さようなら、と言って電車のドアが閉まる。

音楽ファイルの整理をしていてふと、先般物故されたある方を思い出したのは、Maria Ritaの名前を目にしたからで、東横線に乗って帰る途中、僕たちは彼女の歌と声について話したのだった。

訃報に接した後その業績などをみてもこちらの不勉強のせいであまりぴんと来るものがなく、そのたわいもない話の場面がかえって生々しく思い出される。研究に関する領域ではなく、研究者としての誠実さ、そして教育者としての態度にこそ教えられることが多くあったはずなのだろうけれど、その機会を永久に失ってしまっている、今。しかしご存命であってもそう話す機会はなかったので、もともとそんな機会はなかっただろう。

さようなら、と言って電車のドアが閉まる。

書いたものにその人らしさ、みたいなものが感じられるテクストにふれるとき、やっぱり、と何についてだかわからない「やっぱり」を感じて、安心したりする。

ぼく、頑張りますから。

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採点終了

すべての授業の試験ならびに採点が終了、成績をつけさせていただく。今学期も皆さんよくがんばりました。僕のビクーニャもよくがんばりました。

楽しい春休みをお過ごしください。僕ものんびりたのしく過ごします。いつか、また、どこかで。

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個人的なメモ(演劇的包摂について)

アンドレ・ヴィリエ『演劇概論―その理論と実際』(白水社、1960)にこういうことが書いてある(原題はLa psychologie de l'art dramatique)。これを僕は演劇の包摂機能、包摂作用と呼んでいいものと考えている。一方、劇場の閉鎖空間としての性質を明晰に把握している珍しい証言でもある(当然過ぎてだれも言明しないのかも知らん)。ただし、原文を確認するために後日早稲田大学に行く必要がある(早稲田中央図書館、B1研究書庫、文庫21P0044)。

上演用の建物と物理的条件は、感動の交流と一種の精神の開放につごうよくできている。閉ざされた場はつねに、精神的な伝播には絶好の条件を備えている。人間の一集団がひとたび劇場というるつぼのなかにおかれると、その結果、どんな外的な作用も、目からも耳からも集団の気を散らすことはできなくなる。外の音も隣人の会話も聞こえない。視線は舞台に集中しているはずである。客席が闇の海に沈んだときは(聴覚は研ぎすまされるものだ)、舞台だけが唯一の明るい岸辺となる。舞台の額ぶちは注意をそらさないように案出され、構築され、彩られている。(ヴィリエ『演劇概論』79ページ

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学びたい言語を学びなさい。

ある言語を学ぶとして、その動機(インセンティヴ)が何であるのか、ということは大事だ。逆に、動機(モチヴェーション)がない人は語学の勉強に向かない。

英語を話せると10億人と話せる、わけではない。僕はスペイン語を話せるけれどスペイン語で話す友達はごくわずかしかいない。なので、使用人口や領域は言語を話すことの理由付けにはならない。さらには、この言語を学ぶとこういうメリットがありますよ、という売り文句は普通に言語を学んでいる感覚としてはおかしい。言語は勢力の差こそあれ、一応平等というか、それぞれに自立したシステムであるので、どれを勉強したって面白いし、難しいはずなのだ。

だから、スペイン語は話されている国の数が多いから、というのはぜんぜん的外れな売り文句であるし、スペイン語の勉強が簡単だ、というのはデマだ。僕はいまだにわからないことがいっぱいあって、辞書を引かない日は一日としてない(これまでに三冊買い替えている)。

では、いくつかの言語の選択肢からある言語を選択する人々に対して、何を言えるのだろうか。スペイン語を選んでください、などと僕は宣伝、喧伝するつもりはないので、簡単だというのはうそですよ、何億人とも話せませんよ、ということははっきりと申し上げる。スペイン語圏とのビジネスチャンスも寡少なので、その線もまったく押すつもりはない。スペイン語で食べていける人間の数は限られている。たとえば、僕は・・・まあ、いいや。

