょっと出てきます」と言って、豆をスーパーで買ってくるのだから。ただ、サトルさんがコーヒーを淹れると、ある種の魔法が含まれるのだ。
 少し黄味がかった白磁のカップでコーヒーが運ばれてくる。テーブルに移しながら「ただのコーヒーです」とサトルさんが言う。「ありがとう」と僕が答える。いつものことなのだ。
 僕はここでコーヒーを飲みながら、文庫本になった『失われたときを求めて』を根気よく読んでいる。やっと3冊目まで来た。気がついたら夏が終わっていた。カップが空になるとサトルさんが器を下げて、おかわりを持ってきてくれる。この店では何杯飲んでも値段は1000円だ。3杯も飲めば、あるいは元は取れているのかもしれない。
 もう文字が頭に入らなくなると僕は視線を上げて、下手糞なシャガールもどきの絵に目をやる。遠近感が崩れ、平面的な背景の上で背の高い女性が立ち尽くしている。ただ立ち尽くしているとしか言いようがない。手には何も持っていない。長いスカートにブラウス、どちらも控えめなデザインで特徴がない。肩までの黒い髪。西洋的な顔立ちに見えるが、絵そのものが稚拙なので詳しいことは窺い知れない。
 「プルーストはある一時期集中して、すべてをそれに捧げるくらいの覚悟を持って読まないといけないの」と妻だった女性が言った。
 最近になってそのことの意味が分かった気がする。途切れ途切れに読むのと一時期集中して読むのとでは印象が異なるのだろう。それは急いで読めということではない。現に僕は季節を跨ぎながらゆっくりとページをめくっている。そうではなくて、途中間を空けて読むことで、大きな小説のうねりから抜け出てしまうことがあるということだ。この小説はまるで脈絡などない夢のように連想の連続だから、時折手にとってページをめくっても十分楽しめる。それでも、文章の息づかいというようなものに耳を澄ませる喜びは損なわれてしまうということなのだろう。そうはいっても、妻だった女性は今では妻ではないので、確かめようがない。
 昼を過ぎたころ僕は本を閉じて席を立つ。カウンターでサトルさんに1000円渡して店を出る。昼は何をして食べようかと考えながら、ゆっくりと家へと帰ってゆく。

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明日は

明日は博士進学のための口述試験(面接)の日。

論文そのものへの質疑応答と、進学した場合の研究計画について質問されると思いますが、どちらもかなり厳しい内容です。

それから、大層心が弱っている。もう、ダメかもしれないと何度も心でつぶやいて、それを何度も打ち消す。ダメでも、仕方ない。ダメでも、やっぱりここにいるのだと。This is not the worst...と慰めにもならない慰めをエンドレスで繰り返す。

気がついたらさっくり体重が減っていて、ちょっと笑った。アホか、僕は。

先日、小説の中で湯豆腐を食べている件を読んでいたら、自分でも食べたくなりました。掬うに際して、崩れてしまいましたが、青海苔を振りかけてみると想像以上に美しかったです。Yudoufu
「掬」という字は僕をドキリとさせる。

掬ぶ手の雫に濁る山の井の
飽かでも人に別れぬるかな
(紀貫之)

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HUGO BOSS BOSS

Boss自分の人生を彩るにふさわしい香水に、早く出会えた人間は幸運であると思います。僕はこれ。

って、空ボトル?うん。新しいものは年末におろしました。ちょうどいいタイミングでなくなった。

気分が落ち込んでいるときに、僕を元気にする香りです。

HUGO BOSS HUGOラインに比べてオジサンぽい匂いが多いBOSSラインですが、唯一の例外がそのフラッグシップというべきこれなのです。面白いですね。甘く、気分が悪くなりそうに、甘く。一切の攻撃本能が削がれる香りです。そういうこともあってこれがとてもすき。

ある方は香水を浴びるように使うそうです。ははは。

香水は他人のために使うのではなくて、自分のため。目に見えないからこそ、尊い。記憶に刻み付けられるからこそ、大切にしたい。

自分の人生の香水は、

心が弱ったときのため。

大事な用事がある日のため。

あるいは、

恋人に会いに出かけるあなたのためにあるのでしょう。

気のめいることがあったとき、

悲しいとき、

心と体がバラバラになってしまったとき、

自分が許せる自分に回帰するために、

香りをまとうのでしょう。

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通学用ヘッドフォン

今日は満月ですごい月です。

赤くて、丸くて、大きくて。

いろいろなことに疲れてしまいました。

そして、体勢を立て直すために

いろいろなことに整理をつけようと思いました。

客観的に自分を見る努力はいつも必要です。

分からなくなったら、順番を追って、言葉にしながら、論理的に。

Pioneer

そういえば、スコラ哲学者を揶揄する表現に「エルゴの先生」というのがある。これは、三段論法の中に出てくる「・・・なので(ergo)」という表現から。彼らが多用する、ということなのでしょうね。でも、なぜ、どうしてに形を与えていかなくては。原因と結果を分離する努力の最中。

ergoを多用しながら自分の声に耳を貸さなければ。

 

 


 

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