その上で、選ぶきっかけがあるとすれば、言語自体にあるのではなく、選ぶ人に(当然だけれど)あるのである。

じゃあ、その材料というか判断をするためのデータを差し出せ、といわれると話が元に戻ってしまって情けない次第。

学びたい言語を学びなさい。でもそれがたまたまスペイン語だったとしても、絶対に損はしないと思うよ。そのことだけだ、僕にいえるのは。

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こんなときは。

きのう、きょう、雪が降るくらい寒い。
タクシーを待ちながら風邪をひいたみたい。
乾燥しているので、紙などで指先を切って痛い。
タバコを吸う人とご一緒したのでのどが痛い。

こんなときはおとなしく布団に入って本を読むのがいい。

寒中お見舞い申し上げます。

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詩の研究を標榜する人はどういうわけか印象批評に陥りやすい。うんざり。そして、それをよしとしてしまえる環境にもうんざり。そんなの研究でもなんでもない。

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かっこいいもの。

在日ファンクの『爆弾こわい』のPVがかっこいい。

そして、『アンダルシアの犬』を思わせるシーンがある。

なんだ、これは。そしてトロンボーンが吹越満に似てる。

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口角上がる。

週に3回出講(授業に行くこと)していたのだけれど、すでに2つの曜日で期末試験が終了。学生の皆様はお疲れ様でした。1年間お付き合いいただいてありがとう。

試験答案を僕はなるべくその日に採点するようにしているのだけれど、時折書かれているメッセージに勇気付けられる。さらに珍回答を見ながら、口角上がる。

次の動詞の意味を書きなさい:

traer ( とらえる )

caer  ( かえる )

嫌いじゃない、こういうの。正解はそれぞれ「持ってくる」、「落ちる、倒れる」でした。残念。

目下BGMはこれ。リヒテルとカラヤン、すごい録音ですよ、これは。かつお買い得です。あと5枚同じものを買いたい。それくらいいいです。

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睦月半ば

センター試験二日目。とにかくこの頃は寒くて、雪が降ることも多く、受験生の皆さんにとっては難儀なことです。これまでの頑張りを踏まえて、最高の結果が残せますように。

大学の(授業の)試験もすでに始まったり、終わったりしています。こっちも頑張ってください。落とすための試験はやっていません。でも、それでも落ちちゃった場合は(まあ、普通あんまりそんなことはありません)、「たぶんもう一回やったほうが絶対君のためになるよ」という期待だと思って受け止めてください。

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1月はこれを読んでほしい。

嗚呼自分もこういう授業が受けたい、そしてこういう授業がしてみたい、と僕が身をよじって耽読する『夢十夜を十夜で 』。高山宏は顔がいい。かつてトレードマークのサングラスは近頃みないが、おかげでその顔を見ることが出来るようになった。高山宏は声がいい。だから教室のどこに座っていても地震わせるような低音、心震わせるような声量とダイナミックレンジの大きい発声で、居眠りする暇を与えない。聴き惚れるとはこのこと。高山宏は文章が抜群にいい。何をいまさらと思うかもしれないけれど、高山先生の本を読んで知識が増えたように錯覚してしまうとき、読者にあれだけ膨大な知識をどうやってコンパクトに伝えているのか、ということはもっと意識的に再検討されてしかるべき。内容と形式は車の両輪さね。

さらにこの本は装丁がいい。手にしっとりと落ち着く。ひとつだけ文句を言わせてくれ、8ページ下段4行目『メヂューサの知』は『メデューサの知』。カバーではちゃんと「デ」になっているのに、どぎゃんこつ。

僕の授業を履修する学生さんは必読。羽鳥書店在庫がなくなる前に予約ッ!

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新成人おめでとうございます。

国民の祝日に関する法律、いわゆる祝日法の改正によって成人の日は

成人の日 一月の第二月曜日 おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。

となり、連休を作ることが出来るように調整することとなる。1999年までは1月15日で、小正月にやっていた。休みが増えて、親元を離れている人なども帰省がしやすくなった。

いま20歳の方たちは、大学生だったり、仕事をしていたり、さまざまだろうけれど、不景気や災害に見舞われた折に成人して、将来も不安かもしれない。でも、どの世代の人も不安は持っていたのだし、大学生についてはまだまだモラトリアム期を謳歌できるので、悲観してほしくない。というか、たぶん悲観してないだろう。誰かのせいで、と自分の身上を省みたりすることはきっとないだろう。

状況としては社会、経済的な停滞に見えても、いやいやどうして、昂進しつつ足かせとなる状況があるわけなので、これを成長と呼ばないでどうするか。自分は大学に行くので、大学生をよく目にするけれど、もっと遊んでほしいなあ、と感じることがある。自分だってそれほど盛大に遊んだわけではないのだけれど。それと、今の円高を考えると、外へ出るというのはとてもいい選択だよ、と思う。それは別に大学生に限らないのかもしれないけれど、海外旅行でも留学でも、ぜひ行ってほしいなあ。無責任なことをいうと。

新成人おめでとうございます。いいことも、わるいことも、これからたくさんあります。それを愉しめるといいね。ぼくもそう努めます。

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背割れするまで・・・

「左利きの人って大好きよ。ほんと。だって、あなたたちは右利きの人間によって作られた世界で生きていかなければいけないでしょ。あんたたちの人生は芸術作品、起きてから寝るまでというものルールに、支配者に、カノンに逆らわなければいけないって考えればなおさらよ」
「そんなこと思ったこともなかったわ」

こんな面白い会話があるミジャスの作品Dos mujeres en Praga(『プラハ、女ふたり』)を来年の講読テクストにしようかな、と考えています(まだ決定ではないのだけれど)。

2002年Premio Primavera受賞っていっても、まあよく分からない。2008年国民文学賞に輝いたミジャスの長編小説を読みます(去年は短編を読んだ)。

僕の授業はさっくり訳がつくところがメインではなくて、読んでも分からない箇所や、なるほど、こうも言えるが別の言い方でも書けたことをなぜこの表現を使って書いたのか、ということを考える授業なので、別に文学とか興味ないし、手堅く単位を取りたい、という人には一切おすすめできません。

単位なんかいらねえ、一緒にミジャスの意味不明世界におぼれたいという男女、ミジャスなんか知らねえ、とりあえず面白い本読ませろ、という老若にのみおすすめです。背割れするまで、指紋がなくなるまで辞書を引く覚悟でお越しください。

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あと2冊読んだら。

舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日〈上〉 』ならびに『ディスコ探偵水曜日〈下〉 』新潮社、2008読了。詳細というほどでもない詳細はこちら。あと2冊本を読んだら自分の作業に帰る。

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よい一年をお過ごしください。

Indicador
毎日晴天に恵まれ、おだやかなお正月でした。

昨年末に33になって、数えでは34です。そのうちあっという間に40歳になる。ぼくの中では知的にきちんとした仕事が出来るのは50くらいまでではないかという気持ちがあります。もちろんその後も継続はすればいいけれど、それは余禄のようなもの。すると残された時間は短いなあ、と思わざるを得ない。

情けない話ですが、去年の10月ごろから、なかなか手のつけられない仕事などもあって、そも地に足が付いていない感がつよくありました。お正月がぼくはたいそう苦手なのですが、そういった停滞をリセットする契機としたいと思います。そういう折に、ちゃんとがんばっている人の姿をみると、もちろん反省するところ頻りですが、自分もしっかりしないとなあ、ときっと思えるはず。そしたら、そういう話やお誘いがタイミングよく。うん、こういうときは流れに身を任せてみるものだと思う。たぶん、最後にはうまくいくようになってる。そうでなきゃ、おかしい!

みなさまもどうぞよい一年をお過ごしください。あと、車に気をつけてね。

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1812年?1820年? 年号とワクチンのはなし。

スペインをひとつのネイションとして志向することと、その中に個別の構成要素を認めることは相反するものではない。これはスペインに限らずそうだと思っている。これを裏返すと、たとえ一枚岩であるという主張がなされる集団においてさえ、かならず異分子が含まれることになるので、差別や格差はなくならない。というのも、それを併せ持っていることが前提というか要件であり、さらに、集団の結束を強めるためにも、この異分子と目されるものは存在したほうが良い。

それはさておいて、スペインとはこういうものである、という規定が1812年のカディス憲法の中に出ていて、10条に「アラゴン、アストゥリアス、カスティーリャ・ラ・ビエハ・・・」と延々と地名が挙げられていくのだけれど、これはとりもなおさず現在の県や州などの単位、さらにはかつての王国、伯領や行政単位の名残であり(海外領、新大陸の領土も含まれている)、これを単に地名の列挙と考えるのは正しくなくて、「スペインとは」というその瞬間にスペインはその個別の構成単位を列挙することでそれぞれが異なるものであったことを明らかにする。そう思っていたら、最近別の研究者も同じ箇所を引用して同じことを述べていて、意を強くした。

しかし、気になったことがある。そのひとは「1820年の憲法には(En la Constitución de 1820)」、と書いているのである。カディス憲法は1812年に出来るのだが、フェルナンド7世が廃止。その後1820年ラファエル・リエゴの蜂起によって自由の三年間が達成されて、同憲法も復活する(再び廃止されて、さらに1836年にも復活)。たぶんこの二つ(あるいは三つ)の内容は同じはずなのだが、なぜ1820年という年のほうを挙げたのかがちょっとわからずにいる。1812年の公布の後、1820年にもあらためて発行(出版)、発効されていることは事実であるにしても。この憲法は歴史上重要性が高いものなので、この時代をやっている人の頭の中では1812年という年号は自動的に出てくる。だから、1820年という年号を挙げたのは故意に違いない。しかし引用の前後の文脈をみると1812年のものとして紹介したほうがしっくりくる論調な気がする。

ひとつだけ、気になるエピソードがあがっていて、もしかするとこれが1812年より後のことなのか、と思うところがある。その整合性のために1820年の年号を挙げたのか?そうだとしたら、正しくはないが、説明はつく。そのエピソードとは、スペイン政府の天然痘ワクチン普及の試みで、国内だけでなくアメリカ、アジア、アフリカにもそれを広めていったという話が出ている。スペインがイベリア半島の外、全人類の福祉のために世界へ旅立ったという心温まるというか、ちょっと我田引水めいたエピソードなのだけれど、桂冠詩人(マヌエル・ホセ・)キンターナの詩なんかも引用されていて、そこそこ感動させられる。ジェンナーもアレクサンダー・フンボルトも大絶賛した。

天然痘のワクチンをエドワード・ジェンナーが発表したのは1798年(ワクチンについては、ジェンナーの発見に先立ってそういうものがあるということは18世紀中ごろにはちゃんと知られていた。たとえばチェルケス(サーカシア)に関して書いたくだりでヴォルテールも言及している。)。ヨーロッパで広まったのは19世紀にはいってから。これがスペインの話としていつのことなのか、というと、単純にワクチンが国内に広まった年号ではなくて、ワクチンを世界に広めるための一大事業として王家の支援を受けて人類愛を謳ってワクチン普及の大遠征を行っていることが知られる。スペイン人医師フランシスコ・ハビエル・バルミスが世界中を回ったものだが、1803年に出発、1814年に終了している。この支援をしたのは王家であり、具体的にはカルロス4世が裁可している。

これを踏まえると、やはり前掲の年号は1820年ではなく、1812年のほうが正しい気がするのである。内容は同じだからどちらでもいいといえばそうだが、あえて1820年を挙げる必要はない。

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ずっと、たくさん

用事があって出かける。道がすごく混んでる。道すがら小沢健二さんの『LIFE 』を聴いて。「ドアをノックするのは誰だ?」はクリスマスソングなのだ。

僕はずっとずっと一人で生きるのかと思ってたよ。

けれど、そう思っている人は案外たくさんいるんだろう。とすれば、これも陳腐な感慨なのか。勘違いなのか。

話題の本、『ビブリア古書堂の事件手帖 』を読んでいる。世の中には本が好きな人と、本が好きだといいたい人と、本が好きでない人がいる。本が好きだといいたい人の心をくすぐるものがこの本にある。僕もたくさん本が読めたらいいなあ、と思いつつ読めずに大人になって、やっぱりたくさんは読めないでいる。だから、心うごかされる、のか。

昨日年内の授業が終わり、僕としては仕事納め。授業で映画を見ることがあるのだが、たいていは一回で見終わらない。かといって、二回全部見るわけでもない。このたびは残った時間にもう一本『アンダルシアの犬 』を見る。映画史に残る作品だが、良い悪いの批評の彼岸にあり、まあこういうのがありますという知識だけでOKだ。だから繰り返し見ている人はたぶん少ないだろう。僕は10回くらい見てる。スペインに関係なくてもいいなら『カリガリ博士 』が見たいなあ、と思う。でも、『アンダルシアの犬』だってスペイン語は関係ないのだ。字幕もフランス語だし。

